トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) ふたつの四行詩
ふたつの四行詩
昔ある所に町があつた。その町の人々は大そう詩が好きで、一月ほども新しい名詩の一篇すら現れずに過ぎやうものなら、そのやうな詩の凶作を何かしら現代の不祥事と思ひ込むほどであつた。
さういふ時は、てんでに一番惡い着物を着て、頭に灰を振りかけて町の廣場に集まり、淚を流しながら、「ミューズよ、ミューズよ、なんぞ我らを見棄て給ふや」と訴へた。
やはりそんな凶つ日のこと、群衆の歎きに滿ち溢れた町の廣場に、若い詩人ユニウスが姿を現した。
彼は急ぎ足で、詩のために特に築かれた演臺(アルドン)に上り、朗讀の合圖をした。
警吏が束桿(ファスケース)を振つて、「靜かに、聴き漏らすな」と聲高に叱咤すると、群衆は鳴りを鎭めて、片唾を飮んだ。
「はらからよ」と、ユニウスは大聲に、けれど何處となく定まらぬ調子で始めた。
はらからよ、詩神(ミューズ)の前に額(ぬうか)づきて、
美はしき、雅びの道を行く人よ
束の間のくらき歎きに胸な破りそ
時の來て、光は闇を散らしなん
ユニウスは默つた。その沈默に應ずる如く、舌打ち嘲笑が廣場の隅々から卷起つた。
顏という顏は忿怒に燃え、眼という眼は怨恨にきらめき、總ての腕は威嚇の拳を固めて、悉く天を指した。
「そんなこけ威しに乘ると思ふか」と、人々は一齊に怒號した、「その碌でもない韻律詩人を引きずりおろせ。そこの阿房を、そのとんでもない道化野郎を、腐れ林檎と腐れ玉子で叩き出せ。石を呉れ、石を寄越せ。」
きりきり舞ひして、ユニウスは演壇(アムドン)を馳せ下りた。が、まだ家に歸り着かぬうちに、熱狂した群衆の拍手の響、歡呼の嵐が、遙かに傳はつて來た。
ユニウスは訝しさに堪へず、とは言へ憤(いき)り立つた獸をつつくのも危險な業なので、人目につかぬ樣に氣を配りながら、廣場に取つて返した。
そこに彼の見たものは。――
犇めく群衆の頭上高く差上げられた黃金の大楯の上に、亂れた髮に月桂冠を戴き、紫金の短袍(クラミス)を肩に掛けて、彼の競爭者、若い詩人ユリウスが立つてゐる。群衆は彼を取圍んで、口々に喚く。「榮あれ、榮あれ、不滅のユリウスに榮あれ。われ等の歎き、深い悲哀を慰むる者。また蜜より甘く鐃鈸(ねうばち)よりも妙に、薔薇よりも香はしく空の藍よりも淸らな詩の贈り主。勝鬨あげて擔(か)き上げよ。靈感滿てるその頭を、蘭麝の香に焚きしめよ。熱い額は棕櫚の枝葉で扇いで冷せ。その足許に薰も高いアラビヤ沒藥を振り注げ。榮あれ。」
ユニウスは、矢張り歡呼する群衆の一人の男に近寄つた。
「失禮ですが、教へて下さいませんか。一體どんな詩で、あのユリウスは皆の心を樂しませたのでせうか。殘念ながら、朗讀の時、丁度居合せなかつた者です。もしもまだ憶えてお出でなら、お願ひですから聞かせて下さい。」
「あの詩を、どうして忘れましせう」と相手は勇んで答へた。「お見違ひでは迷惑します。まあお聽きなさい、そして貴方も一緒にお喜びなさい。」
「『額(ぬか)づける』と初めの文句はかうでした。――
額づける、詩神(ミューズ)の前のはらからよ
雅びたる、筝の音(と)覓(と)めて行く人よ
束の間のおもき惱みに胸な破りそ
時の來て、晝は夜闇(よやみ)を逐ひぬべし
如何です。」
「冗談ぢやない」とユニウスは叫んだ、「それは僕の詩だ。さてはユリウス奴、僕の朗讀を人混みに紛れて立聞きしたな。ただ僕の言ひ𢌞しを、二つ三つ下手に言ひ變へただけぢやないか。」
「やあー、化の皮が現れた。君はユニウスだつたな」と、相手は顏を顰めて言ひ返した、「君は燒餅屋か、でなけりや阿房だ。氣の毒だが、まあ考へて見ろ。ユリウスの、『晝は夜闇を逐ひぬべし』邊りの響きの高さはどうだ。所が君のは『光は闇を散らしなん』とか何とか、さつぱり要領を得ん。一體どんな光が、どんな闇をだい。」
「だつておなじぢやないか……」と、ユニウスは言ひかけた。
「ええ、まだ言ふのか」と、相手は遮つた、「一言でも言つてみろ、皆を呼んで八つ裂にしちまふぞ。」
考深いユニウスは口を噤んだ。すると今まで二人の言爭ひを聞いてゐた白髮の老人が、靜かに不幸な詩人に近づき、その肩に手を置いて言つた。
「ユニウス! お前は自分の歌を歌つた。けれど、時を得なかつた。あれのは成るほど借物には違ひないが、時を得た。だからあれを怨むには當らぬ。お前にはその代り、良心の慰めがある筈だ。」
その良心が、一人取殘されたユニウスを、實は頗る賴りない手際で、一生懸命慰めてゐる間に、遙か歡呼と拍手の湧く邊り、莊嚴な太陽の金色の粉を浴びて、紫金の外套を燦かせ、月桂冠に眉を翳らせ、宛ら王領に入る王者の威容を以て身を反返らせたユリウスの姿が、夥しい蘭麝の波を分けて靜々と進んだ。彼の步みにつれて棕櫚の長枝が次々に傾きかかる有樣は、魅了し盡された市民らの心に刻一刻と新たな讃嘆の情を、その物靜かな虔ましい起伏に依つて、恰も象徴するかの樣に。
一八七八年四月
[やぶちゃん注:本篇は三箇所の不備があったので、特異的に訂した。
一つ目は、ユニウスが最初に質問をする台詞「失禮ですが、教へて下さいませんか。……」の頭に、底本では鍵括弧が脱落して一字下げで始まっている点で、脱記号と断じて訂した。
二つ目は、その質問に答えた男の答えが、底本では「あの詩を、どうして忘れましせうと」となっており、続きから見ても最後の「と」は引用の格助詞以外の何ものでもないと判断されることから、錯字と断じて「と」を鍵括弧の外に出した点である。
三つ目は、それに続く男の台詞、『「お見違ひでは迷惑します。まあお聽きなさい、そして貴方も一緒にお喜びなさい。」』の最後の、鍵括弧閉じる、が、底本にはないことである。これは無くても直接、直接話法で続いていることから、読んでいてたいした抵抗はないし、こうした用法をする作家もいはする。しかし、約束事としてそれを打たぬのは本篇(というよりもほん「散文詩」に於いて)では明らかな異常用法となってしまうので、脱記号と断じて鍵括弧を附した。
なお、ルビの「ミューズ」は本文に照らして、「ファスケース」は現行の一般表記から、拗音で表記した。
「凶つ」「まがつ」。災厄の。
「ユニウス」原文“Юний”。これはラテン語の“Junius”で、これは恐らく実在した古代ローマの風刺詩人・弁護士であったデキムス・ユニウス・ユウェナリスDecimus Junius Juvenalis(五〇年?~一三〇年?)がモデルであろう。暴虐であったローマ帝国第十一代皇帝ティトゥス・フラウィウス・ドミティアヌスTitus Flavius Domitianus(五十一年~九十六年)治世下の荒廃した世相を痛烈に揶揄した詩を書き、「健全なる精神は健全なる身体に宿る」の格言で有名な詩人である(但し、この格言は誤解されており、ユウェナリス自身の謂いは、腐敗した政治の中で堕落した生活を貪る不健全な人(=肉体)に対して健全な魂と批判精神を望むものであったことは、あまり知られていない)。ちなみに彼は「資本論」にも言及されている。
「演壇(アムドン)」原文は“амвона”であるが、私の露和辞典には所収せず、ラテン語辞典を調べても類似した単語は見当たらなかったが、“амвон”はネットの機械英訳にかけると“pulpit”と訳され、これは「(教会の)説教壇」のことである。そこで英語の辞書を見ると、“ambo”という単語があり、「初期キリスト教会等の説教壇」・「アンボ」・「朗読台」と言った訳が見出せた。
「束桿(ファスケース)」原文は“жезлами”で、これは“жезл”(ジェズル)、権威や職権を表わす杖・棒・笏(しゃく)を指すから、持つ警官から警棒の意である。ルビのそれは、英語ではなく、ラテン語の“fasces”(ファスケース)で、しかもただの棒ではなく、「束(たば)」を意味するラテン語の名詞“fascis”(ファスキス) の複数形であって、通常は斧の周りに細い木を、多数、結びつけた有意に太く長い束状の棒を指す。参照したウィキの「ファスケス」によれば、『古代ローマで高位公職者の周囲に付き従ったリクトルが捧げ持った権威の標章として使用され』、二十世紀になって、なんとかの「ファシズム」(fascismo:イタリア語)の『語源ともなった。日本語では』「儀鉞(ぎえつ)」や「権標」、『木の棒を束ねていることから』、「束桿(そっかん)」『などと訳される』とある。
「片唾を飮んだ」ママ。正しくは「固唾」。
「短袍(クラミス)」原文は“хламидой”で“Хламида”、英語の“Chlamys”で、古代ギリシア・ローマの一枚布を使ったワンピース型の上着(外套)であるヒマティオン(himation)の短いものを指す。
「ユリウス」原文“Юлий”これはラテン語の“Julius”で、ローマ人にはありがち名であり、私は特定人物ではなく、「ユニウス」の詩の剽窃をする者としての剽窃された名と捉えている。
「鐃鈸(ねうばち)」シンバル。
「蘭麝」「らんじや(らんじゃ)」は蘭の花と麝香の香り。また、よい香り。
「アラビヤ沒藥」原文は“аравийских мирр”アラビック・ミルラ。薬品名。アラビア南西部山岳地帯の数ヶ所と対岸の東アフリカのソマリアの一定地域に限定されて生育するカンラン科ミルラノキ属 Commiphoraの植物の樹皮の樹汁を自然に乾かして固めた赤褐色の植物性ゴム樹脂。黄黒色で臭気が強い。エジプトでミイラ製造の防腐剤や薫香料に用いられ、現在でも鎮痛剤・健胃薬・嗽い薬などに利用される。基原植物によって品質に差があり、アラビア没薬は最上級品に属する。
「お見違ひでは迷惑します」日本語としては意味不明。中山省三郎譯では『僕をどんな人間だと思つてるんです?』、一九五八年岩波文庫刊の神西清・池田健太郎訳「散文詩」では、『見そこなってもらっては困ります』。残念ながら、神西の本訳はこれらに劣る。
「ユリウス奴」「奴」は「め」。「め」は罵りの意を表す接尾語。三人称の人代名詞の表記にそれを当て読みさせたもの。
「ユニウス! お前は自分の歌を歌つた。けれど、時を得なかつた。あれのは成るほど借物には違ひないが、時を得た。だからあれを怨むには當らぬ。お前にはその代り、良心の慰めがある筈だ」よく考えると、この「漁父之辞」の老荘的思想の持ち主である漁父を髣髴させる老人は「ユリウスは時機に合った、自分の詩ではない他人の詩を歌ったからこそよかったのだ!」という謂いで解いているのではなかろうか? 真実の自分の心の叫びでは「時機に合う」ことは実は不可能なのだ、という深遠な哀しい真の芸術の運命的真理をツルゲーネフは読者に語りかけているように私には見えるのである。
「燦かせ」「きらめかせ」。
「宛ら」「さながら」。
「反返らせた」「そりかへらせた」。
「虔ましい」「つつましい」。]
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