老媼茶話巻之三 血脈奇特
血脈奇特(けちみやくきどく)
會津塔寺(たふじ)、鍋屋喜右衞門親(おや)、九郎兵衞といふ者、元、江州の、やばせの者なり。喜右衞門代に塔寺に移る。前度(まへど)、九郎兵衞、諸國順禮して國々を𢌞りける折節、西國の内、鰐(ハニ)の御崎といふ所を通るに、此所、船渡(ふなわたし)にて、弐、三拾人、取乘(とりのせ)、風間(かざま)も克(よく)、船を押出(おしいだ)し、船、沖中へ漕出(こぎいだ)しけるに、船、沖中にて、
「ひし。」
と引居(ひきすへ)、動かさず、船、海へ沈まんとす。
船頭、大きに色を失ひ、乘合(のりあひ)のもの共へ申(まうし)けるは、
「斯(かく)申(まうす)某(それがし)を始(はじめ)、各(おのおの)、何にても、海上へ抛入(なげいれ)給ふべし。其内(そのうち)、鰐(わに)の見入(みいり)たる人の抛入給ふ品を海中江引込(ひきこま)ば、其人、入水(じゆすい)いたさるべし。是は前度も有りし事にて候。」
と云。
乘合の者共、てん手(で)に題目・念佛・我國々の氏神を大音(だいおん)に念じ、或は菅笠・羽織・ゆかた・かたびら・手拭の類(たぐひ)、思ひ思ひに、なげ入(いれ)ける。
九郎兵衞、なげ入(いれ)し三尺手拭、中(なか)を一結(ひとゆ)ひ、なげ入しが、抛(なぐ)るとひとしく、海中へ引込(ひきこみ)ける。
殘る者とども、口々に申(まうす)樣、
「何國(なんごく)の御人(おひと)かは存不申候得共(ぞんじまうさずさうらえども)、前世宿業と思召(おぼしめし)、御入水の事、是非も無御座申(ござなくまうす)も御笑止、情なく候得共、御壱人にて數多(あまた)の人の命、御助けと申(まうす)。かく申内(まうすうち)に、今にも此船、くつ返り候へば、壱人も、命、たすかる者、是、なし。迚(とて)も御遁有間敷(おんのがれあるまじき)事なり。御覺悟、有(ある)べし。」
と、船頭・乘合の者ども、一同、申(まうし)ける。
九郎兵衞も、
「是非に及ばぬ事也。委細心得候。」
とて船のへさき江立出(たちいで)、高聲に、念佛、百遍斗(ばかり)、既に海へ飛入(とびい)らんとする折、なかば沈(しづみ)たる船、
「くつ。」
と、浮上(うきあが)りけるまゝ、船頭力を得、櫓(ろ)をはやめければ、難なく、岸に着(つき)たり。
各(おのおの)も悦び、九郎兵衞も、不思義の命、助かり、急ぎ、船より上(あが)るに、九郎兵衞、首に懸(かけ)たる血脈袋(けちみやくぶくろ)のひも、とけて、血脈、なし。
大勢乘合のもの、奇異の思(おもひ)をなしたり。
血脈の奇特(きどく)ゆへ、命、助(たすか)りたるに疑(うたがひ)なし。
此血脈は奧州會津若松、允殿(じやうどの)館成願寺(じやうぐわんじ)、決觀和尚の血脈なり。
元祿年中の事也。
[やぶちゃん注:酷似した前半の展開を持つ話に「宗祇諸國物語 遁れ終(は)てぬ鰐(わに)の口」がある。リンク先の私の電子化注を参照されたい。但し、そちらは後日談が悲劇である。
「血脈(けちみやく)」仏教用語。広義には、師が弟子や信徒に仏教の精髄を受継がせること、師弟の系譜という様態を言うが、ここは狭義で、密教や禅宗に於いて、師から弟子や信徒に戒を授ける際、その保証として師が与える正統な授戒の証しとしての証明書たる血脈図のこと。
「奇特(きどく)」神仏の持っている超人間的な力。霊験。一般に広く「非常に珍しく、不思議なさま」の意もあるが、ここは前者。私は後者(「言行や心がけなどが優れており、褒めるに値するさま」の意もある)の場合は「きとく」と分けて読むことにしている。
「會津塔寺(たふじ)」現在の福島県河沼郡会津坂下町塔寺字松原にある真言宗豊山派金塔山恵隆寺一帯の旧地域名。この寺周辺(グーグル・マップ・データ)。
「鍋屋喜右衞門親(おや)、九郎兵衞」孰れも不詳。
「江州の、やばせ」矢橋(やばせ)。現在の滋賀県草津市の集落地名。ここから船に乗って対岸に達すると、東海道の近道になることから、古くから、琵琶湖岸の港町として栄えた。近江八景の「矢橋帰帆」でも知られる。この附近(グーグル・マップ・データ)。
「前度(まへど)」以前。読みは底本の編者ルビに従った。
「鰐(ハニ)の御崎」「鰐」は鮫(さめ)のことであるが、位置不詳。識者の御教授を乞う。「風間」風が止んでいることも指し、それでとってもよいが、ここは風の吹き具合の意で採っておく。その方が、沖合で船が(風があるのに)鰐に魅入られて止まってしまうというシーンがより生きると考えるからである。
「克(よく)」「良く」。
「御笑止」「笑いうべきおろかなこと・ばかばかしいこと」であるが、ここは寧ろ、『「そんな馬鹿な!」とはお思いでしょうが』という意味であろう。
「會津若松、允殿(じやうどの)館」現在の福島県会津若松市に所在した城館。中世に会津領主であった蘆名氏の有力家臣松本氏の居館の一つであった。宝徳三(一四五一)年に蘆名氏家臣松本右馬允通輔が築いたとされる。現在は公園化され、会津五薬師の一つである館薬師堂が建つ。福島県会津若松市館馬町内。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「成願寺」不詳。
「決觀和尚」不詳。
「元祿」一六八八年から一七〇四年まで。]
« トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) 二兄弟 | トップページ | 老媼茶話巻之三 酸川野幽靈 »