トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) 咎
咎
少女は蒼ざめた優しい手を、私にさし伸べた。私は邪慳に拂ひのけた。愛らしい娘の顏は當惑さうに曇つた。淸らかな眼が、責めるやうに私を見あげる。純な少女心には、私の氣持が汲みとれないのだ。
「私、何か惡いことでもして?」と、その唇はささやく。
「おまへが惡いことを? そのくらゐなら、光り輝く空の首天使も、とつくに咎を受けて居やう。
「とはいへおまへの咎は、私にとつて小さくはないのだ。
「おまへの咎の重さは、とてもおまへに分りはしまいし、私も今さら説きあかす氣力はない。それでもおまへは知りたいのか。
「では言はう。――おまへの靑春、私の老年。」
[やぶちゃん注:神西訳の中でも私の好きな一篇。原題は“ЧЬЯ ВИНА?”で「誰が悪い?」。「少女心」は是非とも「をとめごころ(おとめごころ)」と読みたい。しかし、すると、前の「少女」も「をとめ」と読まねばおかしくなるが、ルビはない。読者は十中八九、冒頭を「せいぢよ(しょうじょ)」で読むであろう。それでよいし、神西がルビしなかったのもそう読ませるつもりだからであろう。「少女」「娘」その「少女心」そして直接話法での「お前」(これは無意識の「咎」を持ったその子娘への呼びかけとして選ばれた二人称である。因みに、中山省三郎譯では「あんた」であるが、これはこれで男の表面上の「邪慳」さを引き立てる効果はある。なお、一九五八年岩波文庫刊の神西清・池田健太郎訳「散文詩」で池田氏はここを『いたいけな清らな心』と改訳しておられる。これは原詩には忠実な訳(原文は“чистая душа”で、「純粋な魂」「純潔な心」「けがれなき一途な心」の意)はある)と多様に変えているのは神西の確信犯と読む。さすれば、ここのみを「をとめごころ(おとめごころ)」と読んだとて、何の不都合もないと私は考えるのである。
本詩には末尾の年月のクレジットがない。次の「処生訓」と同時に書かれた(とすれば一九七八年四月)可能性があるが、そのような場合でもほかでは同じクレジットを附しているので不審。もし、これが一八七九年以降のものとすれば、六十を越えていたツルゲーネフのロシアでの恋人、若き女優マリヤ・ガヴリーロヴナ・サーヴィナであった可能性が高い。恋多きツルゲーネフを考えると、クレジットの消去はそれを隠すためでもあったかも知れない。この公刊されたツルゲーネフの散文詩集(但し、実はこの詩は以下の表題の出版にあっては除外された。だから「散文詩拾遺」に含まれているのであるが)の最初の題名は“SENILIA”――「老いらく」――なのである。
「光り輝く空の首天使」相当原文と思われる箇所は“Самый светлый ангел в самой
лучезарной глубине небес скорее”で、「至上の光輝を放つ天国の、最も光り輝く天使」の意と思われるから、熾天使セラフィエルあたりをイメージしているか。東方正教会では最上級の天の御使いとして八大天使を採り、ミカエル・ガブリエル・ラファエル・ウリエルの四大天使(ウリエルについては別説もある)にセラフィエル・イェグディエル・バラキエル・イェレミエル(ウリエルと同体とされることもある)を加える。]
« トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) 杯 | トップページ | トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) 處世訓 »