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2017/10/15

佐藤春夫 女誡扇綺譚 四 怪傑沈(シン)氏 (その1)

 

    怪傑沈(シン)氏

 

 この風變りな一日(にち)の終りに私と世外民とは醉仙閣(ツイツエンコ)にゐた。――私たちのよく出かける旗亭である。

 これが若し私が入社した當時のやうな熱心な新聞記者だつたら、趣味的ないい特種(とくだね)でも拾つた氣になつて、早速「廢港ローマンス」とか何とか割註をして、さぞセンセイショナルな文字を罹列することを胸中に企ててゐただらうが、その頃は私はもう自分の新聞を上等にしてやらうなどといふ考へは毛頭なかつた。每日の出社さへ滿足には勤めずにわが酒徒世外民とばかり飮み暮してゐた。諸君はさだめし私の文章のなかに、さまざまな蕪雜(ぶざつ)を發見することだらうと覺悟はしてゐるが、それこそ私がそのころ飮んだ酒と書き飛ばした文字との覿面(てきめん)の報いであらう……。

[やぶちゃん注:「蕪雜」雑然としていてととのっていないこと。]

 ――で、私たちは醉仙閣で飮んでゐた。

 世外民は、禿頭港(タツタウカン)の廢屋に對して心から怪異の思ひがしてゐるらしい。さう言へばあの話はいかに支那風(しなふう)に出來てゐる。廢屋や廢址(はいし)に美女の靈が遺つてゐるのは、支那文學の一つの定型である。それだけにこの民族にとつてはよく共感できるらしい。しかし、私はといふとどうもさうは行かない。私がそのうちで少しばかり氣に入つた點と言へば、その道具立(だうぐだて)が總てきくその色彩が惡くアクどい事にあつた。もしこれを本當に表現することさへ出來れば、浮世繪師芳年(よしとし)の狂想などはアマイものにして仕舞ふことが出來るかも知れない。そのなかにある人物は根强く大陸的で、話柄の美としてはそれが醜(しう)と同居してゐるところの野蠻(やばん)のなかに近代的なところがある。幽靈話とすればそれが夜陰(やいん)や月明(げつめい)ではなしに、明るさもこの上ない烈日(れつじつ)のさなかなのが取柄だが、總じてこの話は怪異譚(くわいいだん)としては一番價値に乏しい。それだのに世外民などは專らそこに興味を繫いでゐるらしい。いや、むしろ恐怖してさへゐる。彼は自分が幽靈と對話したと思つてゐるかも知れない。

 私は世外民の荒唐無稽好(ず)きを笑つてゐる。――といふのはそれに對しては私はもうとつくに思ひ當つたことがあるからだ。なぜ私はあの時すぐ引返して、あの廢屋の聲のところへ入込(いりこ)んでゐなかつたらうか。さうすれば世外民に今かうは頑張らせはしないのだ。それをしなかつたといふのも世外民があまり厭がるのと、それよりも空腹であつたのと、また億劫(おつくふ)な思ひをして行つてみるまでもなく解つてゐると信じたからだ。それもすぐに、さうと氣がついたのならよかつたのに、あんな判りきつた事が、なぜ一時間も經つてからやつと氣がついたといふのだらう。多分、あまりに思ひがけなく踏込(ふみこ)まうとするその刹那であつた爲めと、二階から響いて來た言葉が外國語だつたのと、それにつづいてあの老婦人の大袈裟な戰慄の身振りやら、ちよつと異樣な話やらで、全くくやしい事だが私も暫くの間は、多少驚かされたものと見える。本當に理智の働く餘裕はなかつたらしい。――廢屋だと確めて置いた家の中から人聲(ひとごゑ)がしたのであつてみれば、それはその家の住人でない誰(たれ)かが、そこにゐたのにきまつてゐる。その人のために我我は這入(はい)つて行くことを遠慮する理由は少しもなかつた筈だ。現に安平(アンピン)の家のなかにだつて網を繕つてゐた人間の聲がしても我我は平氣で闖入して行つた程だ。何のために我々は躊躇したか。世外民が「人が住んでゐるんだね」と言つたからだ。世外民は何故そんなことを言つたか。それはその時の彼の心理を考へなければならない。多分、聲が我我の踏み込んだ瞬間に恰もそれを咎めるがごとく響いた事が一つ――しかも、その言葉の意味は、あとで聞けば全く反對のものであるが。またあの廢屋は安平のものよりも數十倍も堂堂としてゐて荒れながらにもなほ犯しがたい權威を具へてゐた事。最後に一番重(おも)なる理由としてはそれが單に、女の若さうな玲瓏(れいろう)たる聲であつたが爲めに、若い男である世外民も私も無意識のうちに妙にひるんでゐたのである。さうして、その聲に就ては何の考へることをもせずに、ただびつくりして歸つて來てしまつたのである。

[やぶちゃん注:「玲瓏たる」宝玉を思わせるような美しい声の形容。]

「何(なん)にしても這入つて見さへすればよかつたのになあ。馬鹿馬鹿しい、誰が幽靈の聲などを聞くものか。生きて心臟のドキドキしてゐる若い女――多分、若くて美しいだらうよ、そんな氣がするな――それがそこにゐただけの事さ。――生きてゐればこそものも言ふのさ……」

「でも、むかしから傳はつてゐるのと同じ言葉を、しかも泉州(ツヱンチヤオ)言葉を、それもそのたつた一言を、その女が何故(なぜ)我我に向つて言ふのだ」

 世外民は抗議した。

「泉州言葉は幽靈の專用語ではあるまいぜ。泉州人(ツヱンチヤオナン)なら生きた人間の方がどうも普通に使ふらしいぜ。アハ、ハハ。それが偶然、幽靈が言ひ慣れた言葉と同じだつたのは不思議と言へば不思議さね。――でもたつたそれだけの事だ。君はあの言葉が我我に向つて言はれたと思ひ込むから、幽靈の正體がわからないのだよ。――外(ほか)の人間に向つて言つた言葉が偶然我我に聞かれたのだ。いや。我我を外の人間と間違へて、その女が言ひかけたのさ。さうと氣がついたから、たつた一言(ひとこと)しか言はなかつたのだ。君、何でもないよくある幽靈だぜ、あれや……」

「それぢや、昔からその同じ言葉を聞いたといふその人達はどうしたのだ」

「知らない」私は言つた。「それや僕が聞いたのぢやないのだからね。――ただ、多分は君のやうな、幽靈好きが聞いたのだらうよ。だから僕は自分の關係しない昔のことは一切知らないのだ。ただ今日の聲なら、あれは正(まさ)しく生きてる若い女の聲だよ! 世外民君、君は一たいあまり詩人過ぎる。舊(ふる)い傳統がしみ込んでゐるのは、結構ではあるが、月の光では、ものごとはぼんやりしか見えないぜ。美しいか汚いかは知らないが、ともかく太陽の光の方がはつきりと見えるからね」

「比喩など言はずに、はつきり言つてくれ給へ」一本氣な世外民は少々憤(おこ)つてゐるらしい。

「では言ふがね、亡びたものの荒廢のなかにむかしの靈が生き殘つてゐるといふ美觀は、――これや支那の傳統的なものだが、僕に言はせると、……君、憤つてはいかんよ――どうも亡國的趣味だね。亡びたものがどうしていつまでもあるものか。無ければこそ亡びたといふのぢやないか」

「君!」世外民は大きな聲を出した。「亡びたものと、荒廢とは違ふだらう。――亡びたものはなるほど無くなつたものかも知れない。しかし荒廢とは無くならうとしつつある者のなかに、まだ生きた精神が殘つてゐるといふことぢやないか」

「なるほど。これは君のいふとほりであつた。しかしともかくも荒廢は本當に生きてゐることとは違ふね。だらう? 荒廢の解釋はまあ僕が間違つたとしてもいいが、そこにはいつまでもその靈が橫溢(わういつ)しはしないのだ。むしろ、一つのものが廢れようとしてゐるその蔭からは、もつと力のある潑剌(はつらつ)とした生きたものがその廢朽を利用して生れるのだよ。ね、君! くちた木にだつてさまざまな茸(きのこ)が簇(むらが)るではないか。我我は荒廢の美に囚はれて歎くよりも、そこから新しく誕生するものを讃美しようぢやないか――なんて、柄(がら)にないことを言つてゐら。さういふ人生觀が、腹の底にちやんとしまつてある程なら、僕だつて臺灣三界(がい)でこんなだらしない酒飮みになれやしないだらうがね。だからさ、僕がさういふ生き方をしてゐるかどうかは先づ二の次(つぎ)にしてさ」

「成程。――ところがそれが禿頭港(クツタウカン)の幽靈――でないといふならば、その生きた女の聲と何の關係があるんだらう?」

「下らない理窟を言つたが僕のいふのは簡單なことなのだ。ね、我我の聞いたあの聲の言つたのは『どうしたの? なぜもつと早くいらつしやらない。……』云云(うんぬん)といふのだつたさうだね。それや無論誰(たれ)が聞いても人を待つてゐる言葉さ。で、あの場所の傳說のことは後(あと)にして、虛心に考へると、若い女が――生きた女がだよ、人に氣づかれないやうな場所にたつたひとりでゐて、人の足音を聞きつけて、今の一言を言つたとすれば、これは男を待つてゐるのぢやないだらうかといふ疑ひは、誰(だれ)にでも起る。あたりまへの順序だ。我我があの際(さい)、すぐさう感じなかつたのが反(かへ)つて不思議だ。あの際、僕があれを日本語で聞いたのだつたら一瞬間にさう感附くよ。そこであの場所だが、氣味の惡い噂があつて人の絕對に立ち寄らない場所だ。しかも時刻はといふと近所の人人がみな午睡(ごすゐ)をする頃だ。戀人たちが人に隱れて逢ふには絕好の時と所ではないか。――それも互によほど愛してゐると僕が考へるのは、それはいづれあそこからさう遠いところに住んでゐる人ではなからうが、それならあの家に纏はる不氣味千萬な噂はもとより知つてゐるのだらうから、迷信深い臺灣人がその恐ろしさにめげずに、あの場所を擇(えら)ぶといふところに、その戀人たちの熱烈が現れてゐる。それから、また僕は考へるね。そのふたりは大部以前から、あの時刻とあの場所とを利用することに慣れてゐるのだ。でない位(くらゐ)なら、そんないやな場所へ、女が先に來て待つ度胸も珍しいし、男だつてそれぢやあまり不人情さ。――君が、あの聲を聞いて咄嗟(とつさ)にそれをその住人のものと斷定してしまつたのも無理はないよ。彼等はそこをもう自分たちふたりの場所と信じ切つてゐるほど、その場所に安心し慣れ切つてゐるのだ。それならばこそ我我の足音聞いただけで輕輕しく、あんな聲をかけたりしたのだ。――あそこへは全く近よる人もないと見えるね。そのくせあの家は、女ひとりで這入つて行つても何の怖ろしい事もないほど、異變のない場所なのさ。若い美しい女――藝者(ゲイチア)の五葉仔(ゲフユア)のやうな奴かな。いや、若い女ではなくつて―――」

[やぶちゃん注:「藝者(ゲイチア)」「チ」の部分は実は擦(かす)れて縦棒一本とそこから右に直角に突き出た一本しか判読出来ない。現代の中国音の音写だと「者」は「ヂゥーア」であることから、取り敢えず「チ」で補っておいた

「五葉仔(ゲフユア)」不詳。中国の芸妓界の隠語か? 識者の御教授を乞う。一人前になる直前の芸妓、所謂、本邦の「半玉(はんぎょく)」・「雛妓(おしゃく)」・「舞妓(まいこ)」のようなものか? 或いはそれよりも若い「禿(かむろ)」か?

「―――」(三字分)はママ。但し、頭の一字分で改行であることから、植字工のミスかも知れない。]

「聲は若かつたがな」

「さ、聲は若くつても、事實は圖太い年增女(としまをんな)かも知れないな。でなけりや、やつぱり必ず若い熱烈なる少女か。――それはどうでもいい。判らない。しかし兎も角もさ、今日(けふ)のあの聲は不埓(ふらち)かは知らないが不思議は何もない生きた女のもので、あそこが逢曳(あひびき)の場所に擇ばれてゐたといふ事と、又それだから、あそこにはほんの噂だけで何の怪異もない事は、おのづと明瞭さ。僕は疑はない――ああ、這入つて見れやよかつたのになあ」

「例によつてそろそろ理窟つぽくなつたぞ。――理窟には合つてゐさうだよ。ただね、それが僕の神經を鎭めるには何の役にも立(たた)ない」

[やぶちゃん注:「立」のルビは「た」しかないが、特異的に補った。]

「さうかい。困つたね」

 世外民はやつぱりに私に同感しようとはしない。私は少しばかり、ほんの少しだが、忌忌(いまいま)しかつた。私は酒を飮めば飮むほど、奇妙に理窟つぽくなる。人を說き伏せたくなる。そこでお喋りになるといふごく好くない癖があつた。自分では頭が冴えてゐるやうな氣がするんだが、それは醉つぱらひの己惚(うぬぼ)れで傍(はた)で聞いたらさぞをかしいのだらう。私はつづけた。

「仕方がない。君は何とでも思ひ給へ。だが、今日の事實は怪異譚(くわいいだん)としてはまるで何の値打(ねうち)もないのだがなあ。禿頭港(クツタウカン)で聞いた話にしたつて、因緣話にはなつてゐるものか。――そんな見方をすれや、せいぜい三面特種の値打だ。寧ろ面白いのは、あんな荒つぽいいやな話のなかに案外、支那人といふものの性格や生活といふものの現はれてゐることだ。……」

「夜中(やちう)に境界標(へう)の石を四方へ擴げる話か。――あれや、君、臺灣の大地主(おほぢぬし)のことなら、みんなあんな風に言ふんだ。あれこそ臺灣共通の傳說だよ。――現に」と世外民は酒で蒼くなつた顏を苦笑させて、

「僕の家のことだつてもさう言つてらあ!」

「へえ? これはなほ面白い。いづれはどこかに本當の例が、事實あつたのだらうがね。多分、あの沈(シン)家が本當だらう。それにしてもそいつをどこの大地主にも應用するところはえらい。實際、あの話はあらゆる富豪といふものを簡單明瞭に說明するからね。ふむ。さうかね。だがそれよりも僕にもつと面白いのは犂(からすき)でよぼよぼの老寡婦を突き殺す話だ。――僕はその沈の祖先といふのは粗野な惡黨でこそあるがなかなかの人傑(じんけつ)だつたやうな氣がするのだ。ね、さうでなければ道理に合はない。いかに淸朝の末期に近い政府だつて、また先(さき)が植民地の臺灣だからと言つて、さうさう腐敗した碌(ろく)でなしの役人ばかりをあとへあとへ派遣したわけではあるまい。それが皆(みんな)丸められるのだ。單に金(かね)の力だけではあるまい。沈にはきつと役人たちよりもえらい經營の才があつたのだ――まあ聞きたまへ、僕の幻想だから。胡蘆屯(コロトン)附近と言へば、君、この島でも最もよく開墾された農業地だらう。『……いつもいふ通り、おれは自分の地所の近所に手のとどかない畑があるのは、氣に入らないのだ。……婆さん。さあどいた。畑といふものは荒して置くものぢやない。……本當に死にたいんだな。もう死んでもいい年だ』か。さう言つてひらりと馬を下りて自分の手で突き殺したと言つたね。僕には强い實行力のある男の橫顏が見えるやうな氣がするんだ。さういふ男の手によつてこそ、未開の山も野も開墾出來るのだ。草創時代の植民地はさういふ人間を必要としたのだ。役人たちの目の利(き)いたものは、彼の事業を、政府自身の爲めに樂しみにしてゐたかも知れないのだ。その報酬に惡德を見逃すばかりか、暗には奬勵してゐたかも知れないのだ。その男はちやんとそれを心得てゐた。その遺言が更に面白いではないか。『三十年すれば』いかに植民地政治でもだんだん行屆(ゆきとゞ)いて整つて來た擧句には、彼が折角開拓した廣大な土地を、今度は彼よりももつときい暴虐者が出て左右することを見拔いてゐたのだ。何と怖ろしい識見ではないか――彼は政治といふものの根本義を、まるで社會學者みたいに知つてゐて、それを利用したのだ。人のものを掠奪(りやくだつ)してそれへすつかり仕上げをかけて、やれ田だのと畑だのと鍍金(めつき)をするのさ、そいつを賣拂(うりはら)つて金(かね)にへる。それから商賣をするんだね。全く商賣といふものは世(よ)が開化した後(のち)の唯一の戰爭だからね。しかも安全な戰爭だ――元手の多い奴ほど勝つに定(きま)つてゐる。彼は自分の子孫たちに必勝の戰術を傳授して置いたのさ。奴の仕事は何もかも生きる力に滿ちてゐる。萬歲だ。ところでさ、そのやうな先見のある男でも、自然が不意に何をするかは知らなかつたのが、人間の淺ましさだ。繁茂してゐた自然を永い間かかつて斬(き)り苛(さいな)んだ結果に贏(か)ち得た富を、一晩の颶風(はやて)でやつぱりもとの自然に返上したといふのだから好(い)いな。態(ざま)を見やがれさ。――するとやつぱり因果應報といふことになるのかな。僕はそんなことを説敎するつもりではなかつたつけな……」

[やぶちゃん注:「贏(か)ち得た」「贏」(音「エイ」)は「もう(儲)ける・あま(余)る・の(伸)びる・つつ(包)む・にな(荷)う・か(勝)つ」と訓じ、「余分に残る・残す・余分な残りもの」「利益を得る・儲ける・その利益や儲け」「賭(かけ)や競争で勝つ」の意がある。]

 私はいつの間にかひど醉つて來て、舌も纏れては來るし、段段冴えて來ると己惚(うぬぼ)れてゐた頭がへんにとりとめがなくなり、ふと口走つた――「花嫁の姿をして腐つてゐたつて? よくある奴さ。花嫁の姿をして死ぬ。それがだんだん腐つてくる、か。生きてゐる奴で冷たくなつて、だんだん腐つてくるのもある。金簪(きんさん)で飾つてさ、ウム」

 世外民はこれも亦いつもの癖で、深淵のやうに沈默したまま、私のをかしな言葉などは聞き咎めるどころか、てんで耳に入(はい)らぬらしく、老酒(ラウチユウ)の盃(さかづき)を持ち上げたままで中空を凝視してゐた。

「世外民、世外民。この男の盃を持つてゐるところには少々魔氣(まき)があるて」

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