トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) ほどこし
ほどこし
大きな都會に近い往還を、病み呆けた老人が步いて行く。
一足ごとに蹌(よろめ)き、躓き、絡みつく萎(な)え細つた兩の脚を引摺りながら、まるで他人のやうな步みを、力無く重たげに踏みしめた。ぼろぼろの衣を身の𢌞りに垂らし、むき出しの頭は胸もとに落して、生きる力も盡き果てて見える。
やがて道傍の石に腰を下した彼は、前に跼み込んで、肘を膝に兩手で顏を蔽うた。くねり曲つた指の間を淚が、乾いて白い土埃の上に落ちた。
彼は昔を思ふ。……
彼は思ひ出す、昔はどんなに丈夫で富んでゐたかを。その健康をどんなに浪費したかを。
その富を敵味方の見境もなく、どんなに振撒いたかを。いま、彼には一塊の麪包もない。
人々はみな彼を見棄てた。それも、敵よりも友達が先に。……物乞ひをするまでに落ちぶれねばならぬのか。その胸を鹹(しほから)さと恥がさいなむ。
涙は默々と、白い土埃に落ちる。
ふと彼は、自分の名を呼ぶ聲を耳にした。彼は力無い頭をもたげ、見知らぬ男を眼前に見出した。
その顏は穩に眞面目だが、嚴(いか)つい氣色はない。眼にきらめきは見えぬが、淸らかに澄んでゐる。射透すやうな眸には、少しの惡意も見えない。
「君は財産をすつかり撒いて仕舞つたのだね」と逼らぬ聲が聞えた、「だが、善い事をしたのを、今さら悔む氣はないのだね。」
「悔みなど致しません」と、老人は吐息まじりに答へた、「かうして、默つて死んでゆきます。」
「で、若しもこの世の中に、君の前に手を差伸べる乞食が居なかつたとしたら」と見知らぬ男は續けた、「君も自分の慈悲の心を示す相手がなく、從つて慈悲の修業もできなかつた譯だね。」
老人は答へずに、沈思した。
「だから君も、今となつては傲(たかぶ)らぬがよいのだ」と見知らぬ男は言葉を繼いだ、「さあ行つて手を伸べ給へ。そして君も、世の慈悲深い人達に、その慈悲の心を行(おこなひ)に現はす機會を與へてやるがいい。」
老人は見顫ひして眼を上げたこが、その男の姿はもう其處にはなく、はるか道の彼方に、一人の通行人が現れた。
老人は近づいてゆき、手を伸べた。けれど通行人は、冷やかな一瞥のほかには、何も呉れなかつた。
その後(うしろ)から來たもう一人の男は、しるしばかりの施しを彼に與へた。
老人はその銅錢でパンを買つた。すると、物乞ひで得たこの一片は、不思議に甘かつた。
汚辱が胸を緊めつけるどころか、靜かな悦びが湧いてきた。
一八七八年五月
[やぶちゃん注:「跼み込んで」「かがみこんで」と訓じておく。
「麪包」「パン」。]