トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) 自然
自然
地面の下の、大きな部屋にゐる夢を見た。高い天井の部屋で、やはり地下の光を思はせる明暗のない明るさに滿ちてゐる。
部屋の中央に一人の氣崇い女性が、寛やかな綠衣を着て坐つてゐる。片手に頰を支へて、深い思ひに耽るらしい。
私は一目見て、この女性こそ『自然』なのだと覺つた。すると忽ち激しい畏怖が、氷のやうに魂の底までしみ渡つた。
私はその女性に近づいて、恭々しく一禮して呼びかけた。
「おお、人みなの母上、何をお考へですか。もしや人類の行末の事ではありますまい。どうしたら彼らの手に、できる限りの完成と至福を、授けてやれようかといふ事ではありますまいか。」
女性は悠然と、その暗い怖しい眸を私に向けた。唇が動くかと思ふと、鐡を打ち合はせでもするやうな大聲が響いた。
「私は、どうしたら蚤の脚の筋を、もつと丈夫にしてやれるか知らと考へてゐるのだよ。敵の手を逃れるのに都合のいいやうにね。今では攻防の釣合ひが破れたから、また元通りにしなくてはいけない。」
「なんですつて」と私は吃つた、「そんな事をお考へですか。私ども人類は、あなたの愛する子等ではありませんか。」
女性は微かに眉を顰めた。
「天地の間に何一つ、私の子供でないものはない」と、やがて彼女は言つた、「私は皆同じ樣に面倒を見てやるし、皆同じやうに滅してやるのだよ。」
「ですが善は、理性は、正義は?……」と私はまた口籠つた。
「それは人間の言葉ぢやないの」と、鐡のやうな聲が答へた、「私の眼には善も惡もない、理性も私の掟ぢやない。それから正義つて一體なんのことなの。私はお前さんたちに生命を上げました。私はそれを取返して、また他の物に遣るのだ。蛆蟲に遣らうと、人間に遣らうと、私としちや同じ事です。……お前さんたちはお前さんたちで、せいぜい自分の事に氣をつけるがいいのさ、私の邪魔だてをしてお呉れでない。」
私が何か言返さうとしたとき、遽かに大地が搖れて、陰に籠つた地鳴りがしたので、目がさめた。
一八七九年八月
[やぶちゃん注:「遽かに」「にはかに(にわかに)」。]
« 和漢三才圖會卷第五十四 濕生類 蚯蚓(みみず) | トップページ | 佐藤春夫 女誡扇綺譚 四 怪傑沈(シン)氏 (その2) / 四 怪傑沈氏~了 »