トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) 髑髏
髑髏
光眩しい豪奢なサロンに、大勢の紳士淑女が居流れる。
どの顏もみた艶々して、今を盛りと話は彈む。騷々しい話題の中心は、さる名高い歌姫である。まるで女神のやうに不滅な、と頌へてゐる。昨晩もあのお仕舞の顫音(トリロ)の、何と見事だつたこと、……
不意にそのとき、まるで魔法の杖の一振に逢つたやうに、頭といふ頭、顏といふ顏から薄い皮膜が剝げ落ちて、不氣味な白骨が露はれた、むき出しの齒ぐきと頰骨が、鈍い燐光を放つて仄めく。
慄然として私は見入つた。齒ぐきや頰骨のゆらゆらする樣を、蠟燭やラムプの光を受けて、奇妙な骨の球がきらきらする樣を、またその間を縫つて別の小さな球、無表情な眼の玉がぐるぐる𢌞る有樣を。
とても自分の頰を撫でる勇氣は出ない。まして鏡に寫して見る氣はしない。
髑髏はやはり𢌞つてゐる。むき出しの齒の隙から、紅い布屑みたいにちらちらと覗く舌の先は相變らずの騷々しさと甘たるさとで、げにも不滅のかの歌姫の最後の顫音(トリロ)が、いかに及びもつかぬ妙技であつたかを喋々する。
一八七八年四年
[やぶちゃん注:「さる名高い歌姫」彼女は恐らく、ツルゲーネフのパトロンであった評論家にしてイタリア座の劇場総支配人ルイ・ヴィアルドー Louis Viardot(一八〇〇年~一八八三年)の妻で、著名なオペラ歌手であり、そうして、実はツルゲーネフの「思い人」でもあったルイーズ・ポーリーヌ・マリー・ヘンリッテ=ヴィアルドー Louise Pauline Marie Héritte-Viardot(一八二一年~一九一〇年:ツルゲーネフより三歳歳下)ではないかと踏んでいる。彼女への秘やかな愛憎こもごもの思いが、彼女のパーティを地獄の饗宴として反転想像されたものではあるまいか?
「顫音(トリロ)」トリル(trill)。装飾音の一つ。ある音と、その二度上又は下の音とを急速に反復させるもの。]
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