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2017/10/07

老媼茶話巻之三 猪苗代の城化物

 

老媼茶話卷之三 

 

    猪苗代の城化物

 

 加藤左馬助義明、同式部少輔明成御父子の節、猪苗代御城代堀部主膳、相(あひ)つとむ。祿壱萬石。寬永十七年十二月、主膳、只壱人、座敷に有ける折、いつくともなく、禿(かむろ)來りて、

「汝、久敷(ひさしく)此城に有といへ共、今に此城主に御目見をなさず。いそぎ、身をきよめ、上下(かみしも)を着(ちやく)し、來るべし。今日、御城主、御禮請(おんれいうけ)させらるべし、との上意也。敬(いやまひ)て御目見へ可仕(つかまつるべし)。」

と云。

 主膳、聞(きき)て、禿を白眼(にらみ)、

「此城主は主人明成、當城代は主膳也。此外に城主あるべき樣なし。につくき、やつめ。」

と、禿を、しかる。

 禿、笑(わらひ)て、

「姬路のおさかべ姬と、猪苗代の龜姬をしらざるや。汝、今、天運、すでに盡果(つきは)て、又、天運のあらたまる時を知らず。猥(みだり)に過言(くわごん)を咄出(はなしいださ)ず。汝が命數も、すでに盡たり。」

と云て、消失(きえうせ)たり。

 明(あく)る春正月元朝(がんてう)、主膳、諸士の拜禮を請(うけ)んとて、上下を着し、廣間へ出(いで)ければ、廣間の上段に、新敷(あたらしき)棺桶をそなへ、其側(そば)に葬禮の具、揃置(そろへおき)たり。

 又、其夕べ、いづく共知れず、大勢のけはいにて、餅をつく音、せり。

 正月十八日、主膳、雪隱より煩付(わづらひつき)、廿日の曉(あかつき)、死たり。

 其年の夏、柴崎又左衞門といふ者、三本杉の淸水の側にて、七尺斗(ばかり)なる眞黑(まつくろ)の大入道、水をくむを見て、刀を拔(ぬき)、飛懸(とびかか)り切付(きりつけ)しに、大入道、忽(たちまち)、行衞なく成(なり)たり。久しく程過(すぎ)て、八森に、大きなる古むじなの死骸の、くされて有りしを、猪苗代木地(きぢ)小屋のもの、見付たり。

 夫(それ)より、絕(たえ)て何のあやしき事、なかりし、といへり。

 

[やぶちゃん注:「猪苗代の城」現在の福島県耶麻郡猪苗代町古城町に城跡が残る。ここ(グーグル・マップ・データ)。別名を亀ヶ城と呼ぶが、これは猪苗代城の北西の丘陵にある戦国時代の鶴峰城(城跡遺構が残り、史料から中世に猪苗代城を本拠地とした猪苗代氏の隠居城と推定されている。猪苗代城が近世城郭として残ったのに対し、猪苗代氏が去った後に廃城となっている)との対称と考えられる。参照したウィキの「猪苗代城」によれば、本『城は会津領の重要拠点として、江戸幕府の一国一城令発布の際もその例外として存続が認められ、それぞれの家中の有力家臣が城代として差し置かれていた』とある。

「加藤左馬助義明」(よしあき/よしあきら 永禄六(一五六三)年~寛永八(一六三一)年)は豊臣秀吉に仕えた賤ヶ岳本槍の一人で、九州征伐・小田原征伐・文禄の役・慶長の役に従軍したが、関ヶ原の戦いでは東軍につき、松山、後、会津藩初代領主となった。彼が会津藩主となったのは寛永四(一六二七)年で、本拠は若松城であった。

「同式部少輔明成」(天正二〇(一五九二)年~万治四(一六六一)年)は加藤嘉明の長男で会津藩第二代藩主。父の死後、家督と会津藩四十万石の所領を相続した。慶長一六(一六一一)年の会津地震で倒壊し、傾いたままだった蒲生時代の七層の若松城天守閣を、幕末まで威容を誇った五層に改め、城下町の整備を図って、近世会津の基礎を築いたが、堀主水を始めとする反明成派の家臣たちが出奔すると、これを追跡して殺害させるという事件(会津騒動)を起こし、そのことを幕府に咎められて改易された(寛永二〇(一六四三)年五月)。その後、長男明友が封じられた石見国吉永藩に下って隠居している(ウィキの「加藤明成」に拠った)。

「御父子の節」この謂いから、堀部主膳は寛永四(一六二七)年の時点で既に義明の家臣であったと考えてよい。

「堀部主膳」この怪奇談以外では不詳。

「寛永十七年十二月」同年旧暦十二月一日はグレゴリオ暦では既に一六四一年一月十二日である。

「禿(かむろ)」中世までは「かぶろ」。元は子供の髪形の一つで、髪の末を切り揃えて結ばないものであるが、その髪形をしている子供をも指した。

「敬(いやまひ)て」私の推定訓。礼儀を尽くして。

「白眼(にらみ)」底本の訓を用いた。

「姬路のおさかべ姬」姫路城の天守に巣食っているとされた女怪「長壁姫」。「小刑部姫」「刑部姫」「小坂部姫」などとも書く。ウィキの「長壁姫」によれば、年に一度だけ『城主と会い、城の運命を告げていたと言う。松浦静山の随筆『甲子夜話』によれば、長壁姫がこのように隠れ住んでいるのは人間を嫌っているためとあり』、『江戸時代の怪談集『諸国百物語』』(私の電子化注「諸國百物語卷之三 十一はりまの國池田三左衞門殿わづらひの事」を参照されたい)『によれば、天主閣で播磨姫路藩初代藩主池田三左衛門輝政の病気平癒のため、加持祈禱をしていた比叡山の阿闍梨の前に、三十歳ほどの妖しい女が現われ、退散を命じた。逆に阿闍梨が叱咤するや、身の丈』二丈(約六メートル)』『もの鬼神に変じ、阿闍梨を蹴り殺して消えたという』。『長壁姫の正体は一般には老いたキツネとされるが』、『井上内親王が息子である他戸親王との間に産んだ不義の子』、『伏見天皇が寵愛した女房の霊』、『姫路城のある姫山の神などの説もある』。『姫路城が建つ姫山には「刑部(おさかべ)大神」などの神社があった(豊臣秀吉は築城にあたり刑部大神の社を町外れに移した)。この神社が「おさかべ」の名の由来である』。『初期の伝説や創作では、「城ばけ物」』(「諸国百物語」延宝五(一六七七)年刊)『などと呼ばれ』、『名は定まっていなかった』。『この社の祭神が具体的に誰であったかは諸説あり』、『不明だが、やがて、城の神であり、城主の行いによっては祟ると考えられた。これに関しては次のような事件がある。関ヶ原の戦い後に新城主となった池田輝政は城を大規模に改修したのだが』、慶長一三(一六〇八)年に『新天守閣が完成するころ、さまざまな怪異が起こり』慶長十六年には、『ついに輝政が病に臥してしまった。これが刑部大神の祟りだという噂が流れたため、池田家は城内に刑部神社を建立し刑部大神を遷座した』。『この刑部明神が多くの誤伝を生み、稲荷神と習合するなどして、天守閣に住むキツネの妖怪という伝承が生まれたとする説もある』。『民俗学研究所による『綜合日本民俗語彙』では、姫路から備前にかけての地域ではヘビがサカフと呼ばれることから、長壁姫を蛇神とする説が唱えられている』。先の「諸国百物語」では『性別もはっきり決まっていなかった(男女含むさまざまな姿で現れた)が、やがて女性と考えられるようになった。これには「姫路」からの連想があったと考えられる』。また、「諸国百物語」から六十五年後の本「老媼茶話」(寛保二(一七四二)年序)では『猪苗代城の妖姫「亀姫」と同種の化け物として併記され』、かの泉鏡花の名戯曲「天守物語」では義理の姉妹という設定となっている。『前橋市での伝承では』、寛延二(一七四九)年に『姫路藩より前橋藩へ転封した松平朝矩は、姫路城から長壁神社を奉遷し、前橋城の守護神とすべく』、『城内未申の方角(裏鬼門)に建立した。大水害で城が破壊され』、『川越城への移転が決まったところ、朝矩の夢枕に長壁姫が現れ、川越へ神社も移転するように願ったという。しかし朝矩は、水害から城を守れなかったと長壁姫を詰問し、長壁神社をそのままに川越へ移った。その直後に朝矩が若死にしたのは長壁姫の祟りといわれる。前橋では現在、前橋東照宮に長壁姫が合祀されている』。『鳥山石燕の『今昔画図続百鬼』では「長壁(おさかべ)」とされ、コウモリを従えた老姫の姿で描かれている。一方で』、後に電子化する本「老媼茶話」の巻の五の「播州姫路城」では『十二単を着た気高い女性とされ、小姓の森田図書が肝試しで天守閣に駆け登ったところで長壁姫と出会い、「何をしに来た」と訊ねられて「肝試しです」と答えると、その度胸と率直さに感心した長壁姫は肝試しの証拠品として錣(しころ:兜につけて首元を守る防具)をくれたという』とある(下線やぶちゃん)。『井原西鶴による『西鶴諸国ばなし』では、長壁姫は』八百『匹の眷属を操り、自在に人の心を読みすかし、人の心をもてあそんだと、妖怪として人間離れした記述が為されている』。』『北尾政美による黄表紙『夭怪着到牒』にも「刑部姫」の表記で登場しており、同書では刑部姫の顔を見た者は即座に命を失うとある』。明治一八(一八八五)年『頃に刊行された宮本武蔵の実録物『今古實録
増補英雄美談』によれば、宮本武蔵は武者修行の旅の途上で、「宮本七之介」の名で足軽として姫路城主の木下勝俊に仕えていた。その頃、小刑部大明神を祀っていた姫路城の天守閣では、怪異が相次いでいた。誰もが恐れる天守閣の夜番を無事に乗り切ったことで正体が発覚した武蔵に、城主は改めて天守の怪異の調伏を頼まれる。武蔵は灯りを手に天守閣の五重目へとあがり、明け方まで過ごしていると、小刑部大明神の神霊を名乗る女性が現れた。女性はここに巣食っていた齢数百年の古狐が武蔵に恐れをなして逃げ出したと告げ、武蔵に褒美として銘刀・郷義弘を授けた。だが、これは女性に化けた狐の罠だった。郷義弘は、豊臣秀吉から拝領した木下家の家宝であり、狐は武蔵に罪を着せて城から追い出そうとしたのである。狐の目論みはうまくいかず、武蔵は罪に問われなかった。狐はその後、中山金吾という少年に化けて武蔵に弟子入りしたところを、見破られて退治される』。『この逸話は長壁姫と結び付けられ、前述の『老媼茶話』をもとにした話といわれている』『講釈師・小金井蘆洲(三代目)による講演の口述筆記という形で』、大正四(一九一五)年『の大阪毎日新聞に連載された「宮本武蔵」にも、『今古實録増補英雄美談』とほぼ同じ筋立ての狐退治のエピソードがある。こちらでは、武蔵が名乗った偽名は「滝本又三郎」となっている』。『姫路市の地元では、武蔵の狐退治の逸話が昔話という形で広まっているが、郷義弘が盗品であったなどの後段の部分が省かれ、美談で終わることが多い』とある。

「猪苗代の龜姬」この猪苗代城の女怪の、少なくとも刊本として知られた最初の記載は本「老媼茶話」の本篇が濫觴のようである。予言の言葉をこの禿が語り、消失するところ、後に長壁姫の妹と設定されることなどを考えると、実はこの亀姫の使いとして登場した禿自身が亀姫の変じたものであることは言を俟たない。但し、鏡花の「天守物語」で次条に語られる舌長姥(したながうば)とともに亀姫の御付きの女童(めのわらわ)として登場しており、明らかに別存在の女怪として描かれている。

「猥(みだり)に過言(くわごん)を咄出(はなしいださ)す」「はなしいださ」の読みは底本に従った。「ず」は底本では「す」であるが、打消と判定した。「いい加減なことを大袈裟に言い出したのではないぞ。」の意と採る。

「明(あく)る春正月元朝(がんてう)」寛永十八年一月一日はグレゴリオ暦一六四一年二月十日。

「正月十八日」グレゴリオ暦二月二十七日。

「雪隱より」便所で昏倒したのであろう。死までの時間が短いので重篤な脳出血などが疑われる。

「廿日」グレゴリオ暦三月一日。

「柴崎又左衞門」不詳。

「三本杉の淸水」現在の猪苗代城跡の冠木門を入って大手道を上る右手にある三本杉井戸であろう。

「七尺」二メートル十二センチメートル。

「八森」磐梯山山麓。現在、地名としては残っていない。幾つかの情報からこの中央付近かとも思われる(グーグル・マップ・データ)。

「古むじな」古狸。

「木地(きぢ)小屋」木地師の、恐らくは原木材を切り出す際の作業小屋。木地師は山中の木を切って、漆その他の塗料を加飾しない木地のままの器類を作ることを生業とした職人。木地挽(きじびき)或いはろくろを用いたことから轆轤師(ろくろし)とも呼ばれた。彼らは惟喬親王を祖神とする伝説を持つ。因みに、澁澤龍彦が死の直前まで次回作の素材としていたのが彼らだったことが遺稿ノートから知られている。

「夫(それ)より、絕(たえ)て何のあやしき事、なかりし、といへり」と言うが、当時の藩主加藤明成が会津騒動で改易されるのは二年後の寛永二〇(一六四三)年五月であることを考えると、これもまた、亀姫絡みの祟りともとれなくもない。]

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