トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) 心足らへる人
心足らへる人
若い男が都大路を、飛跳ねる樣に急いで行く。ぴちぴちと身輕に、眼を輝かし唇に一人笑ひを浮べ、さも愉快げに顏を上氣させてゐる。打見る所、全身これ滿悦といつた風だ。
一體どうしたと言ふのか。遺産でも轉げ込んだのか。健康と滿腹の悦びが、五體を躍り𢌞つてゐるだけの事か。もしや又、美しい八叉十字章を、頸玉に掛けて貰へたのか。あこがれの波蘭王スタニスラフを。
否、彼は友達の惡口を考へ出した。それを一生懸命に言ひ觸らした。さてその惡口を、別の友達の口から聞いて、今度は本氣でさう思ひ込んだのだ。
ああ今、この前途多望な可愛い男は、何と心滿ち足り、善人でさへあることぞ。
一八七八年二月
[やぶちゃん注:訳者註。『あこがれの波蘭王スタニスラフ 當時の文官勳章三種(併せて十一等)のうち、最も低いスタニスラフ勳章(これに三等ある)と、あこがれの波蘭王スタニスラフ・ポニヤトーフスキイを掛けた洒落』。老婆心乍ら、「波蘭」は「ポーランド」と読む。この Stanisław
August Poniatowski(スタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキ 一七三二年~一七九八年)はポーランド・リトアニア共和国の最後の国王(在位は一七六四年~一七九五年)。この「あこがれの」というのは以上の注では世界史選択者でない私には全く判らぬので、少し調べて見た(以下の下線はやぶちゃん)。平凡社「世界大百科事典」には、彼は『ポレシエ地方』(現在の白ロシア共和国領)『にあったチャルトリスキ家の領地ボウチン(ブジェシチ・リテフスキの近く)に生まれ』ているが、彼の『父は大貴族サピエハ家の庶子として生まれ』、一七二〇年に『チャルトリスキ家の娘と結婚』、その六『番目に設けた子どもがスタニスワフであ』った。『入念な教育と西欧旅行で啓蒙思想を身につけ』、『チャルトリスキ家の尽力で』一七五五年に『リトアニア大侯食膳担当官(勲章に似た意味をもつ名目的な肩書)に任命され』、さらにこの年から翌年にかけては、『イギリス大使館の書記官と』もなったとあり、ウィキの「スタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキ」によれば、その後、彼は『ロシア宮廷で後に女帝エカチェリーナ』Ⅱ『世となるエカチェリーナ・アレクセーエヴナ大公妃と知り合った。エカチェリーナはこのハンサムで有能な若いポーランド貴族に入れ込み、他の愛人たちをすべて捨ててしまうほどだった。スタニスワフとエカチェリーナとの間には娘のアンナ』『まで生まれたが、スタニスワフは』一七五九年、『ロシア宮廷の陰謀事件に巻き込まれて帰国せざるを得なくなった』。しかし、三年後の一七六二年、『ロシア宮廷でのクーデター』『によってエカチェリーナ』Ⅱ『世が即位し、その直後にポーランドでアウグスト』Ⅲ『世が没すると、女帝は元愛人のスタニスワフを王位につけてポーランドへの影響力を強めようとした。派遣されたロシア軍を後ろ盾にしたチャルトリスキ家の「ファミリア」がクーデタによって政権与党となり』、一七六四年九月七日に三十二歳の『スタニスワフがワルシャワ郊外のヴォーラでポーランド・リトアニア共和国の国王に選出された。スタニスワフは先代の』二『人の国王の名前を採って「スタニスワフ・アウグスト」と名乗った』。但し、『チャルトリスキ家は』、『スタニスワフが自分たちをないがしろにして国政を運営していくことをよく思わなかった。スタニスワフは「ファミリア」の改革構想を基本にした経済改革に着手したものの』、一七六六年に『伯父たちと決裂した後は改革は進まなかった』。一七六八年には『ポーランド・リトアニア共和国は法的にロシア帝国の保護国になった。保護国化に反対する貴族たちはバール連盟を結成し、フランスやオスマン帝国の支援を得てロシア軍との戦いを始めた。バール連盟は』一七七〇年十月に『親ロシア派のスタニスワフを国王と認めないと宣言したため、スタニスワフはロシア軍に対する支持をつらぬいた。翌』『年、スタニスワフは連盟の参加者たちによってワルシャワ郊外で一時的に誘拐され、軟禁状態におかれている』。一七七二年、『スタニスワフの抗議もむなしく第』一『次ポーランド分割が行われ、共和国の領土・人口のおよそ』三分の一が『失われた。国王はマグナート』(magnat, magnate:ヨーロッパにおいて血筋や富などによって社会的に高い地位にある人物や貴族を指す語)『たちの容赦のない非協力的な態度に直面して、何の対策も講じられなかった。こうした状況にあって、スタニスワフは領土分割の黒幕であるロシア大使オットー・マグヌス・フォン・シュタッケルベルク伯爵(Otto Magnus von Stackelberg)に依存せざるを得なくなっていった』。『一方で、スタニスワフは文化や教育に関する政策では共和国に大きく貢献していた。国王は』一七六五年に『騎士学校(School of Chivalry)を創設した。同校は共和国に奉仕するエリートの育成を目指すもので、タデウシュ・コシチュシュコらを輩出した。また』一七七三年、『スタニスワフは世界で最初の国家教育省である国民教育委員会(Commission of National
Education)を設立している。スタニスワフはすでに』一七六五年から『ポーランドにおける啓蒙主義を牽引する週刊新聞『モニトル』(Monitor)紙を』も『発行していた。国王主催の木曜晩餐会(Thursday dinners)は、首都における最も重要なサロンの一つだったし、またワルシャワ国立劇場(National Theater, Warsaw)を設立したのも彼であった』。一七八三年乃至一七八四年、『スタニスワフは愛人エルジュビェタ・グラボフスカ(Elżbieta Grabowska)と秘密結婚した。エルジュビェタは元はヤン・イェジ・グラボフスキという貴族の妻であったが、秘密結婚の前にスタニスワフとの間に何人かの子供をもうけていた』。一七八八年から一七九二年まで開催された四年議会『(Four-Year Sejm)では、スタニスワフはそれまで対立していた愛国派(Patriotic Party)の人々と手を組むようになり、両者は協力して』一七九一年、「五月三日憲法」の『制定にこぎ着けた。憲法の制定過程で、共和国の世襲王制への移行が決まると、スタニスワフは自分の一族をポーランドの世襲王家にしようと考えたが実現せず、先代の国王アウグスト』Ⅲ『世の孫であるザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグストが王位継承者に選ばれた』。『まもなく、憲法の廃棄を求めるタルゴヴィツァ連盟が結成された。連盟はエカチェリーナ』Ⅱ『世に協力を要請』、一七九二年五月に『ロシア軍はポーランド・リトアニア共和国内に進軍し、ポーランド・ロシア戦争(Polish-Russian War of 1792)が開始された。スタニスワフがフーゴ・コウォンタイ(Hugo Kołłątaj)らの助言を受け入れてタルゴヴィツァ連盟に参加すると、ポーランド国王軍の士気は衰え、それまで国王軍を指揮してきたタデウシュ・コシチュシュコや国王の甥ユゼフ・アントニ・ポニャトフスキ公爵による奮戦も無駄に終わってしまった。戦争はポーランド側の敗北に終わり、新憲法は廃止され、翌』『年にはロシアとプロイセンによる第』二『次ポーランド分割が敢行され』、一七九五年十月に第三次『ポーランド分割が行われると同時に、ポーランド・リトアニア共和国は消滅した』。一ヶ月後、『スタニスワフは強制的に退位させられ』、『サンクトペテルブルクへと居を移し、半ば監視状態に置かれながら、ロシア政府に多額の年金を支給されて余生を送った』とある。何を以って「あこがれ」というかは人それぞれであるが、彼の以上の人生に「あこがれ」を抱く若者は確かにいたであろうとは思う。]
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