トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) 敵と友
敵と友
無期徒刑の囚人が牢を破つて、一目散に逃げ出した。すぐその後から、追手がかかつた。
囚人は一生懸命に逃げた。追手は遲れはじめた。
すると、川ぷちの崖に出た。川幅は狹いが、水は深い。囚人は泳ぎを知らなかつた。
此方の岸から向ふ岸に、朽ちた細い板が渡してある。脱走囚はそれに片足を掛けた。そしてふと見𢌞すと丁度川緣に、自分の一番の親友と、一番仲の惡い敵とが佇んでゐた。
敵は默つて腕を拱いてゐた。親友の方は聲を限りに叫んだ。
「おお、おお。君は何をするのだ。載でも違つたのか。その板のすつかり腐つてゐるのが分らないのか。――君の重みでそれが折れたら最後、どうしたつて助かりつこはないぞ。」
「だつて他に逃道はないのだ。そら、追手の足音が聞えるぢやないか」と、哀れな男は絶望の呻きをあげて、板を渡りはじめた。
「とても見ちや居られない。君をむざむざ見殺しにはできない」と、助けたい一心で親友は叫んで、脱走囚の足許の板を引いた。
で、彼は忽ち、さかまく波に落ちて溺れてしまつた。
敵はそれを見ると、滿足の笑を浮べて去つた。親友は岸に坐り込んで、不幸な友達を思つて苦い淚を流した。
けれど友達の死について、自分を責めようなどとは、爪の先程も考へなかつた。
「言ふことを聽かないからだ。俺の言ふことを……」と、彼は沈み込んで呟いた。
「が、それにしても」やがて彼は、口に出して言つた、「あの男は一生、怖しい牢屋で苦しむ事になつてゐたのだ。少くとも今ぢや惱みもあるまい。ずつと樂になつたらう。さういふ𢌞りあはせだつたのだな。もとより、人情として忍びないが。」
さう言つて、この善良な男は、不運な友達を思つてひどく咽び泣いた。
一八七八年十二月
[やぶちゃん注:「滿足の笑」「笑」は「えみ」であろう。]
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