トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) とどまれ
とどまれ
とどまれ。いま私の見る姿のままで、いつまでも私の記憶にとどまれ。
いま御身の唇から、靈感に燃える終節(フイナーレ)のひと聲が羽ばたいて去つた。御身の眼は、もはやきらきらと輝かない。幸福に壓し伏せられた者のやうに、その光は失せる。一つの美をみごとに表出(あらは)し了せたといふ自覺の喜びに壓し伏せられて、その光は消える。羽ばたき去る美のあとを追つて御身は、勝ち誇ろ力も失せた兩手を、空しくさし伸べるかのやうだ。
はつ秋の午後の日ざしよりも淸らに濃やかな光が、御身の手足に沿うて、薄絹のどんな細かな襞々にも流れたことぞ。
どんな神の居て、情の籠るその息吹きに、御身の振りみだした捲毛の髮を、やさしく後(うしろ)へ靡かせたのだ。
その神の接吻(くちづけ)の痕は大理石(なめいし)のやうに蒼ざめた御身の額に、まだ燃えてゐる。それこそは、發かれた神秘の痕だ。詩の、生の、戀の神秘の。……ああ終に、それこそは不滅のものの姿だ。これを措いては、不滅はない。またある要もない。いま、この瞬間、御身は不滅だ。
この瞬間は過ぎる。そして御身は再び一握の友に、女性に、子供になる。……だが、それが御身にとつてなんだらう。今この瞬間、御身は現身(うつそみ)を超える。流轉のものの外に立つ。この御身の瞬間は、決して盡きるときがあるまい。
とどまれ。そして私をも、御身の不滅にあやからしめよ、私の魂に、御身の『永遠』の餘映を落さしめよ。
一八七九年十一月
[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「ヽ」。訳者註。
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『とどまれ』 これはトゥルゲーネフ反省のよき友、助言者、また純粹な意味での戀人であつたヴイアルドオ夫人(Pauline Viardot, 1821―1910)に捧げられた頌歌と解される。
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本篇は新改訳(表題は「とどまれ!」)がある。なお、一九五八年岩波文庫刊の神西清・池田健太郎訳「散文詩」版にはこの中山版の挿絵はない。]
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