佐藤春夫 女誡扇綺譚 三 戰慄 (その1)
三 戰慄
老婆は改めてやつと語り出した、初めはひとり言(ごと)めいた口調で……
「……さういふ噂は長いこと聞いてはゐました。けれどもその聲を本當に、自分が本當に聞いたといふ人を――見るのは初めてです。若い男の人たちは、一たいそこへ近づいてはいけなかつたのです。貴方がたは最初、私にその裏口をおききになつた時に、私はほんたうはお留めしたいと思つたのですが、それには長い話がいるし、また昔ものが何をいふかとお笑ひになると思つたものですから……。それに今はもう月日も經つたことではあり、私もまさかそんなことがあらうと信じなかつたものだから……。でも、私は何か惡い事が起らねばいいと氣がかりになつて、實は貴方がたの樣子をこちらから見守つてゐたところです。――あれは昔から幽靈屋敷だといふので、この邊では誰(だれ)も近づく人のなかつたところなのです。――ごらんなさい。あそこの大きな龍眼肉(ゲンゲン)の樹には見事な實(み)が鈴生(すゞなり)りにみのるのですが、それだつて採りに行く人もない程です……」
彼女は向うに見える大樹を指さし、自(おのづ)とその下の銃樓が目についたのであらう――
「昔はあの家は、海賊が覘(ねら)つて來るといふので、あの櫓(やぐら)の上に每晩鐡砲をもつて不寢番(ふしんばん)が立つた程の金持でした。北方の林(リン)に對抗して南方の沈(シン)と言へば、誰ひとり知らぬ人はなかつたのです。いいえ、まだつい六十年になるかならぬぐらゐの事です。大きな戒克船(ジヤンク)を五十艘も持つて、泉州(ツヱンチヤオ)や漳州(チンチヤオ)や福州(チウチヤオ)はもとより廣東(カントン)の方まで取引をしたといふ大商人で船問屋(ふなどんや)を兼ねてゐました。『安平港(アンピンカン)の沈(シン)か、沈の安平港か』とみんな唄つたものです。――御存じの通りそのころの安平港はまだ立派な港で、そのなかでも禿頭港(タツタウカン)と言へば安平と臺南(たいなん)の市街とのつづくところで、港内でも第一の船着(ふなつ)きでした。これほど賑やかなところは臺南にもなかつた程だといひます。――沈(シン)は本當に安平港の主(ぬし)だつたと見える。――沈家(シンけ)が沒落すると一緖に、安平港は急に火が消えたやうになりました。沈(シン)のゐない安平港へは用がないと言つて來なくなつた船が澤山あるさうです。それに海はだんだん淺くなるばかりで、しかもいつの間にか氣がついた頃にはすつかり埋(うづ)まつてゐたのですよ。この急な變り方までが、まるで沈家にそつくりだと、今もよくみんなして年寄たちは話し合ひますよ。……沈の家ですか? それがまた不思議なほど急に、一度に、唯の一夏(ひとなつ)の、しかも只の一晩のうちに急に沒落したのです。百萬長者が目を開けて見ると乞食になつてゐたのです。夢でもかうは急に變るまい。他人事(ひとごと)ながら考へれば人間が味氣(あぢき)なくなる――と、家の父はこの話が出るとよくさう言ひました。何でも沈の家ではその時、盛りの絕頂だつたのです。今の普請(ふしん)もついその三四年前に出來上つたばかりで、その普請がまた大したもので、石でも木でもみんな漳州(チンチヤオ)や泉州(ツヱンチヤオ)から運んだので、五十艘の持船(もちふね)がみんな、その爲めに二度づつ、そればかりに通うたといふ程ですよ。それといふのも沈家には、この子の爲めなら、双親(ふたおや)とも目がないという可愛い、ひとり娘があつて、それの婿取りの用意にこんな大がかりな普請をしたものださうです。それに美しい娘だつたさうです――私が見た時には、もう四十ぐらゐになつてもゐたし、落(おち)ぶれてれてへんになつてはゐましたが、それでもさう聞けばなるほどと思ふやうなところはありました……」
[やぶちゃん注:「戒克船(ジヤンク)」「戒」はママ。「戎克船」の誤りである。英語で“junk”であるが、元来はジャワ語で「船」の意。中国の沿岸や河川などで用いられている伝統的な木造帆船の総称。多数の水密隔壁により、船内が縦横に仕切られ、角形の船首と蛇腹式の帆を持つのが特徴。
「それに美しい娘だつたさうです」の「それに」は「それは」の誤植が疑われる感じはする。]
「そんなにまた、急に、どうして沈の家が沒落したのです?」世外民は、性急に話の重大な點をとらへてたづねた。
「ごめんなさい、私は年寄で話が下手で」――聞いてゐるうちに解つて來たが、この老婆は上品な中流の老婦人であつた。「怖ろしい海の颶風(はやて)だつたのです。陸(をか)でも崩れた家が澤山あつたさうです。それはさうでせう。――ごらんなさい、あの沈(シン)の家の水門の石垣でさへあの角(かど)が吹き崩されたのださうです。さうしてそれを直すことさへもう出來なかつたので、今もそのままに殘つてゐるのですが、夜(よ)が明けてみてその石垣――そのころはまだ築いたばかりの新しい石垣の、あんな大きな石が崩れ落ちてゐるのを見て、沈の主人は心配さうにそれを見てゐたさうです。運の惡い事に、その晩、宵のうちは靜かな滿月の夜でもあつたさうだし、沈の五十艘の船はみんな海に出てゐたのださうです。沈の主人は――五十位(ぐらゐ)の人だつたさうですが、崩れた石垣を見るにつけても、海に出てゐた持船(もちぶね)が心配だつたのでせう。船の便りは容易に知れなかつたさうですが、五日(か)經つても十日經つても歸る船はなかつたさうです。ただ人間だけが、それも船出した時の十分の一ぐらゐの人數(にんず)がぽつぽつと病み呆けて歸つて來て、それぞれに難船の話を傳へただけでした。無事に歸つた船は只の一艘もなかつたさうです。尤も、人の噂では、港にゐて颶風(はやて)に出會はなかつた船も三艘や五艘あつたに相違ないが、友船(ともふね)が本當に難船したことから惡企(わるだく)みを思ひついて、自分達の船も難船して自分は死んだやうな顏をして、船も荷物も橫領したまま遠くへ行つてしまつて歸つて來なかつたものも、どうやらあるらしいと言ひます。現に何處(どこ)とかの誰(たれ)は廣東(カントン)で、死んだ筈の何の某(なにがし)に逢つたの、名前と色どりとこそ變つてゐたが沈(シン)の船の『躑躅(てきちよく)』とそつくりのものを廈門(ヱイムン)で見かけたなどと、言ふ人もあつたさうです。何(なん)にしても一杯に荷物を積み込んだ大船(おほふね)が五十艘歸つて來なかつたのです。その騷ぎはどんなだつたか判るではありませんか。なかには沈自身の荷物ではないものも半分以上あつて、荷主(にぬし)は、みんな沈の家へ申し合せて押(おし)かけて、その償ひを持つて歸つたさうです。普請や娘の支度などで金を費(つか)つたあとではあり、それに派手な人で商ひも大きかつただけに、手許(てもと)には案外、金(きん)も銀も少(すくな)かつたと言ひます。人の心といふものは怖ろしいもので、かうなつて仕舞ふと、取るものは殘らず取立てても、拂つて貰へる可(べ)きものは何も取れない。そればかりか殆んど日どりまで定(きま)つてゐた娘の養子は斷つて來たさうです。もともと金持の沈と緣組をする筈で貧乏人の沈と緣を結ぶつもりではなかつたからでせう。……おお、あそこに、いい日蔭が出來ました。あそこへ行つてまあ腰でもお掛けなさい」
[やぶちゃん注:「躑躅」不詳。ルビは「てきちよく」とあるが、「てきしよく」の誤植であろう。現行の日本では植物のツツジであるから、それを船体に描いた船のことかとかとも思ったが、中国語ではこれは本来、「足踏みをする」という意味で、船名としては不吉であるから不審である。識者の御教授を乞うものである。]
老婆は、ちやうど前栽(ぜんざい)に一本だけあつた榕樹が、少し西に傾いた日ざしによつてやや廣い影を造つたのを見つけて、さう言ひながら自分がさきに立つて小さな足でよちよちと步いた。今まで別に氣がつかずにゐたが、この老婆の家といふのも大したことはないが一とほりの家で、昔の繁華の地に殘つてゐるだけの事はあつた。
[やぶちゃん注:言わずもがなであるが、この老婆は纏足であることがこの描写から判る。
「前栽(ぜんざい)」の読みはママ。]
樹(こ)かげで老婆は更に話しつづけた。彼女はよほど話好きと見えて、また上手でもある。ただ小さい聲で早口で、それが私にとつては外國語だけに聽きとりにくい場合や、判らない言葉などもある。私は後(のち)に世外民にも改めて聞き返したりしたが、更に老婆の說きつづけたことは次のやうである――
前述のやうな具合で沈の家が沒落し出すと、それが緖(いとぐち)で主人の沈は病氣になりそれが間もなく死ぬと同時に、緣談の破れたことを悲しんでゐた娘は重なる新しい歎きのために鬱鬱としてゐた擧句、たうとう狂氣してしまふ。その娘を不憫に思つてゐるうちにその母親も病氣で死んでしまふ。全く、作り話のやうに、不運は鎖(くさり)になつてつづいた。
一たいこの沈といふ家に就(つい)て世間ではいろいろなことを言ふ。
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