トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) 明日(あす)は明日(あす)こそは
暮れて行く一日一日のなんと空しく、味氣なく、はかないものであることぞ。その殘す跡形(あとかた)のなんと乏しく、その一刻一刻のなんと愚かしく、無意味に流れ過ぎたことぞ。
しかも猶、人は生きたいと望む。生を重んじ、希望を生(いのち)に、己れに、未來に繫ぐ。……ああ人は、どんな幸を未來に俟つのであらうか。
一體なぜ人間は、來たるべき日々に、今しがた暮れたこの日に似ぬものの姿を、思ひ描かうとするのであらうか。
いや人間は、そんな事は思ひもしないのだ。人はもともと考へることを好まない。そしてこれは、賢明と言ふべきだ。
「なあに、明日(あす)は、明日(あす)こそは」と、人は己れを慰める。この「明日(あす)」の日が、彼を墓場へ送り込むそのときまで。
さて、一旦墓のなかに橫はれば厭でも考へごとはやめなければなるまい。
一八七九年一月
[やぶちゃん注:一九五八年岩波文庫刊の神西清・池田健太郎訳「散文詩」には挿絵はない。
「橫はれば」「よこたはれば」。「た」の脱字が疑われるが、読めないわけではないのでママとした。]