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2017/10/12

柴田宵曲 續妖異博物館 「鶴になつた人」

 

 鶴になつた人

 

   人に死し鶴に生れて冴返る  漱石

 

嘗て鳴雪翁がこの句を説くに當り、丁令威の故事を引合ひに出してあつたと記憶する。丁令威の事は「搜神後記」に出てゐるが、遼東の人で、道を靈虛山に學ぶ。後に鶴に化して遼に歸り、城門の華表(くわへう)の柱にとまつた。少年が弓を以て射ようとすると、鶴は飛び立つて空中に徘徊し、「鳥あり鳥あり丁令威、家を去りて千年今始めて歸る、城郭は故(もと)の如くにして人民は非なり、何ぞ仙を學ばずして塚壘壘たるや」と言ひ、遂に天高く舞ひ去つた。遼東の丁姓の人の間に、先祖に登仙した人のあつたことを傳へてゐるが、その名前はわからぬさうである。千年たつて郷里に歸つたのでは、浦嶋太郎より更に時間が長い。假りに城郭は舊の如くであつたにせよ、故人の存する者なきは當然であらう。丁令威は道術の士だから、人の仙を學ばずして早く死するのを憫れんだのである。

[やぶちゃん注:「人に死し鶴に生れて冴返る」明治三〇(一八九七)年二月、「正岡子規へ送りたる句稿 その二十三」の中の一句。子規による他者の秀作を記した選句帖「承露盤」に入っている。漱石満三十歳直前(熊本第五高等学校英語教師時代)の作句と推定される(漱石は二月九日生まれ)。駄句である。私は漱石の俳句でこれはと思うた句は一句とてない。

 陶淵明作と伝える志怪小説集「搜神後記」のそれは第一巻の「丁令威」。

   *

丁令威、本遼東人、學道於靈虛山。後化鶴歸遼、集城門華表柱。時有少年、舉弓欲射之。鶴乃飛、徘徊空中而言曰、「有鳥有鳥丁令威、去家千年今始歸。城郭如故人民非、何不學仙離塚壘。」。遂高上沖天。今遼東諸丁、云其先世有升仙者、但不知名字耳。

   *

「華表」建築物に添えて建立される記念標柱。一般的には台座・蟠龍柱(とぐろを巻いた龍)・承露盤とその上の蹲獣像から成る。]

 

 鶴は仙禽と稱せられるほどで、仙人とは緣が深い。鶴背の仙人は畫圖としても平凡なものであるが、丁令威と同じく鶴に化した話もいくつかある。蘇耽も鶴に化した一人で、城郭の東北に聳えてゐる樓の上にとまつた。或人がこれを射ると、彼は爪を以て樓の板に次のやうな文句を書いて、いづこともなく飛び去つた。その痕があだかも漆(うるし)で書いたものの如くであつたが、文句の内容は「城郭は是なり、人民は非なり、三百甲子一たび來り歸る、吾は是れ蘇耽なり、我を彈するは何ぞや」といふので、丁令威の語を踏襲したに過ぎぬ。※(しふ)玄英は屍解仙化するに當り、腦天から一道の白菊が立ち昇ると見る間もなく、一羽の鶴になつて飛び去つたとあるのみで、丁令威や蘇耽のやうな話は傳はつてゐない(列仙全傳)。

[やぶちゃん注:「※(しふ)」=「金」+「寸」。

「蘇耽」ArtWikiの「蘇耽」に金井紫雲の「東洋画題綜覧」の解説が記されているので引くと(引用符を打たなかったのは、漢字を恣意的に正字化し、読み易くするために記号を追加したことによる)、

   *

蘇耽は支那の仙人、その母に仕へて孝なることと、後に鶴に化すといふのが如何にも興味があり、仙人中でも異色のもので、「列仙傳」第二卷に曰く、

蘇耽、郴人、事母至孝、嘗遇異人授神仙術、日侍膳、母思鮓卽出市鮓以献、問所從來曰、便県、母始異之、一日忽灑掃庭除、母問其故、曰仙道已成上帝來召、母曰、汝仙去吾誰養、乃留一櫃云、所需卽有、又云、明年大疫、取庭前井水橘葉救之、耽仙去已而果疫、母日活百餘人、後耽化鶴來郡城東北樓、時有彈之者、乃以爪攫樓板、似漆書云、城郭是人民非、三日甲子一來歸、吾是蘇耽、彈我何爲。

その「蘇耽乘鶴」は古來、好畫題として行はれ、「後素説」にも之を擧げてゐる。

   *

とある。他に彼に就いては、中文サイト道教典」の「耽」に、

   *

「洞仙傳」、蘇耽者、桂陽人也。母食欲得魚、耽往市去家數百里、俄頃便返。後留一櫃兩盤於家中、謂母曰、須食魚扣小盤、欲得錢扣大盤、所須皆立至。

「神仙傳」、蘇耽桂陽人、有數十白鶴降于門、遂昇雲而去。後有白鶴來郡城東北樓門上、人或挾彈彈之。鶴以爪攫樓門似漆書云、「城郭是、人民非、三百甲子一來歸、吾是蘇仙、君彈我何爲。」。

「水經注」、蘇耽郴縣人、少孤事母至孝。忽辭母仙去、後見耽乘白馬還山中、人稱爲蘇仙、爲之立祠、因名山爲馬嶺山。

   *

とあった。個人のページらしき櫃と蘇耽の母も読まれたい。

「※(しふ)玄英」不詳。]

 

 則天武后の末年、益州に一人の膏藥翁があつた。常に一箇の壺を携へて城中に藥を賣り、それで生活して居つたが、常に貧しいのはいふまでもない。普通の人のやうな食事は攝(と)らず、時に淨水を飮むだけである。一年餘りこんな事を續けてゐるうちに、大いに人々の信賴を得、この翁の藥を飮めば癒えざる者なしと云はれた。本人は更に世事に貪著(とんぢやく)せず、或時は江岸に遊んで水を眺めて永い日を消し、或時は山に登つて沈思默考するだけであつたが、有識者に遇へば翁一流の疾病觀を述べるのを常とした。一日錦江に到り、衣を脱いで身を淨め、壺中から一粒の丸藥を取り出して飮むと、側にゐた者を顧みて、わしは久しくこの土に謫せられて居つたが、その期限も漸く滿ちた、これから嶋に歸ると云ひ、白鶴に化して飛び去つた。その衣も藥も皆水に沒し、何も殘つてゐなかつた(瀟湘錄)。

[やぶちゃん注:以上は「瀟湘錄」の「説郛」の巻三十三を出典とする「老父賣藥朱仁」。中文ウィキソース「瀟湘錄」から加工して引く。

   *

則天末年、益州有一老父、攜一藥壺於城中賣藥、得錢卽轉濟貧乏、自常不食、時卽飮淨水。如此經歳餘、百姓賴之、有疾得藥者、無不愈。時或自遊江岸、凝眺永日、又或登高引領、不語永日。每遇有識者、必告之曰、「夫人一身、便如一國也。人之心卽帝王也、傍列髒腑、卽内府也、外張九竅、卽外臣也、故心病則内外不可救之、又何異君亂於上、臣下焉可止之。但凡欲身之無病、必須先正其心、不使氣索、不使狂思、不使嗜欲、不使迷惑、則心無病。心既無病、則内輔必堅髒腑、雖有病不難療之也。外之九竅、亦無由受病也。況藥有君有臣、有佐有使、或攻其病、君先臣次、然後用佐用使、自然合其宜。加以佐小不當其用、心自亂也、又何能救病。此又國家任人也。老夫常以此爲念、每見愚者一身、君不君、臣不臣、使九竅之邪、總納其病、以至於良醫自逃、名藥不效、猶不自知治身之病後時矣。悲夫、士君子記之。」。忽一日獨詣錦江、解衣淨浴、探壺中、惟選一丸藥、自吞之、謂衆人曰、「老夫謫罪已滿、今卻歸島嶼。」。俄化爲一白鶴去、其衣與藥壺、並沒於水、求尋不得。

   *

「則天武后の末年」武則天の在位は六九〇年から七〇五年二月まで。

「益州」現在の四川盆地と漢中盆地一帯を指す。

「錦江」現在の四川省省都成都市中心部を流れる川で岷江の支流。長江水系。]

 

 以上の話は略々同一系統のもので、話本位に見ればさのみ興味は感ぜられぬ。話として面白いのは「集異記」の徐佐卿であらう。

 玄宗皇帝の天寶十三年、九月九日の重陽に沙苑の獵が行はれた。たまたま一羽の鶴が雲間に飛ぶのを見、帝自ら失を放たれると、失はあやまたず鶴に中(あた)り、そのまゝ落ちて來さうになつたが、地面から一丈ぐらゐのところで、忽ちまた舞ひ上り、西南をさして飛んで行つた。一同見えるだけ見送るうちに、遂に姿を消してしまつた。

 益州の城から十里ばかり離れたところに、明月觀といふ建物がある。山により水に臨み、樹木の茂つた場所で、諸方から道士の集まる中に、東廊の第一院といふのが最も幽絶であつた。靑城の道士徐佐卿なる者があつて、一年に三四度は必ずやつて來る。その風格がおのづから異るものがあるので、院の正堂を明けて置いて、佐卿の來るのを待つやうにしてゐた。佐卿は三日五日ぐらゐ逗留することもあり、十日間ぐらゐゐて靑城に歸ることもある。彼は久しきに亙り道士達に傾仰されて居つたが、或日例の如くやつて來て、何だか不愉快さうな顏をしてゐる。やゝあつて院中の人に向ひ、今日わしは山中で流れ矢に中つた、別に大した怪我もないが、この矢は人間の所有すべき性質のものでないから、こゝの壁に留めて置く、そのうちに矢の主(ぬし)が尋ねて來たら、これを返して貰ひたい、粗末にしてはならぬぞ、と云ひ、「留箭之時。則十三載九月九日也」の十三字を壁に記して去つた。安祿山の亂が起つたのはその後である。玄宗皇帝は亂を避けて蜀に行幸されることになり、圖らずもこの明月觀に立ち寄られた。帝は塵俗の氣を絶した環境を愛(め)でられ、各室をあまねく見て步かれたが、遂にこの室に入つて壁にかけた矢を一瞥されると、直ちに侍臣に命じて取らしめられた。矢は紛れもない、帝の放たれたものであるけれど、それがどうしてここに來てゐるか、その徑路がわからぬ、道士達は帝より尋ねられるまゝに、事實あつた通り奉答した。失が沙苑に於て用ゐられたものである以上、その矢に中つた鶴は佐卿でなければならぬ。帝は深くこの事を奇とし、自ら放たれた矢を藏して寶とされた。その後蜀の人で佐卿に逢つた者は一人もなかつたさうである。

[やぶちゃん注:この話、現存する「集異記」にはなく、「太平廣記」の「神仙三十六」に「廣德神異錄」を出典として「徐佐卿」で載る。

   *

唐玄宗天寶十三載重陽日獵於沙苑。時雲間有孤鶴徊翔。玄宗親御弧矢中之。其鶴卽帶箭徐墜、將及地丈許、欻然矯翼、西南而逝。萬衆極目。良久乃滅。益州城西十五里、有道觀焉。依山臨水、松桂深寂。道流非修習精者莫得而居之。觀之東廊第一院、尤爲幽寂。有自稱靑城山道士徐佐卿者、淸粹高古、一歳率三四至焉。觀之耆舊、因虛其院之正堂、以俟其來。而佐卿至則棲焉、或三五日、或旬朔、言歸靑城。甚爲道流所傾仰。一日忽自外至、神彩不怡、謂院中人曰、「吾行山中、偶爲飛矢所加、尋已無恙矣。然此箭非人間所有、吾留之於壁、後年箭主到此、卽宜付之、慎無墜失。」。仍援毫記壁云、「留箭之時、則十三載九月九日也。」。及玄宗避亂幸蜀、暇日命駕行遊、偶至斯觀、樂其嘉境、因遍幸道室。既入此堂。忽覩其箭。命侍臣取而翫之、蓋御箭也。深異之、因詢觀之道士。具以實對。卽視佐卿所題。乃前沙苑從田之箭也、佐卿蓋中箭孤鶴耳。究其題、乃沙苑翻飛、當日而集于斯歟。玄宗大奇之、因收其箭而寶焉。自後蜀人亦無復有遇佐卿者。

   *

「十三載九月九日」安禄山の乱は天宝十四載の十一月に勃発している。

「益州の城」長安から益州成都までは直線でも六百キロメートルを超える。]

 

 丁令威以下の人々は、いづれも「人に死し鶴に生れ」たもので、身を仙禽に變へてから人間の生活は營まなかつたのに、徐佐卿だけは鶴となつて矢を受けた後、人間の姿で明月觀に現れてゐる。彼はその點に於て他の人の企て及ばぬ自在を得てゐたのであらうか。丁令威も蘇耽も射られた事は同じであるが、佐卿ひとり身に受けたのは、帝箭の威力の然らしむるところであらうか。然も遂に一結杳然として消息を絶つてゐるのが、この話の神韻縹渺たる所以であらう。

[やぶちゃん注:「一結杳然」「いつけつえうぜん(いっけつようぜん)」とは、文章の後に残っている風情。文章を締めくくった後に、匂うように余韻が残るさまを言う語。]

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