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2017/10/13

老媼茶話巻之三 杜若屋敷

 

      杜若(かきつばた)屋敷 

 

 天正十八年庚寅(かのえとら)九月五日、蒲生飛驒守氏鄕、近江國蒲生郡(がもうのこほり)より奧州黑川の城へ入(いり)玉ふ。鳴海甲斐守も御供して黑川來り、三の町と云(いふ)所にて屋敷給り、住せり【甲斐守錄千石。常世村を領せり。】。

 江州より遠來(とほくきた)りける禿小性(かむろこしやう)に花染(はなぞめ)といふ美童(びどう)有(あり)。容色、甚(はなはだ)うるはしく、「桃花の雨をふくみ、海棠の眠れる姿」といふべし。

 甲斐守、寵愛して、傍(かはら)を離れず、宮仕(みやづかひ)せり。

 花染、小鼓・謠(うたひ)好みければ、大町(おほまち)當麻(たいま)の寺近くに了覺院といふ山伏、小鼓・謠の上手なりければ、此山伏を師匠として、花染、謠を習(ならひ)けり。

 花染、杜若(かきつばた)を甚(はなはだ)愛しければ、甲斐守、花染をなぐさめん爲、庭に深く池をほらせ、杜若を植(うえ)させ、くもでに橋を渡し、三河の國のやつはしの面影をうつし、片原に小亭を作り、花染、明暮、爰(ここ)に有て小鼓を打(うち)、杜若のうたひ、樂しみけり。誠花染は、唐のあい帝の御袖を立(たち)給(たまふ)薰賢(くんけん)、周のぼく王の餘桃(よたう)のたはむれをなせし彌子賀(びしか)にも劣(おとる)まじき男色なりしかば、了覺、深く愛念し、便(たより)を求(もとめ)、ふみ玉章(たまづさ)を書送(かきおく)る。

 甲斐守、此よしつたへ聞(きき)、華染に、

「了(りよう)覺が汝に心をかけ、數通(すつう)の艷書を送ると聞(きく)。汝、何とて、今迄、我につゝみたる。子細を申すべし。」

といひければ、花染、是を聞(きき)、淚を流し、なくなく申けるは、

「我は、元近江の佐保山の賤敷(いやしき)土民の子にて候を、御取立、御身近く召仕(めしつかまつら)れ候。誠公恩の深きを思へば、山より高く、海よりも探し。かゝる御情を無(む)に仕(つかまつり)候て、いかで、かかり染(そめ)にも、外人(ほかびと)に心を移し申(まうす)べき。君(きみ)に、にくまれ奉りては、我身の行衞、如何可仕(いかがつかまつるべき)。露程(つゆほど)も御疑心を得奉りては、命(いのち)有(あり)ても、生(いき)がいなし。若(もし)了覺に同床の契り有(ある)かと御疑も候はゞ、今宵、ひそかに了覺が方に罷り越(こし)、了覺が首を打(うち)、御目に懸(かく)るへべし。」

と云(いひ)ければ、甲斐守、

「尤(もつとも)然るべし。是(これ)にて切(きり)とゞむべし。」

とて、差居(さしをき)たる脇ざしを花染にとらせける。

 花染、押戴(おしいただき)、其夜、更(ふけ)て、うす衣を打(うち)かつぎ、人目を忍び、了覺院が庵の軒に立忍(たちしの)び、ひそかに扉を音(おと)づれければ、了覺、立(たち)て戶をひらき、花染をみて、大きに悦び、急ぎ、内へしやうじ入るゝ。

 花染、座に着(つき)、了覺に申(まうす)樣、

「日頃、わりなくの玉(たま)ふを、かり染の御たわむれと、うわの空に存(ぞん)ぜしに、僞(いつはり)ならぬ御心底と告(つげ)しらするものありて、御心ざし、もだしがたく、主人、甲斐守、今宵、他行(たぎやう)せしを幸(さいはひ)に、是迄、忍び參(まゐり)候。數ならぬ某(それがし)に、深き御心盡しの程、返す返すも過分に候。」

とて、目に秋波の情をよせ、こと葉を盡し、嘲(アザムキカ)ければ、了覺、深く悅び、色々、心を盡し、馳走をなす。

 はな染、機嫌克(よく)戲れ懸り、了覺に酒をしいければ、了覺、いたく呑(のみ)、醉(ゑひ)ける。

 花染、盃をひかへ、小鼓取(とり)て、打ならし、肴に杜若の謠、所望しければ、了覺、扇拍子を取(とり)、うたふ。

「思ひの色を世に殘して 主(ぬし)は昔に業平なれど 形見の花は 今(いま)爰(ここ)に 在原の 跡な隔(へだて)そ杜若 跡な隔そ杜若 澤邊(さはべ)の水の淺からず」

と謠(うたひ)なから、了覺、おぼへず、とろりとろりと眠(ねふり)ける。

 折を見すまし、花染、鼓、抛捨(なげすて)、甲斐守が呉(くれ)たりし脇差、壹尺八寸備前長光を拔(ぬき)て、了覺が高もゝ、車骨(くるまぼね)より筋違(すぢちがひ)にかけて、

「ふつゝ。」

と切落(きりおと)す。

 了覺、目を覺(さま)し、手を突(つき)て起直(おきなほ)り、

「己に油斷をなし、闇打(やみうち)にせらるゝ事、無念也。」

と齒がみをなし、血眼(ちまなこ)を見ひらき、にらみ付(つけ)たる面魂(つらだましひ)、鬼神(きしん)のごとくなれば、花染、二の刀を打得(うちえ)ずして走り出(いで)、逃行(にげゆき)しを、

「何方迄(いづかたまで)も、のがさじ。」

と、刀を拔(ぬき)、杖につき、跡より追懸(おひかく)る。

 花染、道の側(そば)なる觀音堂に走り付(つき)、柱を傳へ、天井へあがり、隱れ居(ゐ)たり。

 了覺、程なく追來(おひきた)りけるが、花染が隱居たるを見付(みつけ)、傳へ上(のぼ)らんとするに、五體不具にして上り得ず、次第に、正念、亂(みだれ)れば、はがみをなし、

「己、三日とは、やりたてしものを。」

とて、みづから首かきおとし、うつふしに倒れ伏(ふし)、死す。

 花染、急ぎ、天井よりおり、了覺が首を引(ひつ)さげ、我家へ歸り、甲斐守に見せければ、甲斐守、大きに悅(よろこび)、花染をほめて申けるは、

「汝、容色の人に勝れたるのみならず、心の勇も人に勝れり。此了覺は、力も強く、打物(うちもの)も達者にて、世に聞へたる強勢(がうぜい)ものなるを、斯(かく)やすやすと打留(うちとむ)る事、幼年の働(はたらき)には、けなげなり。老行(おひゆく)末(すゑ)、賴有(たのみあり)。」

と、色々の褒美をあたへける。

 扨(さて)、了覺が首を瓶(かめ)に入(いれ)、裏の乾(イヌイ)に埋(うづ)めける。

 或説に了覺が首を摺鉢に入、土器(かはらけ)を蓋(ふた)にし、埋(うづみ)けり、といへり。是、陰陽師(おんみやうじ)のまじないの法にて、かくすれば、跡へ祟(たたり)をなさず、といふ。「壓勝(あつしやう)の法」といへり。

 其夕べ、花染、何心なく伏(ふせ)たりしに、了覺が亡靈、花染が枕元に彳(たたず)み、脇差を拔(ぬき)、花染がのんどを搔切(かきき)ると覺(おぼえ)けるが、其曉(あかつき)、血を吐(はき)て死(しに)たり。

 甲斐守、是を聞、いと不便(ふびん)に覺ければ、花染が死骸、當麻の寺に送り埋(うづめ)、法名を「萃容(ふやう)童子」と名付、跡(あと)、能(よく)、とむらひける。

 昨日迄、盛(さかり)なりし花の姿も、今日引(ひき)かへて、古塚の主(ぬし)となるこそ、哀(あはれ)なれ。

 了覺院、殺されし後より、甲斐守屋敷にては、夜、うしみつ過(すぐ)る頃にもなれば、震動して、座敷にて小鼓を打(うち)、每晩、杜若の謠をうたふ間(あひだ)、家内の男女、おそれをなし、日、暮(くる)れば、書院行(ゆく)者 し。

 或時、甲斐守、只ひとり、座敷に有ける折、日たそかれ過(すぐ)る頃、庭の築山(つきやま)の隱(カゲ)より、了覺院、手に小鼓を提(さげ)、出來(いできた)り、座敷へ上(あが)り、甲斐守と對座(タイザ)し、眼(まなこ)を見ひらき、甲斐守を、

「礑(ハタ)。」

と白眼付(にらみつけ)、いたけ高(だか)になり、またゝきもせず、守り居たり。

 甲斐守、元來、大剛の者なりしかば、少も臆せず、

「己、修驗(シユゲン)の身として邪(ヨコシマ)の色におぼれ、みすから霜刃(さうじん)の難(なん)に逢へり。なんぞ我にあだなすの理(ことわり)あらんや。すみやかに妄執を去(さつ)て、本來空(ほんらいくう)に歸れ。」

と、

「ちやう。」

ど、にらまへければ、了覺が死靈、白眼負(にらみまけ)て、朝日に消(きゆ)る霜のごとく、せんせんとして、消失(きえうせ)けり。

 其夜、甲斐守伏(ふし)たりし枕元に、了覺が靈、來り、つくねんと守り居たり。

 甲斐守目を覺(さま)し、枕元の脇差、取(とり)、拔打(ぬきうち)に切に、影なく消失(きえうせ)たり。

 甲斐守、間もなく、櫛曳(くしびきの)陣に討死し、子、なくして、跡、絕(たえ)たり。

 其後、會津の御城主替りける度々、此屋敷拜領の士、了覺が死靈になやまされ、住(すむ)者なく、誰(たれ)云(いふ)ともなく、「杜若屋敷」とて、明(あき)屋敷となる。

 足輕、番を致しけるに、壱人弐人にては、おそろしがり、勤不得(つとめえず)して、拾人斗(ばかり)にて勤ける。

 いつも、暮每(くれごと)に、座敷にて、鼓の聲有(あり)て、杜若の謠(うたひ)をうたふ。足輕共、おづおづ座敷の體(てい)を窺(うかがふ)に、大山伏のおそろしげ成(なる)が鼓を打(うち)て謠をうたふ也。是を見るもの、氣をうしなひ、死に入(いり)ける。

 寛永四年五月廿五日、加藤式部少輔明成、會津、入部ましましける。

 此時、杜若屋敷主(あるじ)は天河作之丞と云(いひ)て三百五捨石取(とる)士也。或(ある)夕(ゆふべ)、奧川大六・梶川市之丞・佃(つくだ)才(サイ)藏・守岡八藏、作之丞方へ夜咄(よばなし)に來(きた)り、醉後(すゐご)に、大六、

「誠や、此屋敷にて杜若の謠をうたへば、さまざま不思義有(あり)といへり。心見(こころみ)に謠ふべし。」

とて、各(おのおの)、同音に杜若の「くせ」をうたふ。

 折節、さも美敷(うつくしき)兒(チフゴ)、かぶり狩衣を着し、扇をひらき、謠につれて舞けるが、暫く有(あり)て消失(きえうせ)たり。

 次の間に、六尺屛風を立置(たておき)しが、其上を見越して大山伏、面(おもて)斗(ばかり)出(いだ)し、

「此屋敷にては其謠はうたわぬぞ。止(やめ)よ、止よ。」

といふて失(うせ)たり。

 猶、謠、止(やめ)ず謠(うたふ)折、例の山伏、座敷へ來り、

「未(いまだ)止ぬか。」

と云て、才藏があたまを、はる。

 才藏、刀を拔(ぬき)、山伏を切らんとすれば、姿、忽(たちまち)、消失(きえうせ)たり。

 其後も、了覺が靈、甚(はなはだ)あれけるまゝ、作之丞、了覺が靈を祭り、「杜若明神」と名付(なづけ)、私(わたくし)にほこらを立(たて)、祭りをなし、僧をやとい、靈を吊(とむらひ)ければ、其後、了覺が亡靈、靜(しづま)りて、何の祟りもなさず。

 杜若明神、後には家護靈神と號せり、といへり。

 

[やぶちゃん注:「天正十八年」一五九〇年。

「蒲生飛驒守氏郷」(弘治二(一五五六)年~文禄四(一五九五)年)近江出身。初名は賦秀(やすひで)。キリスト教に入信(洗礼名・レオン或いはレオ)。織田信長・豊臣秀吉に仕え、九州征伐・小田原征伐の功により会津四十二万石(後に九十二万石)を領した。転封から没するまで陸奥黒川城(=鶴ヶ城)主であった。最後は病死で享年四十。

「蒲生郡」旧郡域は現在の蒲生郡に加えて、竜王町の全域・日野町の大部分・近江八幡市の大部分・東近江市の一部に当たる。参照した旧域はウィキの「蒲生郡」を見られたい。

「鳴海甲斐守」不詳。識者の御教授を乞う。

「三の町」「三之町」。ウィキの「上町(会津若松市)」(「うわまち」と読む)によれば、『若松城下の城郭外北部に属しており、西側の大町から馬場町を経て東側甲賀町に至る東西を結ぶ通りで、二之町の北に位置していたほか、幅は』三『間であった。西側の大町から馬場町までを下三之町、東側の馬場町から甲賀町までを上三之町といった。ただし、本町は現在の上町の町域には含まれないとされている』とある。この附近(グーグル・マップ・データ)。

「錄」ママ。「祿」。

「常世村」非常に珍しい地名であるから、現在の福島県喜多方市塩川町常世(とこよ)であろう。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「禿小性(かむろこしやう)」年少の小姓(こしょう)。ここに見るように、多く男色の相手であった。

「大町(おほまち)」現在の福島県会津若松市大町(ここ(グーグル・マップ・データ))附近。

「當麻(たいま)の寺」会津若松市日新町(ここ(グーグル・マップ・データ)東北角が先の大町の西南角と接する)内の「当麻丁(たいまちょう)」。ウィキの「日新町(会津若松市)」によれば、『若松城下の城郭外北部、当時の下町に属する町で、南側は赤井丁、北側は大和町に接し、桂林寺町の西側に位置する幅』四『間の通りであった。当麻丁は当麻町とも書いたほか、職人、商人などが住んでいたとされる。また、町名は当麻山東明寺があったことによるとされる』とあるから、この「寺」とは現存しない、この当麻山東明寺のことである。

「了覺院」不詳。

「杜若」「伊勢物語」の「東下り」を素材とした後シテを杜若の精とする複式様の夢幻能で、洗練された詞章・音楽・煌(きら)びやかな装束としっとりした舞いで知られる謡曲「杜若」を指すと同時に、実際の杜若(単子葉植物綱キジカクシ目アヤメ科アヤメ属カキツバタ Iris laevigata。見分け方は花蕚体の中央内に綾目がなくことと、葉に中肋がないこと)の花をも含ませる。

「くもで」「蜘蛛手」。「伊勢物語」の「東下り」の段に擬えた。

「三河の國のやつはし」同前。現在、愛知県知立市八橋町寺内にある無量寿寺内にある「八橋旧跡」に比定されている。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「唐のあい帝」これは前漢の第十二代皇帝哀帝(紀元前二十五年~紀元前一年:在位期間:紀元前七年~没年まで:姓・諱:劉欣)の誤り。唐王朝最後の皇帝哀帝(十七歳で暗殺)とは別人。

「御袖を立(たち)給(たまふ)」底本には「立」の右に編者による添漢字『断』がある。ウィキの「哀帝(漢)」によれば、『男色を意味する』「断袖」『という語は、董賢と一緒に寝ていた哀帝が、哀帝の衣の袖の上に寝ていた』寵愛していた美童「薰賢」(人呼称の固有名詞。そうした慈童の源氏名のようなものであろう)『を起こさないようにするため』、『衣を切って起きた、という故事に基づく』とある。

「周のぼく王」周の第五代穆(ぼく)王(紀元前九八五年?~紀元前九四〇年)であるが、以下の注で述べるように、ここは戦国時代の衛の君主霊公の誤り

「餘桃(よたう)のたはむれ」美童の少年相手の男色行為のこと。故事成句「余桃の罪」に基づく。昔、衛の霊公に寵愛された慈童弥子瑕(びしか:後注参照)は、食べた桃があまりにも美味だったので、食べかけを主君に献じて喜ばれたことに由来する。しかし、寵愛が衰えてからは、それを理由に罰せられたという「韓非子」の「説難篇」にある故事で、「余桃の罪」は現在、「権力者の寵愛などが気まぐれであてにならぬこと」の譬えである。

「彌子賀(びしか)」「彌子瑕」が正しいウィキの「弥子瑕」によれば、『弥子瑕(びしか、旧字体=正字体:彌子瑕)は戦国時代の衛国の君主霊公に寵愛されていた男性。韓非の著した』「韓非子」の「説難篇」において、君主に諫言したり、『議論したりする際の心得を説く話に登場する』。『当時』、『衛国では君主の馬車に無断で乗った者は足斬りの刑に処された。ある日』、『弥子瑕に彼の母が病気になった』、『と人が来て知らせた。弥子瑕は母の元へ、君主の命と偽って霊公の馬車に乗って駆けつけた。霊公は刑に処されることも忘れての親孝行を褒め称えた』。『別のある日、弥子瑕は霊公と果樹園へ遊びに出た。そこの桃は大層美味だったため、食べ尽くさずに半分を霊公に食べさせた。霊公は何と自分を愛してくれていることかと彼を褒め称えた』。『歳を取り』、『美貌も衰え』、『霊公の愛が弛むと』、過去の出来事が蒸し返され、『君命を偽って馬車に乗り』、『食い残しの桃を食わせたとして弥子瑕は刑を受けた』。『韓非はこの故事(「余桃の罪」)を以って、君主から愛されているか憎まれているかを察した上で自分の考えを説く必要があると説いている』。「春秋左氏伝」によれば、『衛の大夫・史魚が弥子瑕を辞めさせ、賢臣・蘧伯玉を用いるよう進言し、史魚の死後にそのことがかなえられたという』とある。史魚の謂いから考えると、弥子瑕はイケメンではあったが、内実はただのチャラ男だったということになろう。

「ふみ玉章(たまづさ)」ラヴ・レター。

「華染」ママ。

「つゝみたる」「包みたる」。包み隠してきたのか?

「近江の佐保山」近江国坂田郡(現在の滋賀県彦根市)の佐和山附近の古称と思われる。ここにあった佐和山城(ここ(グーグル・マップ・データ))は佐々木定綱の六男佐保時綱が築いた砦が前身で、この城は古くは「佐保山城」と呼ばれていたからである。

「かかり染(そめ)」ママ。「假染め」。

「生がい」ママ。「生き甲斐(がひ)」。

「しやうじ」「招じ」。

「わりなくの玉(たま)ふを」何とも尋常でなく私めへの思いを述べらるるを。

「もだしがたく」黙って見過ごすわけにもゆかず。

「しいければ」「強いければ」。

「思ひの色を世に殘して 主(ぬし)は昔に業平なれど 形見の花は 今(いま)爰(ここ)に 在原の 跡な隔(へだて)そ杜若 跡な隔そ杜若 澤邊(さはべ)の水の淺からず」読点を使用せず、謡曲の間に合わせて間隙を入れて示した。謡曲「杜若」の前半のシテとワキとの掛け合いの終りから、上ゲ歌の途中まで。私の持つそれでは「主は昔に業平なれども」とある。

「壹尺八寸」五十四・五四センチメートル。

「備前長光」ウィキの「長光」より引く。『鎌倉時代後期の備前国(岡山県)長船派(おさふねは)の刀工。長船派の祖・光忠の子とされる。国宝の「大般若長光」をはじめ、華やかな乱れ刃を焼いた豪壮な作から直刃まで作行きが広く、古刀期においてはもっとも現存在銘作刀が多い刀工の一人である』。

「高もゝ」「高股」。

「車骨(くるまぼね)」不詳。当初、車のように丸い膝の膝蓋骨を考えたが、文脈を子細に検討すると、高股(大腿部)を、「車骨」なる部分から「筋違(すぢちがひ)に」袈裟がけにして、ばっさり、「と切落」したとあるから、これが片足の大腿部自体が斬り落とされたと読むしかなく、そうすると、「車骨」とは、大きな円形を成し、車軸が入るように大腿部が丸い孔に入っているところの骨盤骨を指すのではないか? と次に推理した。しかし、ここで「日本国語大辞典」を引くと、「車骨」は「大きな骨」とあるから、これはただ「大腿骨」を指すことが判明した。大力無双の男の大腿骨を、斜めに、しかも小振りの脇差で一刀両断するというのは、相当な力と技が必要である。この「花染」、ただの美少年ではない

「三日とは、やりたてしものを」意味不明。底本は「三日とはやりたてしものを」。識者の御教授を乞う。私は「逸り立て」(気負い立つ)から「覚悟をもってやり遂げる」の意ととり、直後に自害していることから、「(この恨みを以って)三日とは(待たさずに、貴様のいの命を)奪い去って見せてやるぞッツ!」という意味で取り敢えず採った。実際には三日どころか、その翌日(「その夕べ」そうとらえるのが時制的には自然である)の夜にとり殺されているのであるが

「乾(イヌイ)」北西。

「壓勝(あつしやう)の法」不詳。そもそもがこれ、陰陽道の悪鬼・怨霊の祟り封じの呪法だとうのであるが、それが前者の「了覺が首を瓶に入、裏の乾(イヌイ)に埋めける」という仕儀がそれなのか、以下の「了覺が首を摺鉢に入、土器を蓋にし、埋けり」という仕儀がそれなのか判らぬ。両方を足せばよいのだろうが、そうなると甕と擂鉢の有意な相違があるから、駄目である。

「萃容(ふやう)」「萃」は集まるの意。従ってこれは花の「芙蓉」の意味ではなく(それも掛けているかも知れぬが)、美しい「容」姿が「萃」(あつま)っているの謂いであろう。

「古塚の主(ぬし)」「ぬし」は謡曲の読みに合わせて私が振った。

「うしみつ」「丑三つ」「丑滿つ」。

「いたけ高(だか)」「居丈高」。「威丈高」とも書くが、当て字。人に対して威圧的な態度をとるさま。

「霜刃」霜のように光る鋭い刀の刃。

「あだなす」「仇成す」。

「本來空(ほらいくう)」仏語。一切のものは、元来、仮りの存在でしかなく、実体のない「空」であるという、そうした本質を指す。

「ちやう。」「ちやうど(ちょうど)」で「はったと・かっと」の意。目を見開いて対象を睨みつけるさまを指すが、私は今までもそうしたオノマトペイアを直接音(直接話法)に準じて、かく、表わしている。それが、より怪奇談の臨場感を倍化せると信ずるからである。

「にらまへ」「睨まへ」。「にらまふ」は他動詞ハ行下二段活用で「睨みつける」の意。

「せんせんとして」「閃々として」か。きらきらと輝きを伴いながら。

「つくねんと」副詞。独りで何もせず、ぼんやりしているさま。

「櫛曳(くしびきの)陣」九戸政実(くのへまさざね)の乱(天正一九(一五九一)年)を指すか。これは南部氏一族の有力者であった九戸政実が、南部家当主の南部信直及び奥州仕置を行う豊臣方軍勢(蒲生氏郷・堀尾吉晴・井伊直政)に対して起こした反乱。この反乱軍側の武将の一人に櫛引清長がいるからである。則ち、私の推理が正しいとすれば、蒲生氏郷の家臣の一人であった鳴海甲斐守なる人物はこの九戸政実の乱制圧軍の一人として参戦し、敵の櫛引清長の陣に突撃して果てたという解釈である。

「寛永四年五月廿五日」一六二七年七月八日。

「加藤式部少輔明成」「猫魔怪」に既出既注。

「天河作之丞」不詳。以下の人名も同様なので、注を略す。

「くせ」掉尾の「序ノ舞」の前にある後半の山場。以下に示す。

   *

地〽 しかれども世の中の ひとたびは榮え ひとたびは 衰ふる理(ことわ)りの 誠なりける身の行方 住み所(どころ)求むとて 東(あづま)の方に行く雲の 伊勢や尾張の 海面(うみづら)に立つ波を見て いとどしく 過ぎにし方の戀しきに 羨ましくも かへる浪かなと うち詠(なが)めゆけば信濃なる 淺間の嶽(だけ)なれや くゆる煙(けふり)の夕氣色

シテ〽 さてこそ信濃なる 淺間の嶽に立つ煙

地〽 遠近人(をちこちびと)の 見やはとがめぬと口ずさみ 猶はるばるの旅衣 三河の國に着きしかば こゝぞ名にある八橋の 澤邊に匂ふ杜若 花紫のゆかりなれば 妻しあるやと 思ひぞ出づる都人 然るに此物語 その品(しな)おほき事ながら とりわき此八橋や 三河の水の底(そこ)ひなく 契りし人びとのかずかずに 名を變へ品を變へて 人待つ女 物病(ものやみ)み玉簾(たますだれ)の 光も亂れて飛ぶ螢の 雲の上まで往(い)ぬべくは 秋風吹くと 假(かり)に現はれ 衆生濟度の我ぞとは 知るや否や世の人の

シテ〽 暗きに行かぬ有明の

地〽 光普(あまね)き月やあらぬ 春や昔の春ならぬ 我が身ひとつは もとの身にして 本覺眞如の身を分け 陰陽(いんによう)の神といはれしも ただ業平の事ぞかし 斯樣(かやう)に申す物語 疑はせ給ふな旅人 遙々來ぬる唐衣 着つつや舞を奏(かな)づらん

   *

以上に後に、シテの「詠」、

 

シテ〽 花前(くわぜん)に蝶舞ふ。紛々たる雪

地〽 柳上(りうしやう)に鶯飛ぶ片々たる金(きん)

 

が入って「序ノ舞」となる。

「うたわぬ」ママ。「謠はぬ」。

「あれける」「荒れける」。

「やとい」ママ。「雇ひ」。

「杜若明神、後には家護靈神と號せり」怨霊を祀って宥め、それを逆に家や一族や都市及び国家の防備に転用するのは、御霊信仰に限らず、古来からの汎世界的な老獪なシステムの代表的な方策である。]

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