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2017/10/09

老媼茶話巻之三 藥師堂の人魂

 

     藥師堂の人魂

[やぶちゃん注:「盛隆に   てければ」の三字分の脱字(或いは欠字)は原典はママ。和歌は濁点を附さず、底本のままで示した。妙空の漢文の偈みたようなものは返り点のみを再現し、注で振り仮名を含めて訓読した。前書本条は四つの別個な話のアンソロジーであるので、各件の間に空行を設けた。]

 天正の初め、會津の御城主は蘆名三浦の助盛隆とて、まします。此御代、有罪の者、被誅(ちゆうせらる)場所は湯川の東岸也【今、花畑也。】只野・片平(かたひら)といふ兩人のものども、盛隆に   てければ、兩人の者共の母と妻ども、湯川河原にて串差(くしざし)におこなはるゝ。其節、只野が妻、致しける。

  淺ましや身をはたゝ野に捨られて寢亂れ髮の串のつらさよ

 片平が母、

  かたひらのうすき情の替りつゝひとへにつらき夏衣哉 

 

 寛永年中、加藤明成の御代、今の藥師河原にて罪あるものを刑罪せらるゝ也。寛永十五年二月廿七日、嶋原落城、切支丹の賊、誅せられて後、日本國、浦々はてはて迄、此宗門、きびしく御法度なり。此折、橫澤丹後といふ者の家に、ばてれんを二重壁の内に隱し置(おき)けるを、さがし出(いだ)し、寛永十二年十二月廿八日、ばてれんを初(はじめ)、丹後が一族、ともに、紙のぼりに「南無阿彌陀佛」と六字の名號を書(かき)て後にさゝせ、淨土數珠を首にかけさせ、藥師堂にて、さか磔付(はりつけ)に行はるゝに、おさなき童迄、少(すこし)も極刑にあへるを恐(おそれ)ず、

「死後には上天明朗。」

ととなへ、我先(われさき)にと死をあらそふ。本國の者を、さか磔付に懸る時は、日を經ずして死せり。異國のものゆへか、ばてれんは一七夜をへて死す。 

 

 或人男女の磔付のありし時、大川の下へ殺生に行(ゆき)、夜更(よふけ)て藥師堂を通りけるに、はつ付柱(つけばしら)の本(もと)に、靑き玉の、手まり程なるが、弐ころび𢌞り、磔付柱へ、登りつ、おりつして、暫(しばらく)有(あり)て、

「はつ。」

と消(きえ)たるを見たる、といふ。是、人だまの類(たぐひ)なるべし。 

 

 寛文の頃、越後さかいといふ所の妙蓮寺の妙空といふ法花坊主、城下の町、玉造り屋といふ有德(うとく)なる町人の娘「今小町」とさたせし美女と密通のことにより、佐川河原といふ處にて、磔付に行はるゝ。此折、妙空、廿三になり、美僧也(なり)しと、いへり。妙空辭世の句、

 一鎗一突無間業今轉宿報佛果

 飛ふ魂は彌陀の淨土へ急くへ殘る骸に罪をゆつりて

女、くめ、

 亂れ髮たれとりあけてゆひぬらんいまさしくしのうらめしの身や

 此事、取扱(とりあつかふ)人有(あり)て、内證(ないしやう)にてすむべかりしを、町役人三澤傳左衞門といふもの、玉作りやが娘に心をかけ、女房にもらいかけしに、傳左衞門、人柄、宜しからぬ者也しかば、玉作や、得心せず。是をふかく意趣に思ひ、事(こと)濟(すみ)しを、上へ申上(まうしあげ)、詮議仕出(しいだ)し、斯(かく)極刑におこないける。妙空が怨靈、傳左衞門に祟り、三澤が一門、取(とり)たやしけるといへり。

 

[やぶちゃん注:「天正の初め、會津の御城主は蘆名三浦の助盛隆」戦国大名で蘆名氏第十八代当主蘆名盛隆(永禄四(一五六一)年~天正一二(一五八四)年)。ウィキの「蘆名盛隆によれば、『須賀川二階堂氏の第』十八『代当主・二階堂盛義の長男として生まれ』、永禄八年に『父・盛義が蘆名盛氏に敗れて降伏したとき、人質として会津の盛氏のもとに送られた。ところが』、天正三(一五七五)年『に蘆名氏第』十七『代当主・盛興が継嗣を残さずに早世すると、盛興未亡人の彦姫(叔母にあたる)を自らの正室に迎えた上で、盛氏の養子となって第』十八『代当主となり』、天正八(一五八〇)年『に盛氏が死去すると』、『実権を掌握した』。翌天正九年、『盛隆と叔父の伊達輝宗は、越後の新発田重家が後継者争い(御館の乱)の後に新たに越後国主となった上杉景勝に対して不満を募らせている状況を見て、上杉に対して反乱を起こさせるべく様々な工作を行った』。六月十六日、『重家は一門衆のほか、同族加地秀綱ら加地衆や、御家騒動の際に景勝の対立勢力だった(上杉景虎方)豪族らを味方に引き入れ新潟津を奪取し支配、以降』七『年間に渡って景勝を苦しめる』。『この頃、北陸地方で上杉氏と争っていた織田信長はこれを挟撃するべく、上杉氏を離反した新発田重家及び東北の諸大名の懐柔のため』、『外交を始めた。当初、盛隆は上杉景勝とも誼を通じ度々連絡を交わしていたが』、天正九年『に家臣の荒井万五郎を上洛させ』、『信長と交渉を行った』『これは、盛隆から接近したとも、信長が景勝を挟撃するために盛隆を誘ったともいわれる』、『盛隆は信長に名馬』三頭・蝋燭一千挺を』献上すると』、『信長はこれに応えて、盛隆が三浦介に補任されるよう』、『朝廷へ斡旋した。蘆名氏は三浦義明の末裔であり、盛隆にとって三浦一族代々の官途である三浦介を名乗ることは名誉であり』、『信長もこのことで盛隆の心を掌握しようとしたと考えられる』。『その後、盛隆は重臣の金上盛備を上洛させている』。『信長と接近したことで、盛隆は上杉景勝との関係が疎遠になった。その後も景勝からは新発田氏挟撃などの援軍の要請などがあったが、盛隆はこれに対して曖昧な態度を取り続けることに終始し』、天正十年『には景勝からの出兵依頼を断るどころか、金上盛備』(かながみもりはる 蘆名氏一族の金上氏第十五代当主。越後国蒲原郡津川城主。その卓越した政治手腕から「蘆名の執権」と呼ばれた)『に重家を援護させ、赤谷城に小田切盛昭を入れるなど、重家を援護する介入を行った』。『蘆名氏当主となった盛隆は、父・盛義と共に蘆名氏の力を用いて衰退していた実家の二階堂氏の勢力回復に務めた。そのため、元は二階堂氏からの人質であった盛隆に反感を抱く家臣による反乱がたびたび起こった
上記の新発田氏支援に対抗するため、上杉景勝は蘆名家中の撹乱を狙い、重臣の直江兼続に命じて』、『富田氏実や新国貞通などの盛隆に反抗的な重臣達を調略し』、『反抗させることで、蘆名氏に揺さぶりをかけた』。天正一二(一五八四)年六月『に盛隆が出羽三山の東光寺に参詣した隙を突かれて』、『栗村盛胤・松本行輔らに黒川城を占拠されたが、盛隆はこれを素早く鎮圧し』、七『月には長沼城主の新国貞通(栗村の実父)を攻めて降伏させた』が、同年十月六日、『黒川城内で寵臣であった大庭三左衛門に襲われて死亡した』。享年僅か二十三。『家督は生後』一『ヶ月の息子・亀王丸が継ぎ、亀王丸の母・彦姫が隠居した兄・伊達輝宗の後見を受けて蘆名氏をまとめることになった。しかし、輝宗の跡を継いだ政宗は同盟関係を破棄して蘆名氏を攻め(関柴合戦)、亀王丸も』天正一四(一五八六)年『に疱瘡を患って夭逝するなどの不幸が重なり、蘆名家中は混迷した。この盛隆の早すぎる死が、蘆名氏滅亡を早めた原因といえる』とある(下線やぶちゃん)。「天正」は二十年まであり、ユリウス暦一五七三年からグレゴリオ暦一五九三年までに相当する。以上みた通り、盛隆は名目上は天正三(一五七五)年に蘆名氏当主となっているから、まあ、この「初め」は形の上では問題はない(但し、未だ十四歳で、盛氏が後見人として、往時の勢力はなくなったものの、実権は握っていた。盛氏が逝去する天正八(一五八〇)年以降が事実上の治下となるが、天正八年は流石に「天正の初め」とは言えないから、時制は天正三~五年の間ととっておく。

「湯川」現在の湯川は昭和になってからの治水事業によって「湯川新水路」として整備されて、流域に変化が生じているから、厳密な位置を示すことは出来ないが、「ここで東岸」と述べているところから考えると、現在の鶴ヶ城の西方の、現在の福島県会津若松市湯川町附近(ここ(グーグル・マップ・データ))、旧湯川が城の南方から北流する辺りの東岸であったと考えられないだろうか? 或いは、その南の旧湯川が北流を始めた直後辺りの箇所かも知れない(ここだと、城の南西で裏鬼門に当たるから、刑場を配するには逆によいように私には思えた)。しかし、更に調べると、先の湯川町の南に接して、まさに「南花畑」という地名が存在することが判った(ここ(グーグル・マップ・データ))。これが割注の「花畑」の一部(南地区)と理解するなら、やはり、ズバリ、現在の「湯川町」の辺りを旧湯川は氾濫原として広く流れており、その城側の岸(「南花畑」の北附近)こそがその「湯川の東岸」附近なのではないか? その場合、旧湯川が有意に現在の湯川新水路の西を流れていた可能性もあるから、現在は西岸になっている川原町附近(本文の「湯川河原」に応じる)も比定候補としてよいように思われる(ここ(グーグル・マップ・データ))。この辺りは城から一キロ圏内にあり、城からも、刑場が見下ろせたのではないかと思われる(見せしめの処刑場としては、城から見えることが望ましいと私は考える)。

「只野・片平(かたひら)」不詳。但し、前の引用の中に出る(下線部)、まさに二人とも、元は二階堂氏からの人質であった盛隆に反感を抱く蘆名盛氏直参の家臣ではなかったか?

「盛隆に   てければ」「逆らひ」「手向ひ」「そむき」「弑逆(しいぎやく)し」などを考えたが、「て」のジョイントが孰れも悪い。

「串差(くしざし)」「磔」は本文が区別して記しているので、それではない。調べて見ると、かなり残酷な刑で、「串刺し」に相応しい本邦での処刑法を見出せた。しかも戦国期に行われたというのだから、まず、これがその処刑法であったと考えてよいように思われる(★引用元のブログ主も注意書きしておられるが、以下の部分は処刑に関する過激な表現が含まれているので、グロテスクな表現が苦手な方は読まないようにされるがよいとは思う★)Neutralerstadt氏のブログ「リュートの適当にっき」の「森川哲郎『日本死刑史―生埋め・火あぶり・磔・獄門・絞首刑…』」である。永禄五(一五六二)年三月、『遠州吉田の城主小原肥後守鎮実は、捕えた徳川の家臣を妻子と共に吉田の城下竜念寺において、磔(はりつけ)刑に処した』。『処刑されるものは』、十一『人であったが、ただの磔ではなかった。ずらりと並べて立てた柱に』十一『人の手足を広げさせ、釘付けにする』。『女も子供も同様の姿で磔柱にかけられた。もちろん下半身は、糸一筋つけてはいない。処刑に使う槍は細身のものを特につくらせた。その穂先を真下から肛門に当てる。そのまま一気に突き上げる』。『囚人は、余りの苦痛に、絶叫する。それをかまわず』、『上まで貫こうとするのだが、骨や内臓につかえて、なかなか』、『槍は突き抜けない』。『そこで』、『途中から槍を一度』、『抜き出す。その激痛で、囚人はまた』、『絶叫する。まさに、目も当てられない惨状だった』。『囚人が、叫びながら』、『苦悶してのたうつので、穂先はずれて、胃を、肝臓を、肺臓をえぐる。そのたびに口から血泡がふき出す。囚人は、ついに苦悶の果て、息絶える』。『しかし、正規の串刺しの刑は』、『それでは』、『完了しない。槍を手もとに戻して、突き直し、肛門から口まで貫き通すまで決して止めない』。『無残きわまる処刑方法であり、いわゆる串刺しの刑と呼ばれたものだが、戦国期に多くおこなわれた残酷刑の一つに過ぎない』とあるものである。

「淺ましや身をはたゝ野に捨られて寢亂れ髮の串のつらさよ」整序すると、

 淺ましや身をばただ野に捨られて寢亂れ髮(がみ)のくしのつらさよ

で、「ただ野」「(荒涼とした何もない)ただの野」と姓の「只野」に掛け、「くし」は「(女の魂・命の象徴たる)櫛」に「串(刺しの刑)」を掛ける。「捨てられて」はこのような残虐刑に処さんとする盛隆への恨みである。処刑時の辞世に閨房の雰囲気を持ち出すのは特異であるが、却ってそれが女のそれと考えた時、何故か、逆に女なればこその強さを感じさせるものがある。

「かたひらのうすき情の替りつゝひとへにつらき夏衣哉」整序すると、

 かたびらの薄き情(なさけ)の替(かは)りつつひとへにつらき夏衣かな

「かたびら」は死に装束の白「帷子(かたびら)」に姓名の「片平」を掛け、「ひとへに」は「ただもう」という副詞に、「單衣」(着せられた白帷子が裏のないぺらぺらに薄い単衣(ひとえ)だったのである)に掛けて、「薄」「情」で冷酷で残虐な心に「變」じた盛隆への深く「つら」い内向する怨みを含んだ一首である。しかし、姓名を掛詞にする女の辞世歌が続くというのは、これ、如何にも嘘臭過ぎる。

「寛永」一六二四年~一六四五年。

「加藤明成」(天正二〇(一五九二)年~万治四(一六六一)年)は陸奥国会津藩第二代藩主。既出既注であるが、再掲しておく。ウィキの「加藤明成」によれば、天正二〇(一五九二)年、『加藤嘉明の長男として生まれ』、寛永八(一六三一)年『の父の死後、家督と会津藩』四十『万石の所領を』相続している。慶長一六(一六一一)年に起った『会津地震で倒壊し、傾いたままだった蒲生時代の七層の若松城天守閣を、幕末まで威容を誇った五層に改め、城下町の整備を図って近世会津の基礎を築』いた。『堀主水を始めとする反明成派の家臣たちが出奔すると、これを追跡して殺害させるという事件(会津騒動)を起こし、そのことを幕府に咎められて』寛永二〇(一六四三)年に改易となった。『その後、長男・明友が封じられた石見国吉永藩に下って隠居し』ている。

「藥師河原にて罪あるものを刑罪せらるゝ也」女性のブログ「天上の青」の「薬師河原刑場跡」の記載により、現在の福島県会津若松市神指町東城戸に、まさにこの明成の治世下に存在した「刑場跡の石碑」が存在することが判った。ここ(グーグル・マップ・データ)。記事には、寛永一二(一六三五)年、『会津藩主加藤明成は、幕府の命令を徹底すべく』、『キリシタン弾圧に乗り出し、横沢丹波とその一族、丹波の家に匿われていた宣教師が捕らえられ、処刑され』。『彼らの殉教の地はキリシタン塚と呼ばれ』、現在、『石碑が建てられてい』るとあり、『薬師河原刑場の殉教者』として、三名が挙げられ、前の二件が明成の治世下、三件目は会津松平(保科)家会津藩主初代保科正之の治世で断行されたものとある。最初のそれが、寛永十二年十二月十七日(一六三六年一月二十四日)に行われた会津切支丹の中心的人物であった横沢丹波とその一族五名の磔刑で、この頃から、会津藩の刑罰場はこの薬師河原に移された、とある(前の刑場は先の蘆名時代からの湯川東岸の河原であったか)。二件目が、その十一日後の寛永十二年十二月二十八日(一六三六年二月四日)に行われた外国人宣教師一名の火炙りの刑であるとする。宣教師の名は公的には不明ながら、横沢丹波の家を隠れ家にすることもあったことが判っているフランシスコ会神父ディエゴ・デ・ラ・クルス・デ・パロマレスではないかといわれている、とある。三件目は正保四年四月十二日(一六四七年五月十六日)で切支丹五名が処刑されている、とある。グレゴリオ暦換算もなされていることから、このブログ記事が正しく、内容もそちらの方が正確と信ずる。本条は横沢丹波(本文の「丹後」は誤記。編者に拠る訂正注が右に打たれてある)と外国人宣教師が一緒に逆さ磔の刑(頭を下に向けて磔に処したもの。鑓で突かずとも、脳充血によってそれほど日を経ずして死ぬが、頸部から瀉血すると、長く生命を保つことが知られている)に処したとするのは、作品或いは風聞の尾鰭かも知れぬ。賊の首魁を信徒と一緒に同じ場所で同じく磔にするのもおかしい(私がなら絶対にしない。そこで首魁と信徒との心的な繋がりが見物人の前で發露されたりするのは為政者として非常に都合が悪いことだからである)ずっと生きているのを監視し続けるのは、非合理且つ非効率で保安上も問題があるから、「一七夜」(丸七日七夜)というのは寧ろ、現実的でない。しっかりと焼き殺したものであろう

「寛永十五年二月廿七日、嶋原落城」現在、島原の腹城卓上は寛永十五年二月二十八日(一六三八年四月十二日とされている。

「南無阿彌陀佛」「淨土數珠」後者は既注。これを見るに、少なくとも会津藩内に於いては、浄土宗や浄土真宗が、積極的に切支丹排斥に協力的であったことが判る。

「死後には上天明朗」死後には天上の神の国天国へと昇天して、永遠の心の晴れやかさの中に蘇る、といった意味か。

「本國の者」日本人信徒。

「大川」福島県南西部の福島・栃木県境の荒海山に源を発し、会津盆地で日橋川と合する阿賀野川の上流部で会津若松市市街の西を北流する阿賀川の別称。

「藥師堂」先に出た処刑場。

「人だま」「人魂」。

「寛文」一六六一年~一六七三年。第四代将軍徳川家綱の治世。

「越後さかい」坂井(さかい)は、城下に近いとなると、新潟県新潟市西区坂井か。(グーグル・マップ・データ)。

「妙蓮寺」現在、上記地区内には、この名の寺はない。

「有德(うとく)」裕福。

「さたせし」「沙汰せし」。評判であった。

「佐川河原」不詳。郷土史研究家の御教授を乞う。

「一鎗一突無間業今轉宿報ヲ至佛果」原典のカタカナ(歴史的仮名遣の誤りはママ)で振られた読みと送り仮名に従って訓読する。

 一鎗(そう)一突(とつ) 無間業(むけんごう)

 今(いま) 宿報を轉じ 佛果に至る

日蓮もびっくりの糞な謂い。

「飛ふ魂は彌陀の淨土へ急くへし殘る骸に罪をゆつりて」整序すると、

 飛ぶ魂(たま)は彌陀の淨土へ急ぐべし殘る骸(むくろ)に罪をゆづりて

何と都合のいい糞辞世であろう。娘への懺悔の一つもない! 無間地獄行き、キマリじゃて!

「くめ」娘の名。久米・粂か。

「亂れ髮たれとりあけてゆひぬらんいまさしくしのうらめしの身や」整序すると、

 亂れ髮誰(た)れ取り上げて結ひぬらん今刺し櫛(ぐし)の恨めしの身や

「刺し櫛」は頭に飾りで刺した娘の「刺し櫛」に磔刑で両脇から鑓で「刺し」貫かれることを掛けた。しかし、女犯(にょぼん)の僧(浄土真宗以外)の死刑は事件が悪辣であればごく普通にあったが、この場合、相手の娘は未婚であり、磔で死罪というのは、ちょっとおかしい。やはり、この辞世を含めて、どうも、作り話臭い。

「三澤傳左衞門」不詳。

「おこない」ママ。

「取(とり)たやしける」「取り絶(た)やしける」根絶(ねだ)やしにしてしまった。]

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