トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) 獨り居のとき
獨り居のとき
――影法師
獨り居のとき、何時までも人氣が無いと、ふと誰か部屋のなかに居て、同じ椅子に掛け、また背(そびら)に立つ氣配がする。
その男の居る邊りを振返つて、じつと見つめると、もとより姿はなく、氣配さへも消えてしまふ。が、暫くすると、またまた氣配がしはじめる。
時々、私は兩手頭を抱ヘて、その男のことを考へる。
あれは誰だ、何者だ。萬更知らぬ同志ではない。向ふも私を知つてゐる。私の方でも知つてゐる。どうやらあの男は血續きらしい。しかも深い淵は二人を隔ててゐる。
私はその男の聲も話も侍ち設けない。彼は身動きもせず、まるで啞のやうだ。それでゐて私に話しかける。何やら譯は分らないが、聞覺えのある話をする。その男は私の秘密を、殘らず知つてゐる。
私はその男を怖れはせぬ。一緒に居るのは厭な氣がする。内心の生活に、立會人など無い方がよい。
さう言ふものの私はその男に、赤の他人を感じるのでもない。もしやお前は、私のもう一つの自我ではあるまいか。私の過去の人格ではあるまいか。さうに違ひない、記憶に殘る過去の私と、現在の私との間を、深い淵が隔ててゐるではないか。
その男は私の招きに應じて來るのではない。彼には彼の意志があるやうだ。
兄弟よ、かうしてお互に孤獨の中に、じつと物も言はずにゐるのは、堪らないことではたいか。
だが、もう暫くの辛抱だ。私が死ねば、二人は融け合へるだらう。過去の私と現在の私とは一つになつて、未來永劫の闇に沈まう。
一八七九年十一月
[やぶちゃん注:一九五八年岩波文庫刊の神西清・池田健太郎訳「散文詩」版にはこの中山版の挿絵はない。
「私はその男の聲も話も侍ち設けない」「私はその男の声を聴きたいとか、況や、対話をしたいなどという思いなどは、これ、鼻っから、微塵も持っては、いない」という意味であろう。因みに、後の中山省三郎氏の訳では『私は彼から物音や言葉を期待してゐない』であり、一九五八年岩波文庫刊の神西清・池田健太郎訳では『私はその男の聲も話も期待しない』である。]
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