トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) 乞食
乞食
街を步いてゐると、老耄れの乞食が行手に立つた。
糜れた眼に脂(やに)は流れ、唇には色もない。それに、ぼろぼろの粗布、膿み崩れた皮膚。……
貧困は、何とこの不幸な男を蝕んだことぞ。
差し伸べる手は、赤く腫れ上つて穢らしい。……呻きながら、何やら呟きながら、彼は合力を求める。
私は急いで、衣囊を殘らず手探つた。だが財布も時計も、手巾さへ無い。何も持つて出なかつたのだ。
乞食は待つてゐる。差し伸べた手は、力無く搖れ顫へる。
私は途方に暮れて、そのぶるぶると顫へる穢い手を、固く握つた、――「惡く思はないでお呉れ。本當に私は、何も持つてゐないのだ。」
乞食は糜れた眼に私を見上げ、色の失せた唇で微かに笑つた。そして、私の冷え切つた指を握り返す。
「氣にお掛けなさいますな、旦那」と彼は呟く、「もう、結構で御座います。これも有難いお施物(ほどこし)ですから。」
私も亦、彼から施物を得たと覺つた。
一八七八年二月
[やぶちゃん注:本篇には後の新改訳がある。こちら。]
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