トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) キャベツ汁
キャベツ汁
後家の百姓婆さんの所で、二十になる村一番の働き者の伜が死んだ。
その村の女地主の奧さんが、婆さんの不幸を聞いて、葬式の日に訪ねて行つた。
婆さんは家にゐた。
婆さんは丁度小屋の眞中の、卓子の前に棒立ちになつて、左の腕をだらりと下げたまま、右の手でのろのろと、煤けた壺の底から實(み)のないキャべツ汁を掬つては、一匙一匙と口へ運んでゐた。
婆さんの頰はこけ、顏色は暗かつた。眼は眞赤に泣き腫(はら)してゐる。でも身體だけは、教會へ行つた時の樣に、眞直に伸してゐる。
「まあ、まあ」と奧さんは心に思つた、「こんな時に、よくも食べられること。本當にこの人達は、みんななんてがさつな心の持主だらう。……」
そして奧さんは數年前に、生れて九ケ月になる娘を失くしたとき、悲嘆のあまり、せつかくペテルプルグの郊外に見附けて置いた立派な別莊を斷つて、そのひと夏を町に送つた事を思ひ浮べた。
婆さんは相變らず、キャベツ汁を啜つてゐる。
奧さんけ堪へかねてたうとう、「タチヤーナ」と言つた、「本當に、呆れますね、お前は一體、生みの息子が可愛くはないの。よくもまあ、物を食べる氣になれるのね。そのキャベツ汁が、よく咽喉に閊へないことね。」
「ヴァーシャは死にました」と婆さんは小聲に言つた。すると悲しい淚がまた、こけた頰を傳はつた、「つまりは私も死んで、生き埋めになつたと同じことです。でも、この汁を棄ててはなりませぬ。鹽氣が入つてゐますによつて。……」
奧さんは肩を竦めたきり、默つて出て行つた。彼女にとつて、鹽ほど安いものは無かつたから。
一八七八年五月
[やぶちゃん注:「閊へない」「つかへない」。
「竦めた」「すくめた」。]
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