トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) 處生訓
「もし相手をうんと焦らすか、ひどく遣つけて見たかつたら」と、或る古狸が言つた、「君自身覺えのある弱點なり惡德なりを、非難して見給へ。大いに慷慨口調でやるのだ。」
「第一に、かうすると相手は、その惡德が君には無いのだと思ひ込む。
「第二に、君の慷慨は作り物でなくなる。詰り、君は自分の良心の苛責を逆用し得る。
「例へば君が變節漢なら、相手の弱氣を非難し給へ。
「また、君肖身がおけら根性なら、相手もおけらだと言つてやり給へ。文明の、歐羅巴の、社會主義のおけらだと。……」
「いつそ、おけら排擊論のおけらとも言へませうね」と、そこで一本探針(さぐり)を入れて見たら、
「さうも言へるね」と、古狸が凉しい顏で應じた。
一八七八年二月
[やぶちゃん注:この挿絵は中山省三郎譯「散文詩」のものであるが、理由は不明ながら、一九五八年岩波文庫刊の神西清・池田健太郎訳「散文詩」には挿絵はない。
「おけら根性」(底本では総て傍点「ヽ」)は或いは若い人には判りにくい言葉であろう(螻蛄自体を知らない人も多くなった)。一般にはオケラが何にもないというように手を広げるのに比喩した「一文無し」の謂いで、ここではそのように精神的に窮した者、さもしい魂しか持たぬ者が、権威に対し、オケラが万歳するように、ひれ伏して付和雷同するという過程を経た、やや迂遠な謂い方だから、確かに分かりのいい訳語とは言えない。中山氏の訳では「奴隷根性」、上の一九五八年版では「下男(げなん)根性」と訳されてある。]
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