老媼茶話巻之三 天狗
天狗
加藤嘉成の士に、小嶋傳八、一子(いつし)惣九郎、十一の春の暮、何方へ行けるか、ひぐれて見へず。さまざま尋見(たづねみ)れ共、行衞、更に知れず。傳八夫婦、鳴悲(なきかな)しみ、佛神へきせいをかけ、御子(ミコ)・山伏を賴み、色々、祈禱なす。甲賀丁(ちやう)に古手屋(ふるてや)甚七といふもの、傳八方へ來り申(まうし)けるは、
「是(ここ)の惣九郎樣、廿日斗(ばかり)前の曉(あかつき)頃、我等、用事有(あり)て、はやく起(おき)、見せの戸をひらき候折(をり)、大山伏兩人、跡先(あとさき)に立(たち)、惣九郎樣を中にはさみ、東へ向きて道をいそぎ候が、壱人の山伏、我等が方へ參り、
『此邊に十斗(ばかり)成(なる)子共のはくべきわらぢのうりものは、これなきや否や。』と申(まうす)。
『無(なし)。』
答へ候へば、夫(それ)より、いづく江行(ゆき)候や、姿を見失ひ申候。」
と語る。
傳八夫婦、聞(きき)て、
「扨(さて)は天狗にさらわれたるもの也。」
とて、其頃、妙法寺の日覺上人といふ、たつとき出家を賴(たのみ)、五の町車川の端に護摩壇をかざり、法家坊主弐拾人斗(ばかり)にて經讀祈禱する。
七日にまんずる日中(ひなか)、一點の雲なき靑天、虚空にちいさき物、見ゆる。見物の諸人、山をなして、空を見るに、東より大とび壱羽、飛來(とびきた)り、是をさらい取(とら)んとする事、度々なり。
時に、壱羽、金色(こんじき)の烏(からす)、何方共(いづかたとも)なく飛來り、此鳶を隔(へだ)て近づけず、段々に地にくだり、間近く見るに、人なり。三拾番神の壇に落(おち)たるを見るに、小嶋惣九郎也。
諸人奇異の思ひをなし、其頃、日覺上人をば、
「佛の再來也。」
と諸人、沙汰せし、といへり。
惣九郎は、一生、空氣(うつけ)に成(なり)、役にたゝざりしと也。
[やぶちゃん注:これは、柴田宵曲の妖異博物館の「天狗の誘拐」にも紹介されている(リンク先は私の電子化注のそれが出る最後のパート)。
「加藤嘉成」陸奥会津藩初代藩主加藤嘉明(永禄六(一五六三)年~寛永八(一六三一)年)とその嫡男で陸奥国会津藩第二代藩主となった加藤明成(天正二〇(一五九二)年~万治四(一六六一)年)(複数回既出既注)の名を混同した誤り。今までの記事から見て、後者と思われる。但し、先の柴田宵曲の妖異博物館の「天狗の誘拐」では、勝手に父の方「加藤嘉明」として紹介してある。不審。
「小嶋傳八」不詳。
「ひぐれて」「日暮れて」。この前後、原典は「何方へ行けるかかひくれて見へす」。「搔い(き)暮れて」と読めなくもないが、底本編者は「か」の一字ダブりは衍字と判断しているので、今回は除去した。
「きせい」「祈誓」。
「御子(ミコ)」「巫女」。
「甲賀丁(ちやう)」現在の福島県会津若松市相生町(あいおいまち:ここ(グーグル・マップ・データ))の中の旧町名。ウィキの「相生町(会津若松市)」によれば、『甲賀町(こうかまち)は若松城下の城郭外北部、当時の上町に属する町で、南側は甲賀町口、北側は滝沢組町に接する幅』四『間あまりの通りであった。傍出町として大工町があったほか、甲賀町は文禄年間の成立で、蒲生氏郷が日野(近江)から移住した商工業者を置いた町であるとされる。このため、かつては日野町と呼ばれていたが、加藤氏が甲賀町と改称したとされる』とある。
「古手屋(ふるてや)」古着や古道具を売買する店。
「子共のはくべきわらぢのうりもの」「子供の履くべき草鞋の賣り物」。
「さらわれたる」「わ」はママ。「攫はれたる」。
「妙法寺」現在の福島県会津若松市馬場本町(相生町の東隣接地区で、前の古手屋甚七の家からごく近いと思われる)に、現在は顕本法華宗の別格本山である宝塔山妙法寺があるから、ここであろう。ウィキの「妙法寺(会津若松市)」によれば、明徳二(一三九一)年に『会津出身の僧日什が、故郷会津に帰国した際、城主蘆名氏が寄進』したとある。但し、『戊辰戦争で堂宇』は全焼してしまったとある。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「日覺上人」不詳。識者の御教授を乞う。
「五の町」同じく先の相生町の中の旧町名。ウィキの「相生町(会津若松市)」によれば、『五之町(ごのまち)は、若松城下の城郭外北部、当時の上町に属する町で、西側の大町から馬場町を経て東側の中六日町に至る幅』三『間の通りであった。また、四之町の北に位置していたほか、五之町には元禄年間に移った臨済宗実相寺があった。西側の大町から馬場町までを下五之町、東側の馬場町から中六日町までを上五之町といった』とある。
「車川」河川名であるが、不詳。地図を見ると、現在の相生町の北西には川らしきものがあり、その直線上を辿って同地区を越えた辺りに身近に川らしきものが南東に少し見えるから、現在は相生地区下では暗渠になっていると推定されるものが旧車川なのかもしれない。
「法家坊主」ママ。「法華坊主」。川端での祈禱パフォーマンスは布教にも一役買ったことであろう。
「大とび」「大鳶」。
「是」空中に浮かぶ「ちいさき物」。実は空中を浮遊する小嶋惣九郎である。
「さらい」ママ。「攫ひ」。
「金色(こんじき)の烏(からす)」神武東征の際に高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)によって神武天皇のもとに遣わされて、彼を熊野から大和橿原へと道案内したとされる神の使いたる鴉(一般的に三本足とされる)である八咫烏(やたがらす)の変形であろう。山伏らの修験道と密接な関係を持つ熊野三山に於いて、八咫烏は太陽の化身(金色と連関)ともされ、またミサキ神(死霊が鎮められた神霊としての神の使い)ともされており、熊野大神(素盞鳴尊)に仕える存在として信仰されるが、「日本書紀」では同じ神武東征の場面に金鵄(きんし:金色の鳶(とび))が長髄彦(ながすねひこ)との戦いで神武天皇を助けたともされることから、「八咫烏」と「金鵄」がしばしば同一視或いは混同されるからである(ここはウィキの「八咫烏」を参考にした)。
「三拾番神」国土を一ヶ月三十日の間、交替して守護するとされる三十の神。神仏習合に基づいた法華経守護の三十神が著名。初め天台宗で、後に日蓮宗で信仰された。見られたことない方にはイメージしにくいと思われるので、グーグル画像検索「三十番神」をリンクさせておく。]
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