老媼茶話巻之弐 敵打
敵打
[やぶちゃん注:途中に出る漢詩は前後を空け、後に訓点に従い、添えられた読みを参考に、詩の直後に独自の書き下し文を添えた。]
加賀の大聖寺(だいしやうじ)の御城主に仕へける堀伊兵衞といふ士、假初(かりそめ)に風の心地とて惱みけるが、命の限り有(ある)事は權者(けんじや)も遁(のがれ)ざる世の習ひ、針灸・藥の術を盡せども、無常の嵐に誘れ、今年六拾參を此(この)よの限りとして、冥土黃泉(かうせん)の客と成ぬ。妻子眷屬、つどひ集りて泣かなしめども、甲斐ぞなき。なきがらは菩提所仙福寺と云(いふ)山寺へ送り、去(さる)べき日斗(ばかり)詣でつゝみれば、そとば、ものふりて、夕の嵐、夜の月のみぞ、事とふよすがなく、かくて、日も程なく立行(たちゆき)て、百ケ日も過(すぎ)ければ、伊兵衞忰(せがれ)伊右衞門に、五百石の家督、相違なく續目(つぎめ)の御禮、首尾能(よく)申上(まうしあげ)ければ、此(この)悦(よろこび)として、伊右衞門一族、多宮將監、伊右衞門を初(はじめ)、親類、大勢、招き、樣々けうおう、美を盡し、伊右衞門、角力好(すまひずき)なれば、將監、抱への相撲取共、召寄(めしよせ)、庭に土俵をならべ、角力とらせけるに、兼て此催し、伊右衞門、傳聞(つたへきき)、我も抱への相撲取嵐山・赤鬼・仁王倒し抔(など)と云(いふ)力自慢のものども、召連行(めしつれゆき)、將監方(かた)のすまふと合せける。伊右衞門方の角力取ども、隨分、結(むす)び共(ども)なるが、如何したりけん、壱番も勝(かた)ず。伊右衞門方の赤鬼と將監が鐵金輪と云(いふ)に取合(とりあひ)けるに、伊右衞門祕藏の赤鬼、鐵金輪に腕車(うでぐるま)に懸(かけ)られ、左右前後、風車の樣にまわされ、場中、於(おい)てうつふしになげふせられ、鼻を打(うち)、血を出し目を𢌞し、暫(しばらく)起(おき)あからず、散々の體(てい)也しかば、見物の若輩、一度に聲を上ゲ、
「やいや、赤鬼殿。鬼味噌になられたり。」
と、どつと、笑ふ。
伊右衞門、大きにせいて、赤面し、血眼(ちまなこ)になり、物をも云(いは)ず、羽織袴をなげ捨(すて)、ふんどし斗(ばかり)にておどり出(いで)、
「角力には、必(かならず)、結(むす)ぶと申(まうす)事候。將監、御出(おいで)候へ。一番、取可申(とりまうすべし)。」
と土俵の眞中へ進み出、力足をふむ氣色(けしき)、只ならず。
將監、何氣なく打笑(うちわらひ)、
「座興も事にこそより候得(さうらえ)。六拾に餘る角力、おとなげなく候。まげて御許し候へ。」
といふ。
相客も皆、笑止に思ひ、さまざま取持(とりもつ)といえども、伊右衞門、承引せず。
將監、若(もし)取らずむは差違(さしちがふ)べき氣色なりければ、
「負も勝も時のなぐさみ。さらば、御相手に罷出(まかりいづ)べし。」
と、將監もはだかに成り、土俵に入(いり)、伊右衞門と相向ふ。
行事、團扇(ぐんばい)を入(いれ)、あわせける。
將監は年こそ寄(より)たれ、元來、力強かりければ、何の手もなく、伊右衞門、二番ながら、土俵の外へ突出(つきだ)しける。
伊右衞門、大力に突(つか)れ、二、三間、只(ただ)走り、まをのけに倒れける。
伊右衞門、漸(やうやう)をき直り、急ぎ座敷江入り、衣裳を着し、大小取(とる)もあへず、亭主に暇(いとま)も乞はず、我家へ歸りける。相客も不興にて、酒、早々に、皆々、暇乞して立歸りぬ。
是より將監・伊右衞門が中、不和に成(なり)、何事と言(いふ)分(わけ)もなく、半年斗(ばかり)も出入(でいり)、なし。
其年の秋、八月十五夜、多宮將監は、城外近く、山寺へ月見の爲にまねかれ、終夜(よもすがら)、月を詠めける。其夜、名にしおふ月影の、いと、くまなくすみのぼり、千里の外も曇りなかりけるに、將監、詩を賦して曰(いはく)、
風微雲捲啓南軒
萬里賞看月一痕
常避世喧夜來靜
松林深所叫孤猿
風 微(ひそ)かに 雲 捲きて 南軒(なんけん)を啓(ひら)けば
萬里 賞(しよう)じ看る 月 一痕
常に世の喧(かまびす)しきを避け 夜來 靜か
松林 深き所 孤猿 叫ぶ
斯(かく)て曉近くなりければ、亭僧に暇をつげて、まるどもへの紋(もん)付(つけ)し灯燈(あかり)ともさせ、靜(しづか)に宿へ歸りける。
山寺を出離(いではなれ)て、松の並木はるばると、片野ゝ地藏堂の片陰に、非人、こもをかぶり、伏居(ふしゐ)たりける。
將監をやり過(すご)し、立上(たちあが)り、刀を拔(ぬき)て走り懸り、先(まづ)、灯燈を切落(きりおと)し、返す刀にて、將監を後より、けさに切付(きりつく)る。
將監、
「是は。」
と刀に手を懸(かけ)、振返りけるを、すかさず、首を切落し、供(とも)の若黨、うろたへさわぐをさんざんに切(きり)ちらし、行衞不知(しれず)成(なり)たり。
將監供の者、急ぎ走り歸り、
「斯(かく)。」
と云。
將監一子仙助、此由を聞(きき)て、取る物も取あへず、いまを限り、缺付(かけうけ)て、父が討(うた)れし有樣をみて、恨氣、胸にふさがり、暫し、前後、わきまへず。
「さもあれ、何者か。いかなる意趣にて、かく、闇打(やみうち)になしつらん。」
と思ひ合するに、急度(きつと)、思ひ出(いで)けるは、
「此春より、伊右衞門、相撲の意趣により、一族の内といへ共、今以(いまもつて)、音信(いんしん)なし。其相撲の節は、我(われ)、江戶に有(あり)て委(くはしき)樣子は不知(しらず)、定(さだめ)て伊右衞門が所爲(しよゐ)成(なる)べし。」
と、急ぎ、伊右衞門江缺付しに、はや、跡けして行方なく、仙助、しゝのはがみをなし、
「己(おのれ)、いづくへ隱るゝ共、ならくの底迄も尋出(たづねいだ)し、敵(かたき)を打(うた)て置(おく)べきか。」
と、此趣、國主へ訴へ、首尾能(よく)御暇を申請(まうしうけ)、早々、國を立出(たちいづ)る。
國々里々、尋𢌞(たづねまは)り、ある時は虛無僧となりて、十字街道に尺八を吹(ふき)て家々に立寄(たちより)、窺(うかがひ)あるき、又は、乞喰(こつじき)にさまをかへ、刀を杖に仕込(しこみ)、脇差を菰(こも)に包み、つゞれを着(ちやく)し、人の門(かど)に彳(たたずみ)て内の樣子を伺ひ、樣々、心を盡し、近江國水口(みなくち)の城主鳥井播磨守殿城下の町に入(いる)。
或賑賑敷(にぎにぎしき)大屋敷江行(ゆき)、物を乞(こふ)に、佛事有(あり)とみへて、讀經の音、聞(キコ)へ、上下(かみしも)抔、着したる物、餘多(あまた)出入もあり。主(あるじ)とみへて、六拾に餘る古禪門(ふるぜんもん)、此(この)物乞(ものごひ)を呼(よび)て、文錢(もんせん)百文、取出(とりいだ)し、乞食にあたへ、
「汝、是、おろそかになすべからず。『呂氏春秋』に『趙宣孟(テウセンモウ)、翳桑(イソフ)の元に餓人有ルを見て車より下り、是が爲に錢百文をあたふ』といへり。錢は和漢共に天下の大寶也。我、今日、愛兄(あいけい)の爲に、志を施すを以(もつて)、汝に錢をとらする也。『乞喰にたねなし』といへり。此春も、此邊、はいくわいせし乞喰、我方に暫(しばらく)とめ置(おき)ていたはりけるに、其乞食、元は加賀の歷々の侍にて有(あり)ける。人を打(うち)、國を退き、今、肥前の内(うち)、蓮池の御城主鍋嶋攝津守殿に有付(ありつき)、弐百石、取らるゝ也。侍とこがねは、くちても、くちぬ、ためしなり。汝が眼差(まなざし)も常の乞食と替(かは)りたり。末(すゑ)、必(かならず)、世に出(いづ)る折も有るべし。」
と云(いひ)て内へ入(いる)。
仙助、是を聞(きき)、
「是こそ佛神三寶のおしへ成(なり)。」
と難有(ありがたく)、夫より、遙々、肥前蓮池迄尋行(たづねゆき)、豐崎松浦川の岸、緑屋といふ酒店の庭に彳(たたずみ)て休み居たり。
爰に肥前蓮池の士、小林喜兵衞・大越半藏兩人、釣竿かたげ、此酒店に來り、
「亭主、能(よき)肴やある。一盃、飮(のむ)べし。」
と云。
亭主、罷出(まかりいで)、畏(かしこまつ)て申(まうす)樣、
「定(さだめ)て今日は天氣能(よく)候間(あひだ)、釣に御出可被成(おいでなさるべし)と、今朝、大鯉のとれ候を差味(さしみ)に仕(つかまつり)、早くより待受(まちうけ)奉る。菊川の名酒・鮎の魚、御肴に不足なし。あれへ御通り候得。」
とて、裏の座敷へ招ジ入、酒を出し、樣々に持成(もてな)す。
酒、半醉に至り、大越半藏、歎息して申樣、
「我等先祖大越太郎左衞門、御存(ごぞんじ)の通り、大坂陣にて、にやはしき御奉公仕(つかまつり)、父帶刀(たてはき)代迄、千石の祿、被下(くださる)。父、若死仕(わかじにつかまつり)、我等、赤子たりし故、千石、被召上(めしあげられ)、はつかの扶持を申請(まうしうけ)、なまなか、武役(ぶやく)を仕(つかまつる)。貧窮、孤獨、漸(やうやう)一僕を召仕(めしつかひ)、か樣、かんなんに暮罷在候(くらしまかりありさふらふ)。然るに此春、當地へ來(きた)る武田淺右衞門、元加賀の侍にて堀伊右衞門と申(まうす)者、人を打(うち)、國を退き、今、御家へ新影流の兵法を申立(まうしたて)、若殿樣江劍術の御指南仕(つかまつる)にて、貳百石、被下(くださる)。當時、出頭幷(ならび)なく、人を足下に見下し、諸士へ大へいを仕る。誠に古人のことばに、『人間の禍福はあざなへるなはのごとし』といへるが、誠にて候。」
と語る。
仙助、是を聞(きき)て、ひそかに悅び、
「扨は敵(かたき)の堀伊右衞門、家名を改(あらため)、武田淺右衞門と名を替(かへ)、當國守へ仕へける。是、疑(うたがふ)べからず。」
とおもひ、酒店を立出て、川端の船小屋へ行、暫く休息する。
かゝる所に、大越半藏は小林に先達(さきだつ)て川端へ來りけるが、船小屋に人音するを聞(きき)て差(さし)のぞき、
「小屋に居たるは何ものぞ。」
と云。
仙助、聞て、
「乞喰(こつじき)にて候。蟲(むし)痛(いたみ)候間、休み居候。」
といふ。
半藏、聞て、
「乞食ならば、汝に深き無心有(あり)。我、此間荒身の國貞の脇差を求(もとめ)たり。幸(さいはひ)、只今、差來(さしきた)りぬ。汝、命、我に吳れよ。生胴(いきどう)を心見(こころみ)たし。命、申請(まうしうけ)て後、跡をば念頃(ねんごろ)に吊(とむらひ)とらすべし。」
と云。
仙助、聞て、
「是は思ひの外なる御所望にて候。さりとては、迷惑仕候。至小(シシヤウ)の蟲けらに及ぶ迄、命惜(おし)むは習(ならひ)にて、命惜しく候得(さふらえ)ばこそ、かく恥を捨(すて)袖乞(そでごひ)をもいたし候。此段、御免被下候へ。」
と云。
半藏、重(かさね)て、
「扨々、みれん成る乞喰め。おのれ、諸人に面(つら)をさらし、一握(ひとにぎり)の米、半錢の助(たすけ)を得、風雨霜雪に骸(からだ)をまかせ、菰をかぶり、飢(うゑ)にのぞみ、終(つひ)に路道(ろだう)に倒れ、犬・烏(からす)の餌食と成らむ。然るに我(わが)望に隨ふ時は、死後の吊(とむらひ)を得て、滅後には佛果に至るべし。凡(およそ)此(この)大越半藏、一言申出し、いやでもおふでも、一命を申受(まうしうく)る。尋常に命をくれよ。すな濱へ連行(つれゆき)、ためし物にするぞ。」
と云。
仙助、
「扨は、是非に不及(およばず)。成程、心得候。暫(しばらく)御待候得。」
とて、菰包とひて、こがね實(ざね)の腹卷に壱枚金(いちまいがね)の鉢卷、〆(しめ)、多宮重代の小金作(こがねづくり)、弐尺七寸、『關近江守兼常が君萬歳』と打(うち)し二銘、杖に仕込しをするりと拔(ぬき)、船小屋よりおどり出(いで)、
「身に望(のぞみ)有る故に樣々とことばをたれ、一命を侘(わび)しなり。汝が樣成(やうな)る無分別の馬鹿者を相手にし、命捨(すつ)るも過去の業(ごふ)、天元の究(きはま)りなり。己(おの)レふぜひのくせ士(ざむらひ)、五人拾人、物々しや。手なみを見せむ。いざ、こひ。」
と大(だい)の眼(まなこ)を見ひらき、踏(ふみ)はだかりしそのありさま、大越、案に相違し、尻込(しりごみ)に立居(たちゐ)たり。
小林は跡より來りけるが、此體(てい)を見て、大きに驚き、
「是(こ)はいか成(なる)譯有(あつ)て如此(かくのごとき)の樣子にて候。委敷(くはしく)承度(うけたまはりたし)。」
といふ。
仙助、聞(きき)て申(まうす)樣、
「某(それがし)は、先(さき)、綠屋に罷在りし乞食にて候。此人、か樣か樣のむたい成(なる)事を申(まうし)かけ、既に一命を取らんと有(あり)。身に大望有(ある)故、手をたれ、ことばをいやしうし、さまざま申侍ると云(いふ)とも、承引なし。是非なく、 立合申(たちあひまうす)。」
といふ。
喜兵衞、聞て、笠をはづし、手を組(くみ)、いんぎんに申樣、
「委敷(くはしく)承(うけたまはり)候處、是は半藏が、悉く、誤りにて候。半藏事(こと)、じたい、愛酒(あいしゆ)の上(うへ)、酒を過(すご)し候へば、加樣の義、まゝ有之(これある)者にて候。某(それがし)に、まげて、此段、御許候へ。」
と達(たつ)て侘(わぶ)る。
半藏も誤入(あやまりいり)候由、申ししかば、仙助、申樣、
「御兩殿、か樣被仰(おほせられ)候ば、身に於て大慶仕(つかまつり)候。先々(さきざき)も申候通(とほり)、我等、身に望(のぞみ)有之(これあり)候へな、我等方より事を好み可申樣無之(まうすべきやうこれなく)候。」
迚(とて)、無事になりけり。
小林、重て申樣、
「扨、御自分には敵(かたき)御持候へて御尋被成(おたづねなられ)候と相見へ申候。委敷(くはしく)御語(おかたり)候得。數(かず)ならぬとも半臂(はんぴ)の御力(おちから)にも罷成可申(まかりなりまうすべし)。一樹のやどり、一河の流(ながれ)も、皆、是、他生(たしやう)のゑんと承申候。」
といふ。
仙助、聞て、
「誠以(まことにもつて)、前度(ぜんど)御(おん)知る人にも無之(これなき)處、敵持候と御聞被成候。御深切の御志(おんこころざし)、御禮難申盡(まうしつくしがたく)候。乍-去(さりながら)、御助太刀を請可申樣(うけまうすべきやう)も無之(くれなく)候義に候得共、初(はじめ)、敵(かたき)持候と申出、委さい御物語不仕候得ば、僞(いつはり)を申樣御思召(おぼしめし)、恥入(はぢいり)候儀、委敷(くはしく)御物語可仕(つかまつるべく)候。」
と、堀伊右衞門意趣打(いしゆうち)の事、細(こまか)に語りければ、兩人、聞て、
「扨は。去年(こぞ)、當地へ罷越(まかりこし)武田淺右衞門は堀伊右衞門に無紛(まぎれなく)候。我等兩人、手引致し、敵(かたき)打(うた)せ可申(まうすべく)候。心安く思召候得。一兩夕の内に、人目忍び、我等方へ其元(そこもと)を引取(ひきとり)、隱置(かくしおき)、委(くはしく)御相談可申。」
とて、いと深切に申ける。
仙助、淚を流し、手を合(あはせ)、
「誠に不思義の御緣にて如此(かくのごとき)の御深切に預り候。偏(ひとへ)に御兩殿は我等氏神、高戶(たかト)大明神と存候。此上は何分にも奉賴上(たのみかえたてまつり)候。路金弐百兩所持仕候。若(もし)打候計略に入(いり)候事もやと覺悟仕候。」
といふ。大越も小林も、
「委細相心得候。兎角、夜に入、御出候得。爰は人の通りもしげく候間、萬事、申殘(まうしのこ)し候。」
とて、兩人は、我(わが)やどりへ歸る。
道にて大越、小林にさゝやきけるは、
「何と思召(おぼしめす)。加樣に申候得ば、士道に似合ざる樣に思召もあるべけれ共、先(まづ)、差當(さしあた)る道理を申さば、武田淺右衞門は新參と申せども、當時傍輩の事にて候。その上、殿さま劍術の御指南申上候事、尤(もつとも)おもき壱人にて候。多宮仙助は加賀の大聖寺の士と申せども、先(まづ)、只今の形は、人外(にんぐはい)の乞食なり。其乞食(コツジキ)に賴(たのま)れたればとて、我々、手引をし、傍輩を討(うた)せ可申事、道理に不叶(かなはず)。爰が大事の御相談にて候。尤、四知(しち)の恐れとは申せども、誰(たれ)承る人もなく候間、我等、心底、申にて候。其元(そこもと)も某(それがし)も大困窮にて候へば、武役不相勤(あひつとめず)、假(たとへ)、とのさま、松浦口へ御出馬有(る)と申(まうす)とも、御供可仕樣(おともつかまつるやう)も無之(これなく)候。彼(かの)乞食、帶せし大小を見申(みまうす)に、何樣(なにさ)、可然(しかるべき)道具と見へ、其上、金弐百兩所持申(まうす)由。我等、立歸り、切殺(きりころし)、死骸を松浦川江流し捨候はゝ、誰(たれ)しる人も候まじ。左候(ささふら)はゞ、金百兩宛(づつ)分け取(とり)、武具・馬具、事かけず相調(あひととのへ)、武役勤(つとま)り申樣に致し、彼(かの)者、菩提、念頃にとむらひ吳(くれ)候べし。此義、如何思召候。」
といふ。
小林、大きに腹を立(たて)、
「大越殿共(とも)不存(ぞんぜず)、以の外成(なる)御了簡にて候。不義にして百歳の壽をたもたんより、むしろ、義にとゞまりて、一夕のようを得むには、と申候。士(さむらひ)の一言(いちごん)は大山よりおもく候。必(かならず)、みれん成(なる)義、御申有間敷(おまうしあるまじく)候。」
といひければ、大越、赤面し、
「御尤(ごもつとも)に候。我等、只、たはぶれに申候。いかで士の二言をつき可申哉(まうすべきや)。」
といふて別れけるか、則(すなはち)、半藏、宿へ歸り、つくづくと、おもふに、
『小林、作り賢人立(けんじんだて)を言(いふ)といへども、多宮を切殺し、大小・金銀を持行(もちゆき)て、小林に分けあたへば、骨おらで德づく事、今時、誰(たれ)か、この、まさらんや。とかくひそかに行(ゆき)て仙助を切殺し、その後、是非をば、極むべし。』
と、其夜、ひそかに人目を忍び、松浦川の船小屋江忍び行(ゆき)、仙助が寢首をかき、仙助が首・大小幷(ならびに)金弐百兩、うばひ取、仙助が死骸、松浦川へ抛入(なげいれ)、大きに悅び、喜兵衞方へ立歸り、案内(あない)、乞(こふ)。
小林に對面し、仙助が首・大小・金子を小林に見せ、
「此上は利を非にまげて、金子・大小、分け取給へ。誰(たれ)知る者の候まじ。不入(いらざる)賢人立、御無用に候。」
といひければ、小林、見て、
『人非人、士畜生(さむらひちくしやう)、何を言(いふ)ても、せんなし。』
と思ひ、
「今は何申(なにまうし)ても言甲斐(いふかひ)なく候。然らば、仰(おほせ)に任せ可申(まうすべし)。必、沙汰ばし、し玉ふな。」
と、大越に心を許させ、拔打(ぬきうち)に半藏を大けさに切殺し、大越が首を切、仙助か首と添(そへ)、武田淺右衞門方へ行(ゆき)、仙助に賴(とよら)れし始終、半藏が不義、細かに淺右衞門に語り、
「士の義理、是非に不及(およばず)。覺悟し玉へ。」
と、言(いひ)ざま、刀を拔(ぬき)、打(うつ)て懸る。
淺右衞門、
「心得たり。」
と拔合(ぬきあひ)、散々に切逢(きりあひ)けるが、終に淺右衞門、小林に切ふせられ、喜兵衞、淺右衞門が首を取、三ツの首、引提(ひつさげ)、菩提所笹岡町大行寺江立退(たちしりぞき)、此旨、鍋嶋攝津守殿の橫目(よこめ)設樂(しだら)九郞左衞門方へ申達(まうしたつ)し、切腹を願(ねがひ)、けんしを相待(あひまち)、罷在(まかりあり)ける。設樂、則、鍋嶋殿江委細申上げれば、攝津守殿、大きに小林が義心を感じ給ひ、武田淺右衞門が知行、弐百石加增有(あり)、物頭役被申付(まうしつけられ)、足輕三拾人御預被成(なられ)ける。元文二年八月の事也。
老媼茶話弐終
[やぶちゃん注:最後に「老媼茶話弐終」とあるが、本章で本巻は終わりではない。前にもあったが、元は十六巻であった原型本の編集過程での錯簡が疑われる。
「加賀の大聖寺」加賀藩支藩大聖寺藩。大聖寺(現在の石川県加賀市)周辺を領した外様藩。最後に事件の落着のクレジットを「元文二年八月」(西暦一七三七年)とするので、藩主は第四代前田利章(としあきら)である(同年九月に逝去)。なお、当時の藩財政は火の車であった。
「堀伊兵衞」不詳。以下、人物注は同じになるので実在したことが確実な人物以外は、原則、注しない。
「權者(けんじや)」ここは権力者の意と採ったので、かく読んだ。
「仙福寺」不詳。少なくとも現在の加賀市には存在しない模様。
「去(さる)べき日」以下に「百ケ日」と出るから、四十九日の忌明けまでと、その後の月命日のそれを指している。
「そとば」「卒塔婆」。
「ものふりて」「ふり」は「經り」で、何となく古びた感じになってしまい。百か日前の描写としては、やや奇異にも思えるが、要は、当家の代替わりの印象を深めるための演出であろう。
「續目(つぎめ)」底本のルビに従った。
「けうおう」「饗應」。但し、歴史的仮名遣は「きやうおう」「供應」でもいいが、それでも「きようわう」である。
「結(むす)び共(とも)なるが」結びまで勝ち残るような剛勇無双の力士どもであったのだが、の意で採っておく。
「腕車(うでぐるま)」不詳。腕を取ってブン回しにすることか。
「赤鬼殿。鬼味噌になられたり」「鬼味噌」は赤い唐辛子で辛みをつけた焼き味噌のことであるが、転じて、外見は強そうでも実際には気の弱い人の譬えである。ここは四股名「赤鬼」が鼻血を出して真っ赤になっているのにも掛けているので、揶揄が冗談を越えている感じがする。
「せいて」「急いて」。怒りがこみ上げてきて。
「力足をふむ」四股を踏む。
「若(もし)取らずむは」万一、試合を受けなかったならば。
「團扇(ぐんばい)」相撲の軍配は「軍配団扇(ぐんばいうちわ)」とも称することから、雰囲気を大事にして、かく当て訓じておいた。
「二、三間」三・七から五メートル半弱。
「まをのけ」底本の編者添字は『真仰』。完全に無様に仰向けになること。
「何事と言(いふ)分(わけ)もなく」この表現には座興の相撲如きで遺恨に思うことなど理解出来ないという意味合いが伏線として込められている。
「まるどもへ」「丸巴」。
「灯燈(あかり)」用字は底本のまま。私の当て訓。或いはこれで「てうちん」(提燈)と読ませているのかも知れぬ。
「跡けして」「跡消して」。
「しゝのはがみ」「獅子の齒嚙み」。
「ならくの底」「奈落の底」。
「つゞれ」「綴れ」。破れた部分をつぎはぎした襤褸(ぼろ)の衣服。
「近江國水口(みなくち)」滋賀県甲賀市水口町水口。
「城主鳥井播磨守殿」事実と合わない。水口藩の藩主が鳥居播磨守忠英であったのは、元禄八(一六九五)年から下野壬生藩に移封される正徳二(一七一二)年までであって、鳥居氏はその後に水口藩の藩主ではない。最初に示した通り、事件の落着は元文二(一七三七)年であるからである。本話のここ以降が二十五年も経っているとは、逆立ちしても読めないからで、本話が作話である可能性が強く疑われる誤りと言える。
「呂氏春秋」(りょししゅんじゅう)は戦国末期に秦の呂不韋が食客を集めて共同編纂させた百科全書的史論書。紀元前二三九年に完成した。全二十六巻百六十篇。
「趙宣孟(テウセンモウ)」春秋時代の晋の政治家趙盾(ちょうとん 生没年不詳)の別称。長く政権を握り、趙一族の存在を一躍、拡大させた。
「翳桑(イソフ)」桑の木の蔭であろう。但し、この事実が、後に趙宣孟にどう幸いしたかは私は知らない。識者の御教授を乞うものである。
「乞喰にたねなし」「たね」は「種」で、「もともとそう決まっている生得の属性」の意で採ってよかろう。これは「乞食に氏無し」「乞食に筋無し」と同義で、「乞食」という「家柄」「身分」「絶対的不変の存在」と言うものなどはないの意であろう。
「はいくわい」「徘徊」。
「蓮池」肥前国佐賀郡(現在の佐賀県、長崎県の一部を含む)にあった外様藩佐賀藩の支藩蓮池藩。
「鍋嶋攝津守」事実とするならば、当時の蓮池藩主は第四代鍋島直恒(なおつね)。
「有付(ありつき)」登用され。
「こがね」「黃金」。
「くちても、くちぬ」「朽ちても、朽ちぬ」。
「豐崎松浦川」佐賀県北部を流れる松浦川。河口は唐津。「豐崎」は不詳。しかし、後で砂浜が出るからに河口付近としか読めない。
「菊川の名酒」不詳。
「にやはしき」底本の編者の添字に『似合』とある。相応の。
「新影流」「一刀流」・「神道流」と並ぶ剣道三大流派の一つ。「神陰流」「新影流」とも書く。室町時代末期、上泉伊勢守秀綱が創案し、始祖となった。愛洲日向守移香斎(あいすひゅうがのかみいこうさい)の「陰流」の流れを汲み、自己の心影に敵の心影を即座に映し、相手を制することを主眼とする。後、柳生石舟斎の「柳生新陰流」や山田平左衛門光徳の「直心影流」がこの流派から出ている。殺伐な実践剣法をとらず、寧ろ、心に趣きをおく流派である(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。
「若殿樣」事実なら、後の肥前蓮池藩第五代藩主となる直恒の長男鍋島直興(なおおき)である。但し、事件決着時で未だ満七歳である。
「蟲(むし)痛(いたみ)候」ここは広義の腹痛が致しますによって、の謂いであろう。
「荒身」底本の「荒」への編者添字は『新』。新品の刀身。
「國貞」初代和泉守国貞は江戸時代の摂津国の刀工。元和(げんな)五(一六一九)年和泉守受領。河内守国助とともに大坂新刀の礎を築いた名工。
「飢(うゑ)にのぞみ」直後に「終(つゐ)に路道(ろだう)に倒れ」とくるのであるから、この「のぞみ」は「臨み」である。
「こがね實(ざね)の腹卷に……」以下は敵討ちの際のための武具一式である。
「弐尺七寸」八十一・八一センチメートル。標準より長い。
「關近江守兼常」不詳。室町時代に美濃国関(現在の岐阜県関市)で活動した和泉守兼定(之定)の系統の、和泉守兼定に第六代近江兼定・第八代近江兼定・第十代近江兼氏ならいる。
「二銘」長差と脇差の意か。
「天元の究(きはま)り」万物生命の根本の成せる最期。
「ふぜひ」「風情」。
「くせ士(ざむらひ)」「曲侍(くせざむらひ)」。まっとうでない武士。
「いんぎん」「慇懃」。礼儀正しく。
「前度(ぜんど)」以前より、の謂いであろう。
「高戸(たかト)大明神」不詳。
「四知(しち)の恐れ」「天知る地知る」以下、「我知る人知る」と続いて「四知」と称し、前半を今も用いるように、一般的には「誰も知るまいと思っていても、隠しごとというものはいつか必ず露見するものである」という戒めに基づく。
「一夕のようを得む」「よう」は「要」か? しかしそれでは、前と対語にならぬ。「世」(たった一晩の短い人生)の意なら判るのだが? 相応しい意味を、どなたか、お教え下されよ。
「作り賢人立(けんじんだて)」これで一語と読んだ。
「沙汰ばし」「ばし」は 副助詞(係助詞「は」に副助詞「し」の付いた「はし」の転)で上の語や語句をとり立てて強調する意を表わす。「沙汰」は「あれこれ言うこと」。
「笹岡町大行寺」不詳。
「橫目(よこめ)」ここは目付に同じ。
「設樂(しだら)九郎左衞門」不詳。
「けんし」「遣使」。
「武田淺右衞門が知行、弐百石加增有(あり)」少し省略されている。かの小林が斬り殺した武田浅右衛門の拝領していた知行分二百石を、そのまま小林に加増したのである。
「物頭」(ものがしら)は弓組・鉄砲組などを統率する長。]
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