トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) マーシヤ
マーシヤ
ずづと以前、私がまだペテルブルグに住んでゐた頃、貸橇を傭ふごとに、その馭者と樣々な話をするのを常とした。
とりわけ私は、夜の馭者たちを相手に話すのが好きだつた。彼等はみな近在の貧しい百姓なので、糊口のため、また地主に納める年貢のため、瘦馬と黃土色(オークル)に塗つた小橇を資本に都に出て稼ぐのである。
ある日、私は矢張りその樣な橇を傭つた。二十(はたち)ほどの、見上げるばかり背の高い立派な體格の若者だつた。赤燒した頰、靑々と澄む眼、そして亞麻色の髮は小さな輪を卷きながら、眼深かに被つた繼布(つぎ)だらけの帽子の下にはみ出してゐる、がつしりと賴もしい肩には、ぼろぼろの百姓外套を、無雜作に引掛けてゐる。
だが、鬚の無いきれいな顏は、何となく淋しげに沈んで見えた。
離して見ると、聲にも矢張り浮かぬ樣子があつた。
「どうしたね、大將」と私は尋ねた、「不景氣な顏をしてるぢやないか。何か悲しい事でもあるのかい。」
若者は直ぐには答へなかつた。
「ええ、旦那。實はさうなんで」と暫くしてから言つた、「それも、土臺お話になりません。女房に死なれましたんで。」
「好いた同志だつたんだね、お神さんは。」
若者は振向かずに、微かに頷いた。
「可愛い奴でした。もう九月(ここのつき)になりますが、矢張りどうしても忘れられないんで。胸(ここ)んとこが妙にちくちくして。……あれが壽命とでも言ふんでせうか、若くで丈夫な奴でしたが、一日の中にコレラでやられたんで。」
「よく盡して呉れたかね。」
「そりやもう、旦那」と、若者は溜息をついた、「仲好くやつてゐました。だのに、死に目にも逢へなかつたんで。丁度此處へ出て稼いでゐると、もう埋葬も濟んだといふ報せで、大急ぎで村へ飛んで歸りました。着いて見ると、もう眞夜中です。家にはいつて、部屋の眞中につつ立つて、そつと小さな聲で呼んで見ました。『マーシャ、おいマーシャ。』けれども、蟋蟀が啼いでるだけで。……思わず床(ゆか)の上に坐り込んで泣いちまひました。地べたを平手で叩いて、『この業つく張りの地の胎(はら)め、あいつを攫ふ位なら、この俺も攫つて行け』つてね、ああ、マーシャ。」
「マーシャ」と、彼は不意に聲を落して言ひ繼いで、荒繩の手綱(たづな)を握つたまま、橫拂ひに淚を袖で拭き、忌々しげに肩を堅めた。そのまま默り込んでしまつた。
橇を下りると、私は駄賃の外に十五錢玉を一つ遣つた。彼は兩手を帽子に掛けて、低いお辭儀をした。そして大寒一月の霧に煙つて人通りもない雪の街路を、とぼとぼと馬を步ませて去つた。
一八七八年四月
[やぶちゃん注:標題の「マーシヤ」(本文は「マーシャ」で拗音表記)はママ。
「黃土色(オークル)」「オークル」はフランス語“ocre”で、黄土(おうど:酸化鉄の粉末で粘土に混ぜて、くすんだ黄色の顔料・塗料などにする)或いは黄土色を指す。]
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