佐藤春夫 女誡扇綺譚 四 怪傑沈(シン)氏 (その2) / 四 怪傑沈氏~了
世外民といふ風變りな名を、私はこの話の當初から何の說明もなしに連發してゐることに氣がついたが、これは私の臺灣時代の殆んど唯(ゆゐ)一の友人である。この妙な名前はもとより匿名である。彼のペンネームである。彼の投稿したものを見て私はそれを新聞に採錄した。私は彼の詩――無論、漢詩であるが、その文才を十分解(かい)したといふわけではないが、寧ろその反抗の氣概を喜んだのである。しかし、その詩は一度採錄したきりだつた。當局から注意があつて、私は呼び出されて統治上有害だと言ふのでその非常識を咎められた。再度の投稿に對しては、私は正直にその旨を附記して返送した。すると、世外民は私を訪ねて遊びに來た。見かけは優雅な若者であつたが、案外な酒徒で、盃盤が私たちを深い友達にした。彼は臺南から汽車で一時間行程の龜山(クウソアム)の麓の豪家(がうか)の出(しゆつ)であつた。家は代代秀才を出したといふので知られてゐた。その頃の私は、つまらない話だが或る失戀事件によつて自暴自棄に堕入(い)つて、世上のすべてのものを否定した態度で、だから世外民が友達になつたのだ。この頃の私にいつも酒に不自由させなかつたのがこの世外民だ。だが私が世外民の幇間(ほうかん)をつとめたと誰(たれ)も思ふまい。第一に世外民は友をこそ求めたが幇間などを必要とする男ではなかつた。私はその點を敬してゐた。――この話として何(なん)の用もあることではないが、私の交遊錄を抄錄したまでである。彼が私との訣別を惜んで私に與へた一詩を私は覺えてゐる。――あまり上手な詩でもないさうだが、私にはそんなことはどうでもいい。
登彼高岡空夕曛
斷雲孤鵠嘆離群
溫盟何不必杯酒
君夢我時我夢君
[やぶちゃん注:最後の漢詩は底本では総ルビで縦に二句で二行であるが、前後を一行空けで、かく、示した。漢詩をルビに従って漢字仮名交りで書き下してみる。
彼(か)の高岡(かうかう)に登れば 空しく夕曛(せきくん)
斷雲(だんうん)の孤鵠(ここう) 離群(りぐん)を嘆く
溫盟(をんめい) 何ぞ杯酒を必(ひつ)とせんや
君(きみ) 我を夢みむ時 我 君を夢みむ
起句の「夕曛」は落日の余光をいう。「鵠」は大型の白い水鳥。白鳥や鸛(こうのとり)に相当。「溫盟」は心の籠った暖かな友情の契り。
「堕入(い)つて」ママ。「い」は「入」のみに附されたルビ。何故か「堕」にはルビがない。「おちいつて」。
「世上のすべてのものを否定した態度で、だから世外民が友達になつたのだ」言わずもがな、主人公「私」のそうした超然とした態度を、友人のペン・ネーム「世外民」に合わせて洒落たのである。]