イワン・セルゲーエヴィチ・ツルゲーネフ作「散文詩」神西清訳 乞食
乞食
通りを歩いていると……乞食に呼びとめられた。よぼよぼの老人である。
赤くただれた、涙っぽい眼。青ざめた口びる。毛ばだったぼろきれ。うみくずれた傷ぐち。……おお、貧苦に虫ばみつくされた不仕合せな男!
彼は赤くむくんだ、きたならしい手を、わたしにさしのべた。……うめくように、つぶやくように、お助けをと言う。
わたしは、ポケットというポケットをさがしはじめた。……財布もない、時計もない、ハンカ三枚ない。……何ひとつ持って出なかったのだ。
乞食は待っている。……さしのべたその手は、力なく揺れ、わなないている。
途方にくれ、うろたえたわたしは、ぶるぶるふるえる汚(きた)ない手を、しっかり握りしめた。
「わるく思わないでおくれ、兄弟。わたしは何も持っていないのだよ。」
乞食は、ただれた眼で、じつと私を見た。青ざめたその口びるを、うす笑いがかすめた。
――そして彼は、わたしの冷たくなった指を握りかえした。
「結構ですとも、だんな」と、彼はささやいた。「それだけでも、ありがたいことです。――それもやはり、ほどこしですから。」
わたしはさとった。わたしのほうでも、この兄弟からほどこしを受けたことを。
Ⅱ.1878
[やぶちゃん注:一九四三年(昭和十八年)に治安維持法違反で逮捕され、二年後の日本敗戦の年に九州で獄死した朝鮮の詩人윤동주(ユン・ドンジュ 尹東柱 一九一七年~一九四五年)には、本作をインスパイアした「ツルゲーネフの丘」という詩がある。以下、私の古い教え子であるI君が原語から訳してくれたものを掲げておく。
*
ツルゲーネフの丘 尹東柱
私は坂道を越えようとしていた…その時、三人の少年の乞食が私を通り過ぎて行った。
一番目の子は背中に籠を背負い、籠の中にはサイダー瓶、缶詰の缶、鉄くず、破れた靴下の片割れ等の廃物が一杯だった。
二番目の子もそうであった。
三番目の子もそうであった。
ぼうぼうの髪の毛、真っ黒い顔に涙の溜まった充血した眼、血色無く青ざめた唇、ぼろぼろの着物、ところどころひび割れた素足。
あぁ、どれほどの恐ろしい貧しさがこの年若い少年達を呑み込んでいるというのか。
私の中の惻隠の心が動いた。
私はポケットを探った。分厚い財布、時計、ハンカチ…あるべきものは全てあった。
しかし訳もなくこれらのものを差し出す勇気はなかった。手でこねくりまわすだけであった。
優しい言葉でもかけてやろうと「お前達」と呼んでみた。
一番目の子が充血した眼でじろりと振り返っただけであった。
二番目の子も同じであった。
三番目の子も同じであった。
そして、お前は関係無いとでもいうかのように、自分たちだけでひそひそと話ながら峠を越えていった。
丘の上には誰もいなかった。
深まる黄昏が押し寄せるだけ…
*
なお、本注を附すに至った仔細は私のブログに記載してあるので、是非、参照されたい。]
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