トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) キリスト
キリスト
自分がまるで子供になつて、天井の低い村の教會にゐる夢を見た。古びた聖像の前に細い蠟燭が幾本か、ちらちらと赤い舌を動かしてゐる。
その炎の一つ一つは、虹のやうな暈(かさ)を着てゐる會堂の中はぼんやりと薄暗い。が、多勢の人々が私の前に立つてゐる。
みな紅毛の、百姓頭ばかりだつた。それが時とともに、搖れたり下つたり、また上つたりするやうな、そよそよと渡る夏の微風に靡く、重い麥の穗に似てゐた。
不意に誰かしら、後の方から步み寄つて、私と並んで立つた。
私は振向いて見なかつたが、蟲の知らせでその人こそキリストだと覺つた。
感動や好奇心や恐怖や、色々な氣持が私の胸を一杯にした。
私は思ひ切つて、隣りの人の顏を見た。
當り前の顏だつた。そこらの人の顏とよく似た顏だつた。物靜かな眼でまじまじと、稍〻上を見てゐる。唇は閉ぢてゐるが、強く結んでゐるのではなくて、下唇のうへに上唇が休んでゐる樣に見える。短い顎髯が二つに分れてゐる。兩手は胸に組合はせて、ぴくりともしない。着物は皆と同じである。
「これがキリストで堪るものか」と私は思つた、「こんな平凡な、當り前の男が。そんな事があるものか。」
私は外方(そつぽ)を向いた。けれど。その平凡な男から眼を外らさぬ中に、並んでゐる男は矢張りキリストなのだと感じた。
私はまた勇氣を出して振返つた。そして又も、普通の人間と少しも變らぬ平凡な顏を見出した。ただ見知らぬだけである。
すると急に悲しくなつて眼が覺めた。そしてやつと、普通の人間と少しも變らぬ顏こそ、キリストの顏なのだとさとつた。
一八七八年十二月
[やぶちゃん注:「靡く」「なびく」。
「これがキリストで堪るものか」の「堪る」は「たまる」と読む。「溜まる」と同語源で、「こらえる・がまんする・保ちつづける」であるが、「そんことになったら、たまったもんじゃない!」などと下に打消表現を伴って用いることが殆んどである(ここも反語による否定表現)。「こんな平凡な顏の輩(やから)がキリストであってたまるもんか!」の意である。]
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