イワン・セルゲーエヴィチ・ツルゲーネフ作「散文詩」神西清訳抄(改訳分十一篇)始動 / いなか
Стихотворение
в прозе Иван Сергеевич Тургенев
イワン・セルゲーエヴィチ・ツルゲーネフ作「散文詩」神西清訳抄(改訳分十一篇)
[やぶちゃん注:私は既に九年前の二〇〇八年十一月二十九日に昭和二六(一九五一)年角川書店刊のツルゲーネフ作・中山省三郎譯「散文詩」を底本として同作全八十三篇を全挿絵入りで公開している。実は私はその前に所持していた一九五八年刊の岩波文庫版の神西清(明治三六(一九〇三)年~昭和三二(一九五七)年)・池田健太郎訳の方の「散文詩」を若い友人に贈ってしまったのであった(新字新仮名で若者に読み易いという一点でプレゼントしたのであった)。その後、実は同書は品切れとなっていたため、そのまま時が過ぎたのであるが、先日、久しぶりに本屋を覗いたら、同書が復刊していたので、久しぶりにそれを手にし得たのであったが、その池田健太郎氏の解説によれば、神西清は戦前の昭和八(一九三三)年、三十歳の時に、岩波文庫で「散文詩」全篇訳を刊行している(私は所持していない)が、『御自身の詩境の円熟と、さらにはわが国語の変遷を考えられて、改訳の必要を痛感されていた。しかし多忙と、とりわけ、長い闘病』(神西清は一九五六年より舌癌の治療を受けていた)『のため、十一編を改訳されただけで世を去られた。この十一編は名訳者。神西清先生の晩年を飾るにふさわしい名訳と思う』として、その神西清訳になる十一篇の題名が掲げられてある。即ち、この一九五八年刊岩波文庫版「散文詩」の中のそれら十一篇は純粋に神西清の訳であることが判るのである(それ以外は池田氏が神西の旧訳を元に改訳したと解説で述べておられる。因みに、池田氏の著作権は存続しているので、それらは電子化出来ない)。
何時か、旧神西清訳のそれを手に入れ、全篇の電子化を試みたく思うのであるが、殆んど家を出ることがない私がそれを入手するのは、何時になるか、判らぬ。さればこそ、まず、この復刊したものの中から、その神西訳十一篇を抜き出して電子化することとした。挿絵は中山省三郎譯「散文詩」で使用したものを附した(但し、挿絵は原典自体、附されていない詩篇もある)。
原作の書誌は中山省三郎譯「散文詩」の私の冒頭注を参照されたい。
なお、一部は注がどうしても必要な詩篇があるが、それは概ね、中山省三郎譯「散文詩」で中山氏が附しておられ、さらに私が注したものあるので、そこから引いたものもある。基本、リンク先の当該詩篇を併読されたい。新たにここで禁欲的に注も附した。底本の注は池田氏の附されたものであるが、読解上、不可欠と思われるものは引用させて戴いくこととする。
【二〇一七年十月一日 藪野直史】]
いなか
夏は七月、おわりの日。身をめぐる千里、ロシアの国――生みの里。
空はながす、いちめんの青。雲がひときれ、うかぶともなく、消えるともなく。風はなく、汗ばむ心地。……大気は、しぼりたての乳さながら!
雲雀(ひばり)はさえずり、鳩は胸をはってククとなき、燕は音もなく、つばさをかえす。馬は鼻をならして飼葉(かいば)をはみ、犬はほえもせず、尾をふりながら立っている。
草いきれ、煙のにおい、――こころもちタールのにおい、ほんのすこし革(かわ)のにおいも。大麻(たいま)はもう今がさかりで、重たい、しかし快い香りをはなつ。
深く入りこんだ、なだらかな谷あい。両がわには、根もとの裂けた頭でっかちの柳が、なん列もならんでいる。谷あいを小川がながれ、その底にはさざれ石が、澄んださざなみごしに、ふるえている。はるかかなた、天と地の尽きるあたり、青々と一すじの大川。
谷にそって、その片がわには、小ぎれいな納屋(なや)や、戸をしめきった小屋がならび、別の片がわには、松丸太を組んだ板ぶきの農家が五つ六つ。どの屋根にも、むく鳥の巣箱のついた高いさお。どの家も入口のうえに、切金(きりがね)細工の小馬の棟かざりが、たてがみをぴんと立てている。でこぼこの窓ガラスは、七色(なないろ)に照りかえる。よろい戸には、花をさした花瓶の絵が、塗りたくってある。どの農家の前にも、きちんとしたベンチが一つ、行儀よくおいてある。風をふせぐ土手のうえには、小猫がまりのように丸まって、日に透(す)ける耳を立てている。たかい敷居のなかは、涼しそうに影った土間(どま)。
わたしは谷のいちばんはずれに、ふわりと馬衣をしいて寝そべっている。ぐるりいちめん、刈りとったばかりの、気疲れするほど香りのたかい乾草の山また山。さすがに目の利く農家の主人たちは、乾草を家のまえにまき散らした。――もうすこし天日にほしてから、納屋へしまうとしよう。その上で寝たら、さぞいい寝心地だろうて!
子どものちぢれ毛あたまが、どの乾草の山からも、のぞいている。とさかを立てたにわとりは、乾草をかきわけて、小ばえや、かぶと虫をあさり、鼻づらの白い小犬は、もつれた草のなかでじゃれている。
ちぢれた亜麻いろ髪をした若者たちは、さっぱりしたルバシカに、帯を低めにしめ、ふちどりのある重そうな長靴をはいて、馬をはずした荷車に胸でよりかかりながら、へらず口をたたきあっては、歯をむいて笑う。
近くの窓から、丸顔の若い女がそとをのぞいて、若者たちの高ばなしにとも、乾草やまのなかの子供たちにともつかず、声をたてて笑う。
もうひとりの若い女は、たくましい両腕で、ぬれそぼった大つるべを、井戸から引っぱりあげている。……つるべは、綱のさきでふるえ、揺れ、きらめく長いしずくを、はふり落す。
わたしの前には、年とった農家の主婦が立っている。格子じまの、ま新しい毛織りのスカートに、おろしたての百姓靴をはいている。
大粒の、がらんどうのガラス玉を、あさ黒いやせた首に三重(みえ)にまきつけ、白毛(しらが)あたまは、赤い水玉を散らした黄いろいプラトークで包んでいる。そのプラトークは、光のうせた目のうえまで垂れかかる。
が、老いしぼんだ目は、愛想よくほほえんでいる。しわだらけの顔も、笑みくずれている。そろそろ七十に手のとどきそうな婆さんなのに……若いころはさぞ美人だったろうと、しのばせるものがある!
右の手の日にやけた指をひろげて、ばあさんは、穴倉から出してきたばかりの、上皮もそのままの冷めたい牛乳の壺(つぼ)をにぎっている。塵の肌(はだ)いちめん、ガラス玉のように露をむすんでいる。左の手のひらに、ばあさんは、まだほかほかのパンの大きなひときれをのせて、わたしにすすめる。――「あがりなさいませ、これも身の養いですで。旅のだんな!」
おんどりが、いきなり高い声をあげて、ばたばたと羽ばたきした。それにこたえて、小屋のなかの小牛が、もうと気ながにないた。
「やあ、すばらしいカラス麦だぞ!」と、わたしの駁者(ぎょしゃ)の声がする。
ああ、気ままなロシアのいなかの、満足と、安らかさ、ありあまる豊かさよ! その静けさ、その恵みよ!
思えば、帝京(ツアリ・グラード)の聖ソフィヤ寺院のドームの上の十字架をはじめ、われわれ都会の人間があくせくすることすべて、なんの役に立つというのだろうか?
Ⅱ.1878
[やぶちゃん注:「散文詩」の巻頭詩篇。
「(タール)」これは単に染み出した天然の瀝青油(石油)か、天然アスファルト、又は自然状態で野火等によって熱分解で発生した、植物や石炭の乾留物質であるタール様物質の匂いを指すか。ロシアの原野の様相は不学のためよく分からない。
「大麻」双子葉植物綱イラクサ目アサ科アサ属Cannabis。雌雄異株で高さは2~3m(品種や環境によっては更に高く成長する)。ヒマラヤ山脈北西部山岳地帯が原産とされる。マリファナの原料として忌避され危険視されるが、熱帯から寒帯域に至る広範な地域に分布しており、本邦でも北海道等で時に自生株が見つかって処理されたという報道を聞く。
「ルバシカ」(Рубашка)はロシアで広く「シャツ」を意味する語ではあるが、特に民族服の一つを指す。詰め襟・長袖・左前開きで腰丈(こしだけ)の男性用上衣。襟や袖口や縁辺に刺繍が施し、腰帯を締めて着用する。本来は厚地の白い麻製でウエストは絞りを入れず、ゆるやかにして、しかも暖かいのを特徴とする(概ね、「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。
「はふり落す」ママ。「はふる」は古語っぽい。古語ならば、「放ち捨てる」であるが、ここは「振って払い落とす」の意味であろう。
・「近くの窓から、丸顔の若い女がそとをのぞいて、若者たちの高ばなしにとも、乾草やまのなかの子供たちにともつかず、声をたてて笑う」「若者たちの高ばなしに」対してか、「乾草やまのなかの子供たちに」対してか、どっち「ともつかず」で、否、その両方を見て「声をたてて笑」っている、の意。
「プラトーク」(Платок)はロシアに於ける民族的な女性用の被り物(ショール)。季節を問わず、用いられ、通常は四角い布切れ或いはニット地で、頭に被るだけでなく、肩に懸けたり、首に巻いたりもする。原色の華やかな花柄が好まれる。但し、広く使用されるようになったのは機械による大量生産が開始された十九世紀半ば以降のことで、その時期以降に伝統的な被り物に代わって農民や商人など、広く一般庶民の間に流布するようになったものである。一般庶民によって日常的に気楽に用いられた反面、結婚の結納品や仲人への報酬としても用いられ、花嫁にとっては娘時代との別れを象徴するものとして、婚礼へ向かう道で投げ捨てたり、実家に残していくべきものであった(概ね、平凡社「世界大百科事典」に拠る)。
「帝京(ツアリ・グラード)」「ツアリ」(царь:ツァーリ)は「皇帝」で、「グラード」(град)は「都市」。これを含む地名がロシアには多いが、ロシア語を正確に音写すると、「グラート」「グラト」で、しかもこの語彙(語形)は南スラヴ語起源で、東スラヴ語であるロシア語では文語的な借用語で、対応するロシア語固有の語彙は(город)「ゴーロト」「ゴロト」である(ウィキの「グラード」に拠った)。
「聖ソフィヤ寺院のドームの上の十字架をはじめ、われわれ都会の人間があくせくすることすべて、なんの役に立つというのだろうか?」中山省三郎譯「散文詩」の中山氏の注と私の補注を引く。『コンスタンチノープルなる聖ソフィア寺院:クリミヤ(一八五三―五六)、更に露土戰爭(一八七七―七八)の誘因となつた近東問題を諷したもの。頃はトルコの隷屬と、黑海および地中海を結ぶ海峽の占領、すなわちコンスタンチノープルの占領が絶えず企圖され、問題になつてゐた時代である。[やぶちゃん補注:この「聖ソフィア寺院」とは、正教会で「アギア・ソフィア大聖堂」と呼ばれた東ローマ帝国時代の建造になるトルコのイスタンブールにあった教会堂のことを指す。古くは正教会の旧総本山であったが、現在はアヤソフィア(トルコ語Ayasofya)と呼ばれ、ビザンティン建築の最高傑作として博物館となっている。オスマン帝国の時代には最高位のモスクに転用されていた。本来の名称である「アギア・ソフィア」とはギリシア語で「聖なる叡智」の意味。ちなみに、古記録によれば、創建当時のドーム内部には巨大な十字架が画かれていたという。]』。]
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