トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) 瑠璃いろの國
瑠璃いろの國
ああ瑠璃いろの國。光と幸と靑春とに滿てる、瑠璃いろの國よ。私は夢にお前を見た。
私たち幾人か、目も彩(あや)の畫舫を行(や)ると、風にはためく長旒のもと、白帆は鵠(こふ)の鳥の胸のやうにふくらむ。
ともに舟を行(や)るのが、誰なのかは知らぬ。けれど私は全靈に感じる――彼等もまた私に劣らず、靑春の幸と悦びとに滿ちてゐるのを。
それにせよ、私は彼等に氣を散らさない。あたりに見出すものは唯ひとつ、見わたす限りのさざ波を、金色の鱗を搖する涯しない瑠璃いろの海原。仰ぐ頭上にも、同じく涯しない瑠璃いろの海原。それを橫切つて優しい太陽は、祝祭に醉ひ痴れた者のやうにめぐる。
時あつて私たちの間に、神々の哄笑に似た響たかい歡笑がわきあがる。
と思へばまた、誰かしらの口から、ふしぎな美と靈の力とに滿ちた詩句や言葉がほとばしる。すると蒼穹までが應へを返すやう、四圍の海原も共鳴りしてどよめく。そしてふたたび、幸ひみちた靜寂に返る。
やはらかな波の穗をくぐつて、輕舟は矢のやうに泛びただよふ。舟を送るのは空を吹く風ではなく、私たちみなの高鳴る心臟に舟は操られてゆく。恰も生あるもののやうに、私たちの心の向く方角へ從順に舳をかはす。
島々は現はれ、島々は消える。それら半ば透明の魔法の島は、碧石や靑玉や、さまざまの晶玉の光を流す。
島々の曲浦は、うつとりと夢の匂ひを私たちに送る。その島の一つは、白薔薇や鈴蘭を、玉なす雨と注ぎかける。またある島からは、長い尾をひいた虹色の鳥が、はたはたと舞ひたつ。
鳥の群は頭上に飛びかひ、鈴蘭の花は、舷の滑肌(なゆはだ)をかすめながら、眞珠(あこや)なす海泡に溶けて入る。
うかぶ花と舞ふ鳥のまにまに、幽かに妙なる樂音は漂ひ、そのなかには女の歌聲も聞きわけられる。
あたりのものみな、大空も海原も、檣にはためく白帆も、艫に泡立つ水尾(みを)も、ひたすらに愛の言葉をものがたる。
私たちみなの戀人らは、姿こそ見えぬが皆それぞれに、身近かに寄添つてゐる。一瞬、とざした眼を見ひらけば、そこに彼女の眼はきらめき、微笑が花をひらく。彼女の手はこの手を取つて、凋む秋のない常夏の國へと、優しげに牽く。
ああ、瑠璃いろの國よ。私は夢にお前を見た。
一八七八年六月
[やぶちゃん注:六段落目の「ほとばしる」は底本では「ほどばしる」。誤植と断じて、特異的に清音とした。
「畫舫」「ぐわばう(がぼう)」は、本来は絵を描いたり、彩色を施したりした中国の遊覧船で、転じて、美しく飾った遊覧船を言う。
「長旒」「ちやうりう(ちょうりゅう)」と読む。幅が狭く丈の長い旗のこと。
「鵠(こふ)の鳥」ルビはママ。一見、コウノトリ目コウノトリ科コウノトリ属コウノトリ
Ciconia boyciana のように読んでしまうが、原文は“Лебединой”で、これは「白鳥」のことで、中山訳も新版の岩波文庫訳も「白鳥」とする。無論、あのカモ目カモ科 Anserinae 亜科のハクチョウ類を指す。現在は「白鳥」という漢名が一般的だが、本邦では古代から「鵠」と書き、「くくひ・くぐひ(くくい・くぐい)」(清音が古い)の古称を持っており、古語で「鵠の鳥」と書いて「かふのとり」と読ませ、それで「くぐい」「白鳥」の意で用いてきた経緯がある。従って訳として誤りではない。
「響たかい」「響き高い」。
「歡笑」「くわんせう(かんしょう)」喜び楽しんで笑うこと。
「泛び」「うかび」。
「舳」「へさき」。
「舷の滑肌(なゆはだ)」「ふなばたのなゆはだ」。読みはママ。何となく判らぬではないが、このルビような語は、まず、私は聴いたこともなく、使ったこともない。新版の岩波文庫では『なめらかな舟べり』とある。本詩篇は全体に佶屈聱牙な漢語が多過ぎ、本来、この詩篇の持つところの、陽光に輝くロケーションのワイドな大海原の航海の仮想(夢)の雰囲気が致命的に殺がれてしまっている。神西は恐らく一番、新改訳をしたかった一篇だったのではなかろうか?
「眞珠(あこや)なす」真珠のような。新版の岩波文庫では『真珠とまごう』とする。
「檣」「ほばしら」。
「艫」「とも」。
「凋む」「しぼむ」。
「常夏」「とこなつ」。
「牽く」「ひく」。]
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