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2017/10/29

柴田宵曲 續妖異博物館 「化鳥退治」

 

 化鳥退治

 

 源三位賴政の鵺(ぬえ)退治などは改めて説くまでもないが、話の順序だから「平家物語」の記載を擧げることにする。近衞院の御宇に、主上夜な夜なおびえさせ給ふ事があり、東三條の方から一むらの黑雲が押して來て、御殿を蔽ふと思はれる時、愈々おびえさせ給ふとわかつた。山門南都の貴僧高僧に大法祕法を修せしめられたのは云ふまでもないが、同時に武士を以ても警固すべしとあつて、源平兩家のつはものを召されることになつた。當時兵庫頭であつた賴政が、南殿に祗候して世間の樣子を窺つてゐると、果して夜半に及ぶ頃、例の黑雲が御殿の上に五丈ばかりたなびいた。雲の中に姿ある者が見えるので、賴政尖り矢をつがへてひようと射る。矢に中つて庭上に落ちたのが「かしらは猿、むくろはたぬき、尾はくちなは、足手は虎の如くにて、鳴聲鵺にぞにたりける」といふ怪物であつた。賴政の名が天下に聞えたのはこの時である。その後二條院の御宇にも、鵺が夜な夜な啼いて宸襟を惱ましたことがあつた。賴政は前例により召されて南殿に祗候したが、折ふし五月雨のかきくらす空に、化鳥(けてう)は一聲啼いたきりだから見當が付かぬ。賴政先づ鏑矢(かぶらや)を放ち、鵺がその音に驚いて飛び𢌞るところを、小鏑を執つて射落した。これは前のやうな怪物ではなかつたので、二度目の化鳥退治は第一囘ほど喧傳されてゐない。

[やぶちゃん注:「源三位賴政」(長治元(一一〇四)年~治承四(一一八〇)年)は平安時代末期の武将・公卿・歌人。兵庫頭源仲政の長男。朝廷で平家が専横を極める中、それまで正四位下を極位としていた清和源氏としては、突出した従三位に叙せられたことから「源三位(げんざんみ)」と称された。また、父と同じく「馬場」を号とし、馬場頼政(ばばのよりまさ)と称した。白河院以来、朝廷に仕え、兵庫頭に至る。摂津源氏渡辺党を率いて、保元の乱では天皇方に属して功あり、平治の乱では平氏方に属した。平氏政権下で宮廷・京都の警衛に任ぜられ、三位に至って内昇殿を許された。しかし、平氏の専制、源氏の衰勢を憤って、治承四(一一八〇)年、後白河上皇の皇子以仁(もちひと)王を奉じて平氏打倒の兵をあげたが、平氏に討たれて五月二十六日(ユリウス暦一一八〇年六月二十日)、宇治平等院で戦死した。しかし、この時に諸国の源氏に配布された以仁王の令旨は、源氏再興の原動力となった。頼政は射芸の達人として名があり、また和歌において当時の第一流に属し、今日に「源三位頼政集」を伝えるほか、多数の和歌を残している。墓所は終焉の地、現在の京都府宇治市の平等院最勝院にある。(以上は小学館の「日本大百科全書」及びウィキの「源頼政」をカップリングした)。

「鵺」ウィキの「鵺」により記載する。鵼・恠鳥・夜鳥・奴延鳥などとも書く。妖怪(妖獣。一説に雷獣とも)で、「平家物語」などに登場し、『サルの顔、タヌキの胴体、トラの手足を持ち、尾はヘビ。文献によっては胴体については何も書かれなかったり、胴が虎で描かれることもある』。「源平盛衰記」では『背が虎で足がタヌキ、尾はキツネになっており、さらに頭がネコで胴はニワトリと書かれた資料もある』。『描写される姿形は、北東の寅(虎)、南東の巳(蛇)、南西の申(猿)、北西の乾(犬とイノシシ)といった干支を表す獣の合成という考えもある』。『「ヒョーヒョー」という、鳥のトラツグミ』(スズメ目ツグミ科トラツグミ属トラツグミ Zoothera daumanagagutsukun2氏のYou Tube の音声)『の声に似た大変に気味の悪い声で鳴いた、とされる』。『平安時代後期に出現したとされるが、平安時代のいつ頃かは、二条天皇の時代、近衛天皇の時代、後白河天皇の時代、鳥羽天皇の時代など、資料によって諸説ある』。『元来、鵺(や)はキジに似た鳥』『とされるが』、『正確な同定は不明である。「夜」は形声の音符であり、意味を伴わない。鵼(こう・くう)は怪鳥』『とされる』。『日本では、夜に鳴く鳥とされ』、必ずしも妖怪としてではなく、夜鳴く鳥としては「古事記」「万葉集」に既に名は見られる』『この鳴き声の主は、鳩大で黄赤色の鳥』『と考えられたが、現在では、トラツグミとするのが定説である』。『この鳥の寂しげな鳴き声は平安時代頃の人々には不吉なものに聞こえたことから凶鳥とされ、天皇や貴族たちは鳴き声が聞こえるや、大事が起きないよう祈祷したという』。注意すべき点はこの「平家物語」で語られる妖怪は『あくまで「鵺の声で鳴く得体の知れないもの」で名前はついていなかった。しかし現在ではこの怪物の名前が鵺だと思われ、そちらの方が有名』となってしまったという経緯である(但し、百二十句本(平仮名本)「平家物語」のみには以下に示すように「五海女(ごかいじょ)」という不思議な名が記されてある。また、頼政の二回目のケースでは後に見るように「鵺(ぬえ)」と出るが、これは声のみであるから、妖怪(あやかし)の化鳥(けちょう)としての鵺の声であったことを指しているだけで、前回のようなハイブリッドのキマイラの実体的妖獣の名ではないのである)。『この意が転じて、得体の知れない人物を』比喩的に呼んだりもする。「平家物語」「摂津名所図会」などによれば、『鵺退治の話は以下のように述べられている。平安時代末期、天皇(近衛天皇)の住む御所・清涼殿に、毎晩のように黒煙と共に不気味な鳴き声が響き渡り、二条天皇がこれに恐怖していた。遂に天皇は病の身となってしまい、薬や祈祷をもってしても効果はなかった』。『側近たちはかつて源義家が弓を鳴らして怪事をやませた前例に倣って、弓の達人である源頼政に怪物退治を命じた。頼政はある夜、家来の猪早太(井早太との表記もある』『)を連れ、先祖の源頼光より受け継いだ弓を手にして怪物退治に出向いた。すると清涼殿を不気味な黒煙が覆い始めたので、頼政が山鳥の尾で作った尖り矢を射ると、悲鳴と共に鵺が二条城の北方あたりに落下し、すかさず猪早太が取り押さえてとどめを差した』。『その時』、『宮廷の上空には、カッコウの鳴き声が二声三声聞こえ、静けさが戻ってきたという』。『これにより』、『天皇の体調もたちまちにして回復』、『頼政は天皇から褒美に獅子王という刀を貰賜した』(同刀とされるものは現存する)。『退治された鵺のその後については諸説あ』り、「平家物語」などに『よれば、京の都の人々は鵺の祟りを恐れて、死体を船に乗せて鴨川に流した。淀川を下った船は大阪東成郡に一旦漂着した後、海を漂って芦屋川と住吉川の間の浜に打ち上げられた。芦屋の人々はこの屍骸をねんごろに葬り、鵺塚を造って弔ったという』。『鵺を葬ったとされる鵺塚は』、「摂津名所図会」では『「鵺塚 芦屋川住吉川の間にあり」とある』。『江戸初期の地誌である』一無軒道冶著「芦分船」に『よれば、鵺は淀川下流に流れ着き、祟りを恐れた村人たちが母恩寺の住職に告げ、ねんごろに弔って土に埋めて塚を建てたものの』、『明治時代に入って塚が取り壊されかけ、鵺の怨霊が近くに住む人々を悩ませ、慌てて塚が修復されたという』。一方、「源平盛衰記」や「閑田次筆」によると、『鵺は京都府の清水寺に埋められたといい、江戸時代にはそれを掘り起こしたために祟りがあったという』。『別説では鵺の死霊は』一『頭の馬と化し、木下と名づけられて頼政に飼われたという。この馬は良馬であったため』、『平宗盛に取り上げられ、それをきっかけに頼政は反平家のために挙兵してその身を滅ぼすことになり、鵺は宿縁を晴らしたのだという』鵺からの報復伝承も存在する。また、『静岡県の浜名湖西方に鵺の死体が落ちてきたともいい、浜松市北区の三ヶ日町鵺代、胴崎、羽平、尾奈といった地名はそれぞれ鵺の頭部、胴体、羽、尾が落ちてきたという伝説に由来する』という。さらに驚くべきことに、『愛媛県上浮穴郡久万高原町には、鵺の正体は頼政の母だという伝説もある。かつて平家全盛の時代、頼政の母が故郷のこの地に隠れ住んでおり、山間部の赤蔵ヶ池という池で、息子の武運と源氏再興をこの池の主の龍神に祈ったところ、祈祷と平家への憎悪により母の体が鵺と化し、京都へ飛んで行った。母の化身した鵺は天皇を病気にさせた上、自身を息子・頼政に退治させることで手柄を上げさせたのである。頼政の矢に貫かれた鵺は赤蔵ヶ池に舞い戻って池の主となったものの、矢傷がもとで命を落としたという』(太字下線はやぶちゃん)。最後の伝承は、何か、しんみりする。

「近衞院の御宇」近衛天皇(保延五(一一三九)年~久寿二(一一五五)年)の在位は永治元(一一四二)年~久寿二(一一五五)年七月まで。次代は後白河天皇。

「東三條」大内裏の南東。

「祗候」(しこう)は「伺候」に同じい。貴人のおそばに奉仕すること。

「五丈」十五メートル強。

「二條院の御宇」後白河天皇第一子であった二条天皇(康治二(一一四三)年~永万元(一一六五)年)。在位は後白河の後で、保元三(一一五八)年~永万元(一一六五)年八月まで。

「宸襟」(しんきん)は天子の御心。

 以上の「平家物語」のそれは「卷第四 鵼」の一節。以下。

   *

 この賴政、一期(いちご)の高名とおぼえしは、近衞の院の時、夜な夜なおびえさせ給ふことあり。大法、祕法を修せられけれども、しるしなし。人申しけるは、

「東三條のもとより黑雲(くろくも)ひとむらたち來たり、御殿に覆へば、そのときかならずおびえさせ給ふ。」

と申す。

「こはいかにすべき。」

とて、公卿、僉議(せんぎ)あり。

「所詮、源平の兵(つはもの)のうちに、しかるべき者を召して警固させらるべし。」

とさだめらる。

 寛治のころ、堀河の天皇、かくのごとくおびえさせ給ふ御ことありけるに、そのときの將軍、前の陸奧守源の義家を召さる。義家は、香色(かういろ)の狩衣に、塗籠藤(むりごめどう)の弓持ちて、山鳥の尾にてはぎたる[やぶちゃん注:製した。]とがり矢二すぢとりそへて、南殿の大床に伺候す。御惱(ごなう)のときにのぞんで、弦(つる)がけすること三度、そののち、御前(ごぜん)のかたをにらまへて、

「前の陸奧守、源の義家。」

と高聲(かうじやう)に名のりければ、聞く人、みな、身の毛もよだつて、御惱もおこたらせ給ひけり。

 しかれば、

「すなはち、先例にまかせ、警固あるべし。」

とて、賴政をえらび申さる。そのころ、兵庫頭と申しけるが、召されて參られけり。

「わが身、武勇(ぶよう)の家に生れて、なみに拔け、召さるることは家の面目なれども、朝家に武士を置かるる事、逆叛(ぎやくほん)の者をしりぞけ、違勅(ゐちよく)の者をほろぼさんがためなり。されども、目に見えぬ變化(へんげ)のものをつかまつれとの勅定(ちよくじやう)こそ、しかるべしともおぼえね。」

とつぶやいてぞ出でにける。

 賴政は、淺葱(あさぎ)の狩衣に、滋藤(しげどう)の弓持ちて、これも山鳥の尾にてはぎたるとがり矢二すぢとりそへて、賴みきりたる郎等、遠江の國の住人、猪(ゐ)の早太(はやた)といふ者に黑母衣(くろぼろ)[やぶちゃん注:黒い鷹の羽。]の矢負はせ、ただ一人ぞ具したりける。

 夜ふけ、人しづまつて、さまざまに世間をうかがひ見るほどに、日ごろ、人の言ふにたがはず、東三條の森のかたより、例のひとむら雲、出で來たりて、御殿の上に五丈ばかりぞたなびきたる。雲のうちにあやしき、ものの姿あり。賴政、

「これを射損ずるものならば、世にあるべき身ともおぼえず。南無歸命頂禮(なむきみやうちやうらい)、八幡大菩薩。」

と心の底に祈念して、鏑矢を取つてつがひ、しばしかためて、

「ひやう。」

ど射る。手ごたへして、

「ふつつ。」

と立つ。やがて矢立ちながら、南の小庭にどうど落つ。早太、

「つつ。」

と寄り、とつて押さへ、五刀(いつかたな)こそ刺したりけれ。

 そのとき、上下の人々、手々(てで)に火を出だし、これを御覽じけるに、かしらは猿、むくろは狸、尾は蛇(くちなは)、足、手は虎のすがたなり。鳴く聲は、鵺(ぬえ)にぞ似たりける。「五海女(ごかいぢよ)」といふものなり。

 主上、御感のあまりに、「獅子王」といふ御劍を賴政に下し賜はる。賴長の左府これを賜はり次いで、賴政に賜はるとて、ころは卯月のはじめのことなりければ、雲居にほととぎす、二聲、三聲おとづれて過ぎけるに、賴長の左府、

  ほととぎす雲居に名をやあぐるらん

と仰せかけられたりければ、賴政、右の膝をつき、左の袖をひろげて、月をそば目にうけ[やぶちゃん注:月を斜めに見上げて。]、弓、わきばさみて、

  弓張り月のいるにまかせて

とつかまつりて、御劍を賜はつてぞ出でにける。

「弓矢の道に長ぜるのみならず、歌道もすぐれたりける。」

と、君(きみ)も臣も感ぜらる。

 さて、この變化のものをば、うつほ舟に入れて流されけるとぞ聞こえし。

 賴政は、伊豆の國を賜はつて、子息仲綱受領し、わが身は丹波の五箇の庄、若狹の東宮川知行して、さてあるべき人の、よしなき事を思ひくはだて、わが身も子孫もほろびぬるこそあさましけれ。賴政はゆゆしうこそ申したれども、遠國は知らず、近國の源氏だにも馳せ參らず、山門さへかたらひあはれざりしうへは、とかう申すにおよばず。 

 

 また、去んぬる應保[やぶちゃん注:二条天皇の元号。一一六一年から一一六二年。]のころ、二條の院御在位のときに、鵺(ぬえ)といふ化鳥(けてう)、禁中に鳴いて、しばしば宸襟を惱ますことありき。

 先例をまかせ、賴政を召されけり。

 ころは五月二十日あまりのまだ宵のことなるに、鵺、ただ一聲おとづれて、二聲とも鳴かず。めざせども知らぬ闇ではあり、すがたかたちも見えざれば、矢つぼをいづくとも定めがたし。

 賴政、はかりごとに、まづ大鏑をとつてつがひ、鵺の聲しつるところ、内裏のうへにぞ射あげたる。鏑の音におどろいて、虛空にしばしはひめいたり。二の矢を小鏑とつてつがひ、

「ふつ。」

と射切つて、鵺と鏑とならべてまへにぞ落したる。

 禁中ざざめいて、御感ななめならず、御衣(ぎよえ)をかづけさせ給ひけるに、そのときは大炊の御門の右大臣公能公、これを賜はり次いで、賴政にかづけさせ給ふとて、

「むかしの養由(やういう)[やぶちゃん注:養由基。中国の戦国時代の弓の名人。]は、雲のほかの雁を射にき。いまの賴政は、雨のうちに鵺(ぬえ)を射たり。」

とぞ感ぜられける。

  五月闇(さつきやみ)名をあらはせるこよひかな

とおほせられたりければ、賴政、

  たそがれどきも過ぎぬと思ふに

とつかまつり、御衣を肩にかけて退出す。そののち伊豆の國を賜はり、子息仲綱受領になし、わが身三位しき。

   *] 

 

「かしらは猿、むくろはたぬき、尾はくちなは」云々といふやうな怪物は前後に例がないかと思ふと、「後崇光院御記」の應永二十三年五月の條に次のやうな記事がある。北野の社の二叉(ふたまた)の杉に怪鳥が現れ、その聲大竹をひしぐが如く、社頭を鳴動するほどであつたので、參詣通夜の人は肝を治した。宮仕への一人が弓を以て射落したのを見れば、頭は猫、身は雞、尾は蛇の如く、眼大にして光りあり、希代の怪鳥なりと記されてゐる。賴政時代と鷹永年間とでも大分間隔があるが、賴政の最初の事件が卯月十日餘り、その次が五月二十日餘りで、應永のも五月だから、化鳥の出現には季節の關係があるらしい。賴政の射落した怪物は、うつぼ船に入れて西の海に流された。應永の化鳥も川に流すべき旨、室町殿が沙汰せられたといふことで、すべての規模が小さくなつてゐることは爭はれぬ。

[やぶちゃん注:「後景光院御記」「ごすくわうゐんぎよき(ごすうこういんぎょき)」と読む。室町時代の皇族で世襲親王家の一つである伏見宮三代目当主であった伏見宮貞成親王(後崇光院)(応安五(一三七二)年~康正二(一四五六)年)の日記。

「應永二十三年五月」一四一六年。この年の五月一日はグレゴリオ暦に換算すると六月五日に相当する。

「雞」「にはとり」。鶏。

「室町殿」当時の室町幕府第四代将軍足利義持。]

 

 賴政の鵺退治に就いて連想に上る支那の話は「搜神記」の李楚賓である。靑山に住する董元範の母、常に病患に染み、晝の間は安靜であるが、夜になると非常に苦しむ。その痛みは刀で背を刺され、且つ毆打されるが如くである。病んでより已に一年、醫藥針灸の手段を盡しても更に效驗が見えぬ。たまたま易(えき)をよくする朱邯なる者、元範の母の三更に至つて叫喚するのを耳にし、何の病ひであるかを問うた。元範には無論答へることが出來ない。朱邯は卦を置いた結果、今日の午後二時に、あなたは弓矢を持つた人に出遇ふ筈だ、その人に敬意を表し、再三引き留めて一宿を乞ふがよろしい、母堂の御病氣を救ひ、苦痛の根源も明かになるでせう、と告げて去つた。元範がその時刻に道路に出て待つてゐると、成程弓矢を携へた男が來る。これが李楚賓なので、平生狩獵を好み、出づる每に大いに獲ざることなしといふ名人であつた。元範は進んで恭しく挨拶し、本日は柾げて弊舍へお立ち寄りを願ひたう存じます、と懇願した。楚賓は遊獵の途中でまだ一物も獲てゐない、日も高い事ではあるし、今からお寄りするわけに往かぬ、と云ふ。こゝに於てつぶさに母の病苦を述べ、或人の教へにより、御尊來を仰ぎさへすれば母の病ひは必ず癒えるといふことでありますので、斯の如く歎願に及ぶ次第でございます、と云つたところ、楚賓も遂に承知して元範の家に一宿することになつた。元範は懇ろに楚賓をもてなし、東房に臥牀(ふしど)を設けて、どうぞ御ゆるりとお寛(くつろ)ぎ下さい、と云つた。その夜は晝の如き月明であつたが、楚賓は夜の十時頃になると、房門を出てその邊を徘徊してゐる。忽ち一羽の大鳥が飛んで來て、母親の寢てゐる房の上に止り、嘴で屋根をつゝきはじめると同時に、室内から堪へがたい苦しみの聲が起る。この鳥が妖魅に違ひないと悟つた楚賓は、直ちに房中より弓矢を取り出し、失繼ぎ早に數箭を射た。鳥はどこへか飛び去り、室内の痛聲も聞えなくなつた。翌朝楚賓は元範に向び、もう母堂の疾患は除き去りました、御安心なさい、と云つたけれど、元範は腑に落ちぬ樣子で、どういふ風にしてお除きになりましたか、と問ふ。賓は拙者が戸を出てぶらぶら步いてゐましたところ、滿身朱色で兩眼金の如き大鳥が飛んで來て、屋上を啄(ついばみ)みはじめたら母堂の痛聲が聞えるのです、それから弓矢を持ち出して射かけたら、鳥はゐなくなつて痛聲もやみました、もう大丈夫です、と説明したので、元範は大いによろこび、楚賓と共に家の周圍を𢌞つて搜して見た。痕跡らしいものは何もなかつたが、柱に二本の矢が立つて居り、鏃(やじり)には血が付いてゐる。元範直ちにこれを燒き棄て、母の狀態は全く舊に復した。乃ち深く楚賓の恩を感謝し、絹一束を贈つたけれど、楚賓は受けずして去つた。

[やぶちゃん注:これは柴田の勘違いで「搜神記」ではなく、「集異記」の誤りではないかと思われる。「太平廣記」の「精怪二 李楚賓」に「集異記」を出典として、以下のように出るからである。

    *

李楚賓者、楚人也。性剛傲、惟以畋獵爲事。凡出獵、無不大獲。時童元範家住靑山、母嘗染疾、晝常無苦、至夜卽發。如是一載、醫藥備至、而絶無瘳減。時建中初、有善易者朱邯歸豫章、路經範舍、邯爲筮之。乃謂元範曰、「君今日未時、可具衫服、於道側伺之、當有執弓挾矢過者。君能求之斯人、必愈君母之疾、且究其原矣。」。元範如言、果得楚賓、張弓驟馬至。元範拜請過舍、賓曰、「今早未有所獲、君何見留。」。元範以其母疾告之、賓許諾。元範備飲膳、遂宿楚賓於西廡。是夜、月明如晝。楚賓乃出戸、見空中有一大鳥、飛來元範堂舍上、引喙啄屋、卽聞堂中叫聲、痛楚難忍。楚賓揆之曰、「此其妖魅也。」。乃引弓射之、兩發皆中。其鳥因爾飛去。堂中哀痛之聲亦止。至曉、楚賓謂元範曰、「吾昨夜已爲子除母害矣。」。乃與元範遶舍遍索、俱無所見。因至壞屋中、碓桯古址、有箭兩隻、所中箭處、皆有血光。元範遂以火燔之、精怪乃絶。母患自此平復。

   *

「靑山」これだけでは不詳。なお、大きな地区としては、まず、現在の湖北省武漢市に青山区はある。] 

 

「平家物語」には一むらの黑雲が押して來て御殿を蔽ふ時、主上愈々おびえさせ給ふとある。怪物の所作は雲につゝまれてわからぬが、この時恐らく元範の屋根を啄むのに似た動作があるのであらう。李楚賓は數箭を放つただけで、怪鳥を斃し得なかつたに拘らず、晝の如き月明に惠まれて、全身朱色の鳥をはつきり見屆けてゐる。相手の正體の見えた方が、矢を放つのに便宜なことは云ふまでもない。朱邯の豫言は母の患を救ひ、その苦の源を驗せんといふに在つたのだから、楚貿の一宿を乞うた目的は十分に達せられたわけである。

[やぶちゃん注:「驗せん」「げんせん」或いは「けんせん」と読んでいよう。この場合の「験」とは、証拠によって確かめる・試すの意である。]

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