トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) 雀
雀
私は獵(れう)から戾つて、庭の並木道を步いてゐた。犬は私の前を駈けてゆく。
ふと、犬は步(あし)を小刻みにして、行手に獲物を嗅ぎつけでもしたやうに忍び足をしはじめた。
見ると並木道の先の方に、まだくちばしのまはりの黃色い子雀がゐた。頭には和毛(にこげ)が生えてゐる。並木の白樺を風がはげしく搖すぶつてゐるところを見れば、子雀は巣から振り落されたのに違ひない。やつと生えかけた翼を力なく廣げたまま、じつと身じろぎもぜずにゐる。
犬はそろそろと步み寄つた。すると不意に、ほど近い梢から、胸毛の黑い親雀が、まるで小石のやうに犬のすぐ鼻先へ落ちて來た。總身の羽を逆立て、あさましい姿になつて、懸命の哀れな聲をふり絞つて、二度ばかり、齒を剝きだした犬の口めがけて、襲ひかかつた。
親雀は子の命を、救はうとしたのだ、身を以て子を庇はうとしたのだ。けれど、その小さなからだは激しい恐怖にうち戰き、啼く聲は次第にかすれ、枯れて、つひに氣を失つて倒れた。その身を犧牲にしてしまつたのだ。
雀にしてみれば、犬の姿はどんなに大きな怪物に見えたことだらう。それにも拘らず、親雀は高い梢に安閑としては居られなかつたのである。意志よりも強い何ものかの力が、親雀に身を投げださせたのである。
私の犬は立止つて、じりじりとあと退(ずさ)りをした。彼も、この力に打たれたものと見える。
私は、當惑してゐる犬を呼び返して、肅然とした思ひでそこを立去つた。
さう、どうぞ笑はないでください。私は、このけなげな小鳥の前に、その愛の發露の前に、肅然として襟を正したのである。
私は心のなかでかう思つた――愛は死よりも、死の恐怖よりも強い。それに依つてのみ、愛によつてのみ、生活は支へられ、推し進められるのだ。
一八七八年四月
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