老媼茶話巻之三 亡魂
亡魂
下野宇都宮上川原町、長嶋市左衞門と云(いふ)者の女房、究(きはめ)て邪見なるもの也。子なくして養子をなしける。市三郎とて廿四になり、靜成(しづかな)る者也。
其養子を深くにくみ、夫市左衞門をすゝめ、田川といふ所へ、夜、川殺生(かはせつしやう)に連行(つれゆき)、川端にて市三郎を切殺(きりころ)し、死骸を川へ深く沈め、空知(そし)らずして、宿へ歸り、程過(ほどすぎ)て、親本・近所へは、
「惡所へはまり、金をつかひ、缺落(かけおち)せし。」
といゝ觸(ふら)して、缺落の訴(うつたへ)をする。
依之(これによつて)、宇都宮御城下、町々在々、人體書(にんていがき)にて、ふれ出(いづ)る。
市三郎、兄弟もなく、新(シタ)しきゆかりも絶(たえ)てなかりしかば、夫(それ)なりに濟(すみ)たり。
市三郎を殺せしは四月初(はじめ)成りしに、其月の十五、六日より、市左衞門女房、市三郎死靈(しりやう)に取付(とりつか)れ、我身に隱せし惡事を吐(ハキ)出(いだ)し、一生の恥を顯はし、果(はて)には、鋏を以て、おのれが舌を、はさみ切(きり)、血みどろに成(なり)、五月三日の暮方に狂死(くるひじに)に死(しに)たり。
女のなきがらを、う津宮の淸閑寺江葬るに、野邊へ送り行(ゆく)道、鵜梶兵左衞門と云(いふ)ものゝ石橋の上にて、晴たる空、俄(にはか)に、かき曇り、大雷大雨、ふり、くら闇と成り、黑雲、棺(くわん)の上へ落懸(おちかか)り、棺をうづ卷(まき)、さらいとらんとする事、三度也。
此折の引導は、清閑寺七代目、南如無活傳溪(ナンニヨムクワツテンケイ)上人とて、俗姓山本、勘介賴鈍が孫也。
棺の上へ覆ひ懸り、大音聲(だいをんじやう)にて經をよみ、終(つひ)に棺をとられず、雨止(あめやみ)て、はるゝなり。
其後、引導をすまし、火葬にするに、棺の内より、靑き火、盛(さかん)に燃出(もえいで)て、おのづからに燒(やけ)たり。是、業火(がふくわ)と云(いひ)て大惡人にある事也といへり。
寛文十九年五月四日の事也。
心淨妙遊信女と名づく。
宇津の宮淸閑寺の過去帳にあり。
[やぶちゃん注:「下野宇都宮上川原町」現在の栃木県宇都宮市大通り附近と思われる(グーグル・マップ・データ)。この地区の中央を南西―東北に貫通する通りの名が「上河原通り」であること、南西に「中河原町」「下河原町」が続くことから推定した。
「其養子を深くにくみ」「靜成(しづかな)る者」なのに、何故に深く憎んだのかが記されていないのが頗る不満である。満二十三歳という青年である。長嶋市左衛門の年増の女房こそが、実は若き市三郎に色目を遣って断られ、逆に市三郎から諫められたりしたものではあるまいか? それなら、この女房の恨みは愛憎反転によって致命的に深くなるからである。昨今の下らぬ不倫騒ぎの話が私を刺激したわけではない。三坂は、この救いようもなくこの世を去って亡霊となった市三郎にこそ、もっと静かなりに、現世上のヒューマンなキャラクターを与えてやるべきだったのではないか? さすればこそ、女房の狂乱や青い怪火の出来(しゅったい)にある重みが加わるのに、と甚だ不満なのである。
「夫市左衞門をすゝめ」市三郎のあることないことを悪意で謂い重ねて、遂には殺害の実行を唆(そそのか)すことに成功したというのであるが、夫がその実行犯を容易に受け入れるところには、夫も市三郎をよからず思っていた事実を措定しなくてはならぬ。その場合、前注で措定したような忌まわしい事実があって、女房が肘鉄・諫言を受けた腹いせに「市三郎が私を誘惑した」「あんたを殺して駈け落ちしようと慫慂した」などという、ないことないことを積み重ねたのであれば、凡愚な夫は殺害実行役を積極的に買って出ると私は思うのである。
「川殺生」川漁。
「親本」「親元」。後で親しい縁者も絶えていたとあるから、遠い親戚の孤児(みなしご)をこの親許代わりの者が預かって養っていたものであろう。
「惡所」遊廓。
「缺落(かけおち)」「驅け落ち」と同じい。小学館「日本大百科全書」によれば、広義には本文通り、「欠落」と書き、貧困・借財その他の原因で失踪することを指し、欠落(かけおち)する者があると、その者の属する町村の役人は、奉行所・『代官所に届け出る。奉行所では、親類や町村役人に一定の期限を定めてその捜索を命じ、初め』、三十日『を限りとし』その三十日『以内に捜し出さないときは、さらに』三十日『を限って捜索を命じ、このようにして』三十日ずつ、『六度まで延長された。のちに幕府御料の村では初めから』百八十日『限りの尋ねが命じられた』。その百八十日『限りを経過しても』、『欠落人が捜し出せないと、尋ね人は処罰され、改めて永尋(ながたずね)が命ぜられた。欠落人は急度叱(きっとしか)りの刑に処せられた。欠落人の財産は親類、五人組、村役人らに管理させ、田畑は村惣作(そうさく)(村に管理させ、田畑の耕作や年貢弁納の義務を負わせること)とした。永尋が命ぜられ、または欠落人が帳外(ちょうがい)(人別帳から削除される)となるときは、欠落人の跡株(相続田畑)は相続人の願い出により、相続が許され』た。発見された『欠落人は罪科など不当な点がなければ』、『帰住が許された』とある。ただ、特に「駆落」と表記した場合、多くは広義の「欠落」の中でも『恋愛関係の男女が家出する事例を、やや特別視して』称した言葉で、ここはそれ。『法律上は失踪に違いはないが、江戸時代の男女間には姦通(かんつう)や身分制度などの刑事的・社会的規制が強く、女が遊女』であった場合(虚偽ながら、この場合は悪所通いにドップリはまってのそれであるから、これに当たる)は、『前借金も絡むなどの特殊な事情』を区別するためであった、とある。サイト「松本深志高校落研OB会」の「9.遊女の一生」によれば、これとは別に遊廓自体が私的に探索追補をしたとある。遊女を手引きして遊廓から逃亡させ、手に手を取っての「駆け落ち」の場合、『見世側としては、黙って見逃すわけにはいかない。吉原の地回りなど大勢を使って二人を見つけ出すのである。見つけ出された男はほとんどの場合殺されてしまった。遊女は吉原へ連れ戻され、凄惨な折檻を受けることになる。殺してしまえば商品としての価値がなくなってしまうが、それでも他の遊女たちへの見せしめの意味もあり、命を絶たれてしまう遊女もいた』とある。
「缺落の訴をする」この場合、長嶋は相手の遊女や所属した遊廓等は不明とし、養子で家督を継ぐはずの彼の失踪のみを訴え出たということであろう。そうしないと、失踪した遊女の有無から、訴えの嘘がすぐばれてしまうからである。
「人體書(にんていがき)」人相書(にんそうがき)のこと。当該人物の顔つきや身なりを文章で箇条書にしたもの。御存じのことと思うが、テレビの時代劇等では似顔絵を描いたものが出てくるが、あれは視覚的インパクトと展開をスムースにするために脚色であって真っ赤な嘘である。総ては文書のみで、かなり細かく記されてあった。個人ブログ「団塊オヤジの短編小説goo」の『「江戸時代の人相書きは文字だけで書かれていた」について考える』で現物と活字化したものが見られる。
「ふれ出る」「觸れ出づる」。
「新(シタ)しきゆかり」「新」はママ。「親しき所緣(ゆかり)」。父母兄弟等の近親直系親族。
「夫(それ)なりに濟(すみ)たり」そのまま触書(ふれがき)を発行したばかりで、探索は打ち切られてしまった。
「市左衞門女房、市三郎死靈(しりやう)に取付(とりつか)れ、我身に隱せし惡事を吐(ハキ)出(いだ)し、一生の恥を顯はし、果(はて)には、鋏を以て、おのれが舌をはさみ切(きり)、血みどろに成(なり)、五月三日の暮方に狂死(くるひじに)に死(しに)たり」凄惨乍らも、未だ怪異の出来(しゅたい)とは言い難い。女房が如何に邪見(よこしま)な性格であったとしても、精神的には何の罪もない市三郎を死に追いやった調本であるわけだから、措定される嘘八百に流石に耐え切れぬ良心の欠片(かけら)が内在し、その罪障感から、発狂して成した仕儀と解釈しても、何ら、問題ないからである。
「う津宮」ママ。「宇都宮」。
「淸閑寺」不詳。但し、長嶋の居所と推定した、同じ栃木県宇都宮市大通りの五丁目に「清厳寺(せいがんじ)」という寺が存在する(浄土宗。山号芳宮山)。開基は宇都宮頼綱(ここ(グーグル・マップ・データ))。ウィキの「清厳寺」によれば、宇都宮家当主第五代宇都宮頼綱は元久二(一二〇五)年、『幕府より謀反の嫌疑を受け、これを機に熊谷で隠居生活を送っていた当代の英傑・熊谷直実(熊谷蓮生入道)の勧めにより』、『法然に帰依』し、承元二(一二〇八)年に『出家して実信房蓮生と号し』、『念仏道に入った。頼綱は京に住んで証空にも師事し、幕府から罪が許された後の』建保三(一二一五)年に『市内・宿郷町に当寺の起源となった念仏堂を建立した』。現在の清厳寺は現在の地図では推定される上川原からは近過ぎる嫌いがあり、川も渡らずに行けるのであるが、或いは、ここをモデルとして名を架空のものとしたものかも知れぬ。
「鵜梶兵左衞門」不詳。
「棺(くわん)」「ひつぎ」と訓じてもよいが、座位の縦桶が当時の棺桶であるから、かく読んでおいた。
「さらいとらん」ママ。「攫(さら)ひ盜(と)らん」。
「南如無活傳溪(ナンニヨムクワツテンケイ)上人」不詳。
「勘介賴鈍」武田信玄の伝説的軍師として知られる山本勘助(明応二(一四九三)年若しくは明応九(一五〇〇)年~永禄四(一五六一)年)であろうが、彼に「賴鈍」という名は確認出来ない(一般には本名を「晴幸」とする)。Q&Aサイトの答えによれば、嫡子勘蔵(天文二二(一五五三)年~天正三(一五七五)年:源蔵・勘之丞・信供とも)は「長篠の戦い」で戦死しており、次男助次郎も戦死、三男に下村安笑(源三郎?)というのがいるが、養子に行ったものと思われ、山本姓ではない。ただ、勘助には娘がおり、その婿養子山本十左衛門尉(饗庭利長の次男頼元)の妻とあったとあるのは大いに気になる。しかもこの養子は山本十左衛門尉(?~慶長二(一五九七)年)を名乗って、山本家を継いでいるのである。ウィキの「山本十左衛門尉」によれば、天正一〇(一五八二)年三月、織田・徳川連合軍の甲斐侵攻によって武田氏が滅亡し、最終的に徳川家康が甲斐を領有するが、十左衛門尉は同年六月二十二日に『徳川家臣大須賀康高から所領を安堵されており』、同年八月に『武田遺臣が家康への臣従を誓約した天正壬午起請文においても「信玄直参衆」に名を連ねており、旗本に属していたことが確認される。さらに同年閏正月』十四日『には徳川家康から所領』『を安堵されている』とある。また、『没後、山本氏は嫡男・平一が継ぐが』、慶長一〇(一六〇五)年に『平一は急死し、さらに、子の『弥八郎、素一郎も相次いで死去し』てしまい、『山本家は浪人する。末子・三郎右衛門(三代菅助、正幸)は』寛永一〇(一六三三)年に『淀藩主・永井尚政に仕え』、天和二(一六八二)年に『子孫四代菅助が常陸国土浦藩主・松平信興に仕官し、子孫は松平家臣として明治維新に至』たとするから、この頼元の子の中に出てこない頼純なる子がいた、その子が出家して長生きをして法名を「南如無活傳溪」と称した、とすれば、本話の時制(江戸前期。但し、最終注参照)から見て、必ずしもおかしくはないようにも思う。十左衛門尉頼元は婿養子ではあるが、勘助の子として山本家を継いでおり、その頼元の子ならば初代勘助の孫となるからである。但し、勘助の実在自体が不明であり、単に怪奇談に箔を附けるためのもののようにも見える。「南如無活傳溪」なる僧が実在し、勘助孫を称していた事実があれば、是非、お教え戴きたい。
「火葬にするに、棺の内より、靑き火、盛(さかん)に燃出(もえいで)て、おのづからに燒(やけ)たり」このシークエンスこそが、怪談のキモである。火葬にしようとしたが、火をつける前に、棺桶の中から、青白い火が激しく燃え立って、その怪火によってすっかり灰燼と化したというのは、合理的説明を無化するからである。
「寛文十九年五月四日」寛文は十三年(グレゴリオ暦一六七三年)で終わっており、おかしい。このおかしなクレジットにより、本話の信憑性はガタ落ちとなる。前の幾つもの不審箇所と合わせ、本話は事実ではないと指弾されても、これでは、仕方ない。実録(風)怪談にはあってはならないミスである。良心的に誤字とみるなら、「寛文」ではなく、「寛永」か。であれば、寛永十九年五月四日はグレゴリオ暦で一六四二年六月一日となる。]
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