イワン・セルゲーエヴィチ・ツルゲーネフ作「散文詩」神西清訳 とどまれ!
とどまれ!
とどまれ! 今わたしの目にうつる姿のままで――永遠に、わたしの記憶にとどまれ!
おんみの唇から、霊感に燃える最後の歌ごえが、今しがたかけり去った。――目はかがやかず、きらめきもせず、どんよりとくもって、――さも幸福の思いに、おし伏せられているかのようだ。みごとに「美」を表現できたという気持に、うっとり酔っているかのようだ。そしておんみは、さながらその消えてゆく「美」のあとを追って、おんみの勝ちほこった両の腕を、ぐったりと力ない両の腕を、さし伸べているかのようだ!
日ざしよりもほのかで清らかな、いったいなんの光が、おんみの五体のくまぐまに、おんみの衣裳のかすかなひだにまで、ひとしきり、みなぎり流れたのだろう?
どのような神が、情けこもるその息吹(いぶ)きもて、おんみの振りみだした巻毛を、さっと後へなびかせたのだろう?
その神の口づけは、おんみの大理石のように蒼ざめた顔に、まだ燃えている!
それこそは、――ひらかれた秘密なのだ。詩の、命の、愛の、秘密なのだ! それこそは、おお、それこそは、不滅そのものなのだ! そのほかに不滅はない、――また、いりもしない。いま、この瞬間、おんみは不滅なのだ。
この瞬間はすぎる。そしておんみは、またしてもひと握りの灰になる、女になる、子どもになる。……だがそれが、おんみになんのことがあろう! いま、この瞬間、おんみはいっさいの移ろうものを超え、いっさいの無常なものをはなれたのだ。――このおんみの瞬間は、いつ終る時もあるまい。……
とどまれ! そしてわたしをも、おんみの不滅にあやからせておくれ。わたしの魂のなかに、おんみの「不滅」の照り返しを、落しておくれ!
[やぶちゃん注:太字「おんみ」は底本では傍点「ヽ」。中山省三郎譯「散文詩」では「留れ!」。底本の池田健太郎氏の注によれば、この詩篇は、前の詩篇の注に出した「思い人」ルイーズ・ポーリーヌ・マリー・ヘンリッテ=ヴィアルドー Louise Pauline Marie Héritte-Viardot『に捧げられた頌歌と解される』とある。]
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