老媼茶話巻之四 高木大力
老媼茶話卷之四
高木大力(だいりき)
高木右馬助、美作(みまさか)の太守森内記(げき)長繼祕藏の士、世に聞へたる大力(だいりき)なり。
壱年、本國を浪人して京・伏見に徘徊せし。此折、「鈴鹿山、いかになり行(ゆく)」と詠じて、伊勢路を越(こゆ)る山道にて、夕陽、西にうすづく頃、七尺斗(ばかり)の大男、柿の頭巾を引(ひつ)かぶり、四尺斗(ばかり)の大刀を差(さし)、兩人、道の眞中(まんなか)に立(たち)はだかり、大の眼(まなこ)を見出し、
「いかに旅人。命、惜しくば、衣類・大小・平包、殘らず渡し、丸裸にて通るべし。さらずば、一足もやらぬ也。」
と云(いふ)。
右馬介、聞(きき)て打笑(うちわら)ひ、
「己レ等は三輪の謠(うたひ)を知らざるや。『秋も夜寒に成(なり)候程に御衣(おんぞ)を一重(ひとへ)給り候へ』と云(いへ)り。我も衣裳一ツにて、秋風、身に染(しみ)て、はだ寒し。先(まづ)おのれらが衣裳を、こなたへ渡せ。」
といふ。盜人共、はらを立、
「扨々、存知の外(ほか)、きも、ふとき男哉(かな)。おのれ、いにしへの大竹丸(おほたけまる)におとらざる鈴鹿山の天狗次郎・十刀太郎をしらざるか。いで、もの見せん。」
と兩人の盜人、右馬介が左右より、進みよる。
壱人の男、右馬介が右の腕を取(とる)所を、振(ふり)はなち、件(くだん)の男が元首(もとくび)をしめ付(つけ)、中(ちう)に提(さげ)、はるかなる谷底へ人礫(ひとつぶて)に抛捨(なげすて)る。
殘りし男、是を見て、太刀引拔(ひきぬき)、天窓下(てつぺんおろ)しに切付(きりつけ)たるを、引(ひき)はづし、刀持(もち)たる手を、つかともに握りひしぎ、前へ引居(ひしす)へ、
「皆是身命爲第一寶(カイゼシンメイダイツホウ)とて、生ある者の、命、おしまざるはなし。己、さこそ命のおしかるべし。我を誰(たれ)とかおもふ。愛宕山太郎坊天狗とは我(わが)事也。然ルに、此道におのれが樣なるあぶれもの有(あり)て旅客をなやますと聞(きき)、いましむべき爲(ため)、あらはれたり。命斗(ばかり)はたすくるなり。已來、能々(よくよく)愼め。」
とて刀をもぎ取(とり)、刃(やいば)の方を首のかたへ押(おし)まげ、二重三重に卷付(まきつけ)、道の傍(かたはら)なる松の木へ、したゝかにくゝり付(つく)。
其後は、上方へ登り、五、六年も過(すぎ)て、右馬介、入湯(にふたう)するに、骨ふとく、長(たけ)たかき坊主の、俄道心(にはかだうしん)とみへたるが、首へ布切レを卷(まき)ながら、湯へ入ルあり。
右馬介、見て、
「御出家、首のまわりを布にて包み給ふは、いたみ有(あり)ての事か。布をといて、入(いり)玉へ。」
といふ。
坊主は目をふさぎ、唯、餘言(よげん)なく念佛斗(ばかり)申居(まうしゐ)たりけるが、是を聞(きき)て申(まうす)樣(やう)、
「さんげに罪滅すと承るにより、くわしく御物語申也。
某(それがし)は元近江路にて、鈴鹿山の天狗次郎・十刀太郎とて、隱れなき盜人の内にて、天狗次郎とは我(わが)事也。某、十三の年より、辻切(つぢぎり)をいたし、四、五年以前迄、凡(およそ)人の弐、三百も切殺(きりころ)し候べし。
關山通(どほり)に立出(たちいで)、往來の旅人を待(まつ)所に、壱人の旅の男、來(きた)る。
『尋常の者ぞ。』
と、やすやすと心得、引(ひつ)とらへひつぱがんと致し候得ば、彼(かの)もの、十刀太郎が首元をとらまへ、蟲けらをひしく樣にひしぎ殺し候へて、其後、我をとらへ、殺しもやらず生(いか)しもやらず、如此(かくごとく)刀の刃を首の方へおし𢌞し卷付置(まきつけおき)て、則(すなはち)、壱丈斗(ばかり)の大天狗となり、虛空に飛(とび)てうせ申候。此刀、何とぞ首よりはづし申度(まうしたく)、樣々致し候得ども、人力(じんりき)に及不申(およびまうさず)。是非なく、ケ樣(かやう)に首を卷、差置候に隨ひ、霜、刃にふれ、皮、切(きれ)、肉、たゞれ、痛(いたみ)、難忍(しのびがたし)。此(この)湯に入(いり)、痛をたて候得ば、白瘡(はくさう)をさゝげ、ふた、作り、膿水(のうすい)、とまり、暫(しばらく)の内、心よく罷成(まかりなり)候。今は昔の猛惡を後悔し、一心に彌陀成佛を願(ねがひ)候。」
とて首の布をはづすをみれば、我(われ)からみたる刀なり。
右馬介、
『扨は伊勢路の盜賊よ。』
と心に思ひ、人なき所へ坊主をよひよせ、
「其時の旅人は、我也。此(これ)以來、必(かならず)、惡心をひるがへし、佛道に歸依して、生涯を終るべし。」
と、能々(よくよく)、後來(こうらい)、禁(いまし)め、刀のまきめに、ゆびを入(いれ)、一はじき、はじきければ、元のごとく、引(ひき)のびぬ。
坊主、手を合(あは)せ、淚を流し、
「我、深き御慈悲にて大苦痛をまぬかれ、現世未來成佛身(げんせみらいじやうぶつしん)を得候。此以來、いかならん御奉公成(なり)とも可仕(つかまつるべく)候。御家來になし、召仕(めしつか)はれ給はるべし。命、限り御みや仕へ申すべし。」
とて、夫(それ)より、主從の契約(ちぎり)をなし、隨身(ずゐじん)、給仕なしたりとなん。
此右烏介、尾州より美作の國へ越(こゆ)る時、乘物、弐挺(ちやう)の棒をくゝり合(あはせ)、老母と妻と男子弐人とをのせて、棒の先へ具足櫃(ぐそくびつ)・葛籠(つづら)のたぐひ、結ひ付(つけ)、夫(それ)を右馬介壱人にて、かるがると荷行(にゆき)たり。
又、ある時、ためしものを切ルに、目釘穴、くぼく、目くぎ竹は、穴一倍、大きなりけるに、目釘竹を取(とり)て、目釘穴にあてて指を以(もつて)是(これ)ををすに、目釘竹のめぐり、削(けずるる)がごとくにかけて、目釘穴のうら迄、通りたり。鐵槌(かなづち)にて打共(うつとも)、可入(いるるべき)物に、あらず。
力の分限、知りがたし。
森家の侍には、すべて、大力、多し。不破伴左衞門は、其身、鐵體(てつたい)にてや有(あり)けん、名越三左衞門、備前兼光を以(もつて)切ルに、澁皮(しぶかは)も、むけず。
森家の者共、指料(さしれう)の刀、壹腰(ひとこし)も切るゝ事なく、鎗にて、やうやう、突殺(つきころ)しけるといへり。
不破が力は高木に一倍ましたり、といへり。
[やぶちゃん注:「高木右馬助」(明暦二(一六五六)年~延享三(一七四六)年)は江戸前期から中期にかけて実在した知られた武術家。名は重貞。もと、美作津山藩士で、十六歳で高木折右衛門より高木流体術の極意を受け、後に竹内流を学んで、「高木流体術腰回り」を創始した。自らの号をとって「格外流」とも称した。その後、浪人して美濃に住み、九十一歳の天寿を全うした(講談社「日本人名大辞典」に拠る)。
「美作(みまさか)の太守森内記(げき)長繼」(慶長一五(一六一〇)年~元禄一一(一六九八)年)は大名。寛永一一(一六三四)年に美作津山藩(現在の岡山県津山市)第二代藩主。延宝二(一六七四)年に隠居した。後、死の前年の元禄十年に津山藩改易されるが、備中西江原藩二万石を与えられて、そこで森家を再興している。本来、彼は森忠政の重臣関成次の長男であったが、忠政の実子が全て早世したため、忠政の外孫に当たる長継が忠政の養子に選ばれた。
「鈴鹿山、いかになり行(ゆく)」これは「新古今和歌集」の「巻第十七 雑歌」に載る西行法師の一首(一六一三番歌)、
伊勢にまかりける時よめる
鈴鹿山うき世をよそにふり捨てていかになりゆくわが身なるらん
を指す。
「七尺」二メートル一二センチメートル。
「柿の頭巾」柿渋で染めた頭巾。防水効果がある。
「四尺」一メートル二十一センチメートル。これはとんでもない長刀である。
「兩人」ここまで叙述はやや不親切。盗人は二人組である。
「平包」衣類などを包むための布。大型の後の風呂敷のようなもの。
「三輪の謠(うたひ)」謡曲名。玄賓僧都(げんぴんそうず)(ワキ)が毎日庵を訪れる一人の女(前シテ)に衣を与えたが、三輪の神杉にその衣がかかっているというので行ってみると、三輪明神(後シテ)が現れ、三輪の神話を語り、天の岩戸の神楽を舞うというストーリー。
「秋も夜寒に成(なり)候程に御衣(おんぞ)を一重(ひとへ)給り候へ」謡曲「三輪」の前半の前シテとワキの問答の一節(太字部分)。前後を含めて引く。
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上ゲ歌
地〽 秋寒き窓の内 秋寒き窓の内 軒の松風うちしぐれ 木の葉かき敷く庭の面(おも) 門(かど)は葎(むぐら)や閉ぢつらん 下樋(したひの)の水音も 苔に聞えて靜かなる 此の山住(やまず)みぞ淋しき
問答
シテ
「いかに上人に申すべきことの候。秋も夜寒(よさむ)になり候へば、おん衣(ころも)を一重(へ)たまはり候へ。」
ワキ「易き間(あいだ)のこと。この衣を參らせ候ふべし。
シテ「あらありがたや候。さらば御暇申し候はん。」
ワキ「暫く。さてさておん身はいづくに住む人ぞ。」
シテ「わらはが住み家(か)は三輪の里。山もと近き處なり。その上、『我が庵(いほ)は三輪の山もと戀しくは』とは詠みたれども、何しに我をば訪(と)ひ給ふべき。なほも不審に思し召さば、訪(とふら)へ來ませ。」
*
シテの台詞の「我が庵は三輪の山もと戀しくは」は「古今和歌集」の「雑下」に載る「よみ人知らず」の一首(九八二番歌)「わが庵は三輪の山もと戀しくはとぶらひ來ませ杉立てる門」で、古注では「三輪の明神の歌」とされるので、伏線と言える。
「大竹丸」大嶽丸。ウィキの「大嶽丸」より引く。『伊勢国と近江国の国境にある鈴鹿山に住んでいたと伝わる鬼。峠を雲で覆って暴風雨や雷、火の粉など神通力を操った』。『鈴鹿峠周辺には大嶽丸を討伐した坂上田村麻呂を祀る田村神社(甲賀市)や、大嶽丸を手厚く埋葬したという首塚の残る善勝寺(東近江市)などが今も点在している』。『御伽草子『田村草子』では、俊仁将軍の子である「ふせり殿」と称した田村丸俊宗が退治した伊勢鈴鹿山の鬼神が大嶽丸である』。なお、『『田村草子』では田村丸俊宗という名前であるが、『鈴鹿草子』『鈴鹿物語』『田村三代記』ではそれぞれ名前が異なるため、以下』、『田村麻呂で統一する』。『桓武天皇の時代、伊勢国鈴鹿山に大嶽丸という鬼神が現れ、鈴鹿峠を往来する民や都への貢物が届かなくなり、帝は坂上田村麻呂に大嶽丸の討伐を命じ、田村麻呂は三万騎の軍を率いて鈴鹿山へ向かった。大嶽丸は悪知恵を働かせて峰の黒雲に紛れて姿を隠し、暴風雨を起こして雷電を鳴らし、火の雨を降らせて田村麻呂の軍を数年に渡って足止めした』。『一方で鈴鹿山には天下った鈴鹿御前という天女が住んでいた。大嶽丸は鈴鹿御前の美貌に一夜の契りを交わしたいと心を悩ませ、美しい童子や公家などに変化して夜な夜な鈴鹿御前の館へと赴くものの、思いは叶わなかった。大嶽丸の居場所を掴めずにいた田村麻呂が神仏に祈願したところ、その夜に微睡んでいると』、『老人が現れて「大嶽丸を討伐するために鈴鹿御前の助力を得よ」と告げられた。田村麻呂は三万騎の軍を都へ帰し、一人で鈴鹿山を進むと見目麗しい女性が現れ、誘われるままに館へ入り閨で契りを交わす。女性が「私は鈴鹿山の鬼神を討伐する貴方を助けるために天下りました。私が謀をして大嶽丸を討ち取らせましょう」と鈴鹿御前であった女性の助力を得た』。『鈴鹿御前の案内で大嶽丸の棲む鬼が城へ辿り着いたものの、鈴鹿御前から「大嶽丸は三明の剣に守護されて倒せない」と告げられる。鈴鹿御前の館へ戻り、夜になると童子に変化した大嶽丸がやってきた。鈴鹿御前が大嶽丸に「田村麻呂という将軍が私の命を狙っている。守り刀として貴方の三明の剣を預からせてほしい」と返歌すると、大嶽丸から大通連と小通連を手に入れた。次の夜も館へ来た大嶽丸と、待ち構えていた田村麻呂が激戦を繰り広げる。正体を現した大嶽丸は身丈十丈の鬼神となり』、『日月の様に光る眼で田村麻呂を睨み、天地を響かせ、氷の如き剣や鉾を投げつけたが、田村麻呂が信仰する千手観音と毘沙門天が払い落とした。大嶽丸が数千もの鬼に分身すると田村麻呂が神通の鏑矢を放ち、一の矢が千の矢に、千の矢が万の矢に分かれて数千もの鬼の顔を射る。大嶽丸は抵抗するも、最後は田村麻呂が投げた騒速』(そはや:坂上田村麻呂が奥州征伐に遠征する際、兵庫県加東市の清水寺に祈願し、無事帰京したことで奉納したと伝えられる大刀)『現に首を落とされた。大嶽丸の首は都へと運ばれて帝が叡覧され、田村麻呂は武功で賜った伊賀国で鈴鹿御前と夫婦として暮らした』。『ところが大嶽丸は魂魄となって天竺へと戻り、顕明連の力で再び鬼神となって陸奥国霧山に立て籠って日本を乱し始めたため、田村麻呂と鈴鹿御前は討伐のために陸奥へと向かった。大嶽丸は霧山に難攻不落の鬼が城を築いていたが、田村麻呂はかつて鈴鹿山で鬼が城を見ていたため』、『搦め手から鬼が城へと入ることができた。そこに大嶽丸が蝦夷が島の八面大王の元より戻ってきて激戦となり、再び田村麻呂によって首を落とされた。大嶽丸の首は天へと舞い上がって田村麻呂の兜に食らいつくが、兜を重ねて被っていたため』、『難を脱し、大嶽丸の首はそのまま死んだ。大嶽丸の首は宇治の平等院に納められたという』。『江戸時代の東北では、御伽草子『鈴鹿の草子』『田村の草子』、古浄瑠璃『坂上田村丸誕生記』などを底本として、東北各地に残る田村麻呂伝説と融合した奥浄瑠璃の代表的演目『田村三代記』で語られた』。『渡辺本『田村三代記・全』では大嶽丸は鈴鹿山に棲んでおらず、登場時から奥州霧山嶽を居城としている』。『鈴木本『田村三代記』では天竺の八大龍王の配下、青野本『田村三代記』では天竺の金毘羅大王の配下とされる』。『「達谷窟が岩屋に御堂を建立して毘沙門天を納めた」など、『吾妻鑑』をはじめ東北での田村麻呂伝説に準えた内容がふんだんに取り入れられ、地域に即した改変がなされているのも『田村三代記』の特徴である』。『大嶽丸は悪路王と同一視されることもある。伊能嘉矩は、各地の伝承に見える大嶽丸・大竹丸・大武丸・大猛丸の名はみな転訛であり、大高丸→悪事の高丸→悪路王と通じるので、つまりは本来ひとつの対象を指していたと結論している』。『小松和彦は今日では鈴鹿山の大嶽丸の名はあまり知られていないが、かつての京の都では大嶽丸は大江山の酒呑童子と並び称されるほどの妖怪・鬼神であったとしている』とある。本篇は、今までの諸篇と異なり、奥州色がないが、或いは、この再生した大嶽丸の奥州での再起や、平安時代初期の蝦夷の首長悪路王伝承との絡みによって、或いは三坂の意識の中で奥州と通底していたものかも知れない。
「十刀太郎」読み不祥。「じっとう」か「とがたな」か。
「引(ひき)はづし」真後ろへ素早く退いて、かわし。
「握りひしぎ」「握り拉ぎ」。握り潰し。
「皆是身命爲第一寶(カイゼシンメイダイツホウ)とて、生ある者の、命、おしまざるはなし」ネット検索を掛けると、「源平盛衰記」の一本(私の所持するものには見当たらなかった)の「巻第十五 宇治合戦」(治承四(一一八〇)年五月の以仁王と源頼政の「橋合戦」のシーン)の中にこの文字列を見出せた「一切衆生法界圓滿輪皆是身命爲第一寶(いつさいしゅじゅあほうかいゑんまんりんかいぜしんみやうだいいつほう)とて生ある者は、皆、命を惜しむ習ひなれ共」である。これが出典か?
「愛宕山太郎坊天狗」無論、相手を決定的に脅すための詐称。相手が「天狗次郎」(この時には相手がそっちだは認識していない)ならば、当然、言上げで勝てる名であるからである。
「入湯(にふたう)するに」温泉名が書かれていない。有馬か。
「布をといて、入(いり)玉へ」高木は布を巻いた首の部分まで(というよりも、後で判る通り、その首のためにこそ入っているのであるが)湯にどっぷりと浸かっているのを見て、不潔を咎めたのである。
「さんげ」「懺悔」。本邦では近世まで清音が普通。に罪滅すと承るにより、くわしく御物語申也。
「關山通(どほり)」関宿(ここ(グーグル・マップ・データ))から北西に鈴鹿峠を越える道筋。関山は関宿の後背の山並みを指す。
「壱丈」約三メートル。
「大天狗となり、虛空に飛(とび)てうせ申候」話を作ったというより、その恐るべき怪力(刀の先を首の周りに曲げて輪にして枷のようにかけた事実に驚愕し、その詐称を鵜呑みにして、幻覚を見たとすべきところであろう。或いは、作話する意識が幾分かあり、そこにこの男の弱さを見て取った高木は最後の仕上げを以下でした、と言うのが正しいのかも知れない。
「痛をたて」「たて」は「斷て」か。一時的に痛みを止めることが出来るというのであろう。「白瘡(はくさう)をさゝげ」傷口の爛れた部分が白い瘡になって剝がれてぶら下がり。
「ふた、作り」その後に瘡蓋が出来て。
「膿水(のうすい)、とまり」膿の浸出もおさまり。
「からみたる」「絡みたる」素手で捻じ曲げて頸に絡ませた。
「まきめ」「捲き目」。曲げて捲きつけた箇所。
「はじき」「彈(はじ)き」。はじきければ、元のごとく、引(ひき)のびぬ。
「ためしものを切ルに」名刀工の名物や新たに打った刀の試し切りをする際に。
「目釘」刀身が柄から抜けるのを防ぐため、刀の茎(なかご)の穴と柄の表面の穴とに刺し通す釘。竹・銅などを用いる。目貫(めぬき)とも呼ぶ。
「くぼく」窪んでいるだけで、中央に穴が開いているだけであったか、或いは後の叙述から見るに、針ほどの貫通穴さえ開いていなかったのかも知れぬ。
「目くぎ竹は、穴一倍、大きなりけるに」目釘竹の方は、穴(或いはただの窪み)よりも一回り大きいものであったのであるが。
「不破伴左衞門」不詳。「不破が力は高木の」その「倍」はあったというのだか、どうも私はこの最後の部分がよく判らぬ。「森家の侍にはすべて大力」が多かったとして、彼の名を出すのだから、不破は森家の家臣としか読めないだろう。
彼は「森家の者共」がその「指料(さしれう)の刀」を如何に振っても、一つの傷も不破に与えることが出来ず(さすればこそ恐らくは最初に出る「名越三左衞門」(不詳)も森家家臣であろうとしか読めぬのだ)、結局「鎗」(やり)で、やっと突き殺した、というのは、訳が分からん。不破なる大力の家臣が乱心したのかしらん? 識者の御教授を乞うものである。
「備前兼光」既出既注。]
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