尾關忠吉
出羽國最上の御城主鳥井左京亮忠政、寛永五年辰九月五日、御年六拾弐歳にて卒去。御子鳥居伊賀守忠恆【左京亮と申す。】御代に尾關忠吉といふ者、有(あり)。此者、早業・はやばしりの大力也。坂東道三百里一日一夜に往來する。又、空飛(そらとぶ)つばめを出口にて技打(ぬきうち)に打(うつ)に、十に七ツ八(やつ)は切落(きりおと)せり。
當國岡山の八幡宮の御神前の手水鉢(ちやうずばち)は長谷堂山麓より人夫百人斗(ばかり)にて漸(やうやう)引來(ひききた)りすへけるが、ひずみたるまゝにて、すへ置(おき)ける。忠吉、或時、岡山へ詣でける折、此手水鉢のひずみたるを見て、件(くだん)の石鉢へ兩手をかけ、引直(ひきなほ)しけるに、さのみ、力を出(いだ)す樣にも見へず。
忠吉、殺生に出(いづ)るに、黑金(くろがね)の筋がね渡したる八尺餘りの棒を振(ふり)かたげ、深山幽谷江分入(わけいり)、しゝ・荒熊を追出(おひいだ)し、いか成(なる)嚴石岩山をも、すあしにて追懸(おひかけ)、壱、二町が程にて追詰(おひつめ)、うちひしぐ。
同家中に難波長門といふもの有。奧州寺泊りと云所より黑の駒の、ふとくたくましき、長(たけ)七寸(しちき)斗(ばかり)成(なる)一物(いつぶつ)の早走(はやばし)りの馬をもとめたり。飛(とぶ)事、追風(おひかぜ)の如し。しかも、くらの上、靜(しづか)にて、只(ただ)座せるがごとし。
難波長門は此馬に乘(のり)て、すはだなり。尾關忠吉は黑皮おどしの大鎧をかけ、草摺(くさずり)、長(なが)に着下(きくだ)し、冥官の甲(かぶと)・うは面(つら)の頰當(ほほあて)、かけ、紺地(こんぢ)に晒(サレ)かうべ付(つけ)たる大差物・四尺八寸の大太刀・三尺五寸の打刀(うちがたな)・九寸五分の鎧通し・七寸五分の右ざし・三ツ物四ツ物、取付(とりつけ)、三間柄(え)の六寸𢌞りの大身のやりを打(うち)かつぎ、天童が原に出(いで)て走りくらをするに、兩方、互に、
「さは。」
と聲を合(あは)せ、長門は諸鐙(もろあぶみ)を合せ、むちを打(うち)、ひた一さんに懸(かけ)をのる。
馬、しらあわをかみ、息をきりはせ、倒るゝに、忠吉は馬に先立(さきだつ)事、一町餘りなり。
加樣(かやう)にたぐひすくなき勇士たりといへども、大勇血氣のくせとして、人を人ともおもわず。狼戾(ラウレイ)にして禮義を知らず、我まゝ無道にして上をかろしめ、國法にかゝはらず、辻切(つじぎり)・強盜・ばくちを好み、大酒婬亂にして疎狂(そきやう)也。百魔居士といふ者を師として、
「魔利支天(まりしてん)の法を行ふ。」
と云(いひ)て山深く分入(わけいり)、百日餘り、法を修(しゆ)す。誠は魔術を行ふ。平地に波をみなぎらせ、大龍・蚊(ミヅチ)をうかべ、午時(コジ)、暗夜(アンヤ)となし、人の目をくらまし、樣々の不思義をなす。
家中の若侍、大勢打寄(うちより)て雜談の砌(みぎり)、古今の軍(いくさ)物語をなし、勇士の噂・功の淺深・忠不忠・弓馬・鎗法・劍術の咄しをなし、おのおの其師をもてならひまなぶ處の藝能の勝劣を論ず。
忠吉、傍(かたはら)に有(あり)て空(そら)うそぶき、嘲笑(あざわら)ひ、進み出(いで)て申樣(まうすやう)、
「面々の學ぶ處、皆、是、兎兵法(ウサギへいはう)・畑水(はたすい)れんとて、まさかの時、用に立(たつ)ものにあらず。我(われ)いふ處、誠か僞りか、我(われ)、無刀・すはだにて、汝等は長刀・鎗・太刀得たる所の眞劍にて立合(たちあひ)、勝負をせよ。手とらまへにして、見すべし。」
といふなれども、誰(たれ)、たちあはんと云(いふ)者、なし。
依之(これによつて)、若きものども、忠吉を甚(はなはだ)にくみ、難波長門・早水大學・渡部源七・黑河内平七・香西助惣、五人のものども、頭取として、各々ひそかに談合し、
「渡部源七が宅へ忠吉を夜噺(よばな)しに招き、酒を進め、醉ふさしめ、殺さん。」
と、たくみ、源七方(かた)へ忠吉を、まねく。
忠吉、兼てかのもの共(ども)のたくみ、合點ながら、空知(そらし)らぬふりにもてなし、
「忝(かたじめな)し。」
と返事して源七方へ來(きた)る。
四人の者共、相伴(しやうばん)にて嘉肴(かかう)・美酒を以て進め、さまざま饗應、忠吉、あくまでのみくらい、嘲笑(あざけわらひ)、
「扨、今夕、召寄(めしよ)せられ、色々の御丁寧の御馳走に預り候。御深志(ごしんし)は、我に酒をしひのませ、醉(ゑひ)ふしたる處を殺さん、との御獻立(ごこんだて)にて候べし。然共(しかれども)それは大きなる御了簡違ひに候半(さふらはん)。隨分、御馳走にて、いたく、酒に醉(ゑひ)候。もはや、御暇(おいとま)申候。重(かさね)て御禮可申(おんれいまうすべし)。過分、過分。」
と立樣(たちざま)に首のあたりをなで𢌞し、
「およそ、此尾關忠吉兼宗が首を切らむもの、日本には覺へなし。十辨慶、百朝比奈が來(きた)る共(とも)、忠吉がくびは御免、御免。」
といふて、宿へ歸る。日頃の手並を知る故、みなみな、ふしめになり、一言の返答いふものもなく、おめおめとぞ、かへしける。
其後、又、早水大學かたへ、夜更、人靜りて、五人の者ども、忍びやかに打寄(うちより)、長門、申樣、
「さるにても、先夕、源七方にて忠吉を殺すべきを、何ものか、忠吉には知らせけん。不思義さよ。」
と、とりどり詮義をなし、長門、申樣、
「來る廿四日は岡野の大淨寺の夜鳴ぢぞうの緣日にて、近國より大勢角力(すまひ)の寄(よる)なれば、忠吉も、必(かならず)、見物に來(きた)るべし。其歸るさは夜に入(いる)べし。我等五人、甲(カブト)明神の杉森に待受(まちうけ)、忠吉を切殺し、面の皮をはぎ取(とり)、捨置(すておか)ば、定(さだめ)て犬狼(けんらう)のゑじきとなり、誰(たれ)知るものもあるまじ。此義、いかゞ。」
といへば、皆々、
「尤(もつとも)。然るべし。」
と一同す。
時に、いづくより來(きた)る共(とも)なく、片隅に立(たて)し屛風の影より、忠吉、
「先(せん)より是(これ)に罷在(まかりあり)。」
と、屛風、おしのけ、座の眞中へおどり出(いで)、手をたゝき、
「からから。」
と打笑(うちわらひ)、
「當家にて齒金(はがね)をならす骨切(ほねきり)の士達、每日每晩、御寄合(おんよりあひ)、をく床敷(ゆかしく)ぞんぜしに、忠吉壱人討(うた)んとて、げふげふしの御くわだて。角力見(すまひみ)の歸り迄も候はず、御望(おのぞみ)にて候はゞ、只今にても御勝負候へかし。此(この)忠吉は各々の小腕に及(および)候まじ。鬼と餓鬼とのすねをし、猫と鼠のこはされ成るべし。必ず、無用、無用。」
と嘲(あざけり)、居合(ゐあひ)の出口をはずしなから、後樣(ウシロざま)に六尺屛風はね越(こし)、行方なく成(なり)たり。
「門戸はきびしくしめさせ、戸障子、かたくさしたるに、いづくより來りけるぞ。」
と五人のものども、肝をつぶし、としてもかくしても、忠吉、討(うつ)べき樣(やう)なかりければ、五人の者を始(はじめ)其外に指をりの若侍、弐拾五人連判(れんぱん)一身して、神水(じんずい)を吞(のみ)、
「尾關忠吉、御家(おんけ)に召(めし)おかれば、弐拾五人の者ども、永代(えいだい)、御暇(おいとま)下さるべし。」
と強訴(がうそ)をする。
家老の各々、急に打寄(うちより)、密談し、
「勿論、弐拾五人のものども、恣態成(ほしいままなる)申(まうし)狀、上を恐(おそれ)ざる段、甚(はなはだ)不屆(ふとどき)千萬なりといへども、忠吉、おのれが大力強勇に高(かう)まんして、人を人とも思わず、上を輕しめ、國法を用(もちひ)ず、我儘無道也。依之(これによつて)加樣(かやう)に國の騷動となれり。弐拾五人の者共は御家代々御普代父祖忠功の者共の子弟也。忠吉壱人に弐拾五人の者ども、かへ難し。」
と、難波長門・早水大學兩人を召寄(めしよせ)られ、忠吉を討物(うちもの)に被仰付(おほせつけらる)。
兩人、承り當惑の體(てい)にみへて、暫く、御請不申有(うけまうさずあり)けるが、やゝ有(あり)て家老奧田七郎右衞門に向ひ、
「御意(ぎよい)の趣、奉畏(おそれたてまつり)候。御前、宜敷被仰上可被下(よろしくおほせあげられくださるべし)。扨、御自分樣へ申述(まうしのべ)候。忠吉事、近國にかくれなき大力強勇の荒者(あらもの)に候。我等、隨分、精入可申(せいいれまうすべく)候得共、萬ケ一の爲に候まゝ、佐藤次郎左衞門、後見に被仰付被下候得(おほせつけられくだされさふらえ)。」
と望みける。
七郎右衞門、右の趣、申上(まうしあげ)、則(すなはち)、次郎左衞門、後見に被仰付ける。
次郎左衞門、御請申上(おんうけまうしあげ)、私宅へ歸り、いそぎ、難波・早水を呼(よび)て申けるは、
「此度(このたび)、御兩所、忠吉討手(うつて)に被仰付候段、若き人には似合(ひあひ)たる義と申(まうせ)、御家代々、武功場數(ばかず)覺へ有る人多きうち、兩人御ゑらみに預(あづか)る段、御手がらにて候。かの忠吉が男ぶりは、むかしの畑(はた)六郎左衞門時能(ときよし)と申(まうす)とも、及(およぶ)まじく候。早走リの大力、大太刀つかひの名人、御兩所、懸合(かけあひ)の勝負、如何(いかが)と存(ぞんじ)候。我等、存候には、忠吉、此義、知らざる内に、某(それがし)宅へ忠吉を呼(よび)よせ申(まうす)べし。定(さだめ)て各(おのおの)も御存知も候半(さふらはん)、我等、祕藏仕(つかまつ)る「あらし山」と名付(なづけ)し黑の駒、長(たけ)八寸(やき)に餘り、人をも馬をも喰伏(くひふ)せ、踏(ふみ)ありき候へて、中中(なかなか)あたりへより候こともならず候。忠吉、此黑馬、達(たつ)て望(のぞみ)候。此馬の事にかこつけ、明曉(みやうげう)、忠吉を呼(よび)申べし。其節、御兩所、待請(まちうけ)、御打有(おうちある)べく申(まうす)。」
と、能々(よくよく)、難波・早水兩人としめし合(あひ)、其(その)明(あく)る朝、忠吉かたへ、手紙、遣わす。其手紙に、
「兼々御望み黑の大長馬(おほたけむま)、貴殿へ進(しん)じ可申(まうすべく)候。只今、御出(おいで)、ひとくら御乘被成(おのりならる)べし。朝飯(てうはん)、此方(こなた)にて申付(まうしつけ)候。」
と、いゝ遣(つかは)す。
忠吉、手紙をみて、大きに悦び、使(つかひ)とうちつれ、來(きた)る。
折ふし、五月雨(さみだれ)ふり出(いだ)しければ、袴のもゝ立(だち)高く取(とり)、からかさをさし、なわをの下駄をはき、大太刀、十文字にさし、供をもつれず、只、壱人、次郎左衞門かたへ來り、ものもふを乞(こひ)、案内をいゝ入るゝ。
取次のもの、立出(たちいで)、玄關の戸をひらき、
「御はゐり候へ。」
といふ。
忠吉、玄關の雨落(あまおち)へ、からかさをしぼり、柱に立(たて)かけ、座敷へ上(あが)る。
此時、難波長門・早水大學兩人は、よそより來(きた)る若黨使(づかひ)のふりをして、すげ笠をかぶり、紙合羽(かみがつぱ)を着、後ろ向(むき)に立居(たちゐ)たりけるば、忠吉、内へ入(いる)を見て、兩人、すげ笠・合羽をぬき捨(すて)、刀を拔(ぬき)、
「上意ぞ。」
とこと葉をかけ、切(きつ)て懸る。
忠吉、
「きつ。」
と振(ふり)かへり、
「心得たり。」
と四尺弐寸の大刀・はゞ弐寸五分・重ね八分有る、高木彦四郎貞宗が打(うち)し鐵棒の樣成(やうなる)大太刀、稻づまのごとく引(ひき)ぬいて、眞先(まつさき)に進みし難波長門を、天窓(あたま)くだし拜打(おがみうち)に打付(うちつけ)たるに、長門も首を綴(チヾメ)、太刀をあわせ、請(うけ)はして、請(うけ)たれども、太刀つば、元より打(うち)おられ、頭より鼻ばしら・おとがひ・胴腹迄、眞二ツ、から竹割(たけわり)に切(きり)わられ、餘る太刀にて、脇差の柄を、つばもとより、打(うち)をる。
長門は二ツに成(なり)て弓手(ゆんで)妻手(めて)へ、さばけたり。
大學、是を見て、すこしひるむ處に、忠吉、刀、取直(とりなほ)し、橫なぐりに腰のつがひを胴切(どうぎり)に切(きり)ければ、首より上は前へ倒れ、腰は後ろへころびける。
次郎左衞門、玄關に立出(たちいで)、是を見て、
「忠吉、骨折(ほねをり)也。一息つゐて、我と勝負をせよ。其方を討物(うちもの)に被仰付(おほせつけ)たる本人は、我也。」
と名乘懸(なのりかか)る。
忠吉、是を聞(きき)て、しゝ・熊の荒(あれ)たるごとく、表もふらず、大太刀、雷光のごとくひらめかし、眞一文字に切(きつ)てかゝる。
次郎左衞門は齋藤傳鬼入道が劍術を習ひ得て、小太刀の上手也。
弐尺五寸の刀、淸眼(せいがん)に取(とり)て、わざと忠吉を座敷の内へおびきいるゝ。
忠吉、血氣にまかせ、無二無三に切入(きりいり)、次郎左衞門と火花をちらし、切合(きりあひ)ける。
忠吉は六尺ゆたかの大男、四尺弐寸の大太刀にて座敷の内にて振(ふり)まわし、不自由なり。
忠吉、いらつて、しやにかまへし太刀、一足、後(うしろ)へ引(ひき)けん、上段に取(とつ)てのび上り、力まかせに次郎左衞門を、
「只、壱打(ひとうち)。」
と大聲あげ、打付(うちつく)る。
其太刀、鴨居にしたゝかに切込(きりこみ)、ぬかんぬかんとする隙(ひま)に、次郎左衞門、刀を振上(ふりあげ)、橫ざまに身をひらき、忠苦が頭(かしら)を面(めん)なりに切(きり)おとす。むくろは、つか、手を取(とり)はなし、四、五間、たゞ走り、金剛仁王をたをしたる樣(やう)に、大手をひろげ、足を踏み延ばし、座の眞中へ、うつふしに、
「どう。」
と倒れたり。
次郎左衞門、此時、五拾六歳の老兵(らうひやう)也。
「さしも鬼神のごとくなる忠吉、仁義の勇を知らず、血氣にまかせ、我儘無道をふるひ、犬死をせしこそ、無慙(むざん)なれ。」
と、皆人、おしみけると也。
[やぶちゃん注:「尾關忠吉」ネット検索を掛けると、確かに真言密教の秘法「摩利支天秘密一印隠行(おんぎょう)大法」(本来のそれは悪魔・外道などの目から自身の身を隠すことが出来る呪法とされる)という魔法を体得していた妖しい武士「尾関忠吉兼家」(本文で本人が「尾關忠吉兼宗」と称しているのと有意に似ている。「家」と「宗」は書写し誤りし易い字である)という名で一部ではかなり知られた怪人物のようである(私は未読であるが、菊池寛の歴史随筆などにも出るようだ)。本篇に語られる異様な足の速さや、相手に気づかれることなく室内にどこからともなく侵入し、瞬時に姿を消す辺りは、外道の邪法でイヅナ(くだぎつね)と呼ばれる妖獣を使役して奇体な法術を成す「飯綱(いづな)の法」辺りも心得ているように推察した。
「鳥井左京亮忠政」既出既注。
「寛永五年」一六二八年。
「御年六拾弐歳にて卒去」享年六十三。
「鳥居伊賀守忠恆【左京亮と申す。】」(慶長九(一六〇四)年~寛永一三(一六三六)年)出羽山形藩の第二代藩主。ウィキの「鳥居忠恒」によれば、初代藩主鳥居忠政の長男で父の死によって家督を継いだが、生来の病弱で、幕府の任は殆んど勤めることが出来なかった。寛永九(一六三二)年、徳川忠長の改易に伴い、その御附家老で忠恒の従兄弟であった鳥居忠房のお預かりを命ぜられている程度である。しかも、正室との間に嗣子がなく、異母弟の忠春とその生母とは『仲が悪かったことから、臨終の際に忠春を養子とせず、新庄藩に養嗣子として入っていた同母弟の戸沢定盛に家督を譲るという遺言を残した。しかしこれは、幕府の定めた末期養子の禁令に触れており、さらに病に臨んで後のことを考慮しなかったとして幕府の嫌疑を招いた』。『この事態に関して大政参与の井伊直孝が「世嗣の事をも望み請ひ申さざる条、憲法を背きて、上をなみし奉るに似たり」とした上で「斯くの如き輩は懲らされずんば、向後、不義不忠の御家人等、何を以て戒めんや」としたため、幕府は「末期に及び不法のこと申請せし」(『寛政重修諸家譜』)として、所領没収となった』。『もっとも、忠政と井伊直勝(直孝の兄)の代に正室の処遇をめぐって対立した両家の旧怨を知る直孝によって、鳥居家は改易に追い込まれたという説もある』。但し、『祖父元忠の功績を考慮され、新知として信濃高遠藩』三『万石を与えられた忠春が家名存続を許され』ている。
「はやばしり」早走り。
「坂東道三百里」「坂東道」は、現在の一里と同じ「大道(おおみち)」(「京道」「西国道」「上道」などとも称した)に対し、六町(約六百五十五メートル)を一里とする東国で使用された距離単位。「小道」「東道」「田舎道」とも呼ぶ。約百九十六キロメートル半。
「當國岡山の八幡宮」不詳。以下に「長谷堂山麓」との関係から考えると、現在の山形県山形市長谷堂にある八幡神社か。ここ(グーグル・マップ・データ)。ここは平地であるが、ここから南西部へ長谷堂地区は広がっておりそこは丘陵地ではある。
「すへけるが、ひずみたるまゝにて、すへ置(おき)ける」「据へけるが、歪みたる儘にて、据へ置きける」バランスがゆがんだままに据えられて(恐らくは手水鉢であるのに、水平でないために、水が零れ落ちて、あまり貯まらないような状態であったのであろう)、あまりに重いために、そのまま沈み込んで、動かせなくなっていたのである。
「すあし」「素足」。
「うちひしぐ」「打ち拉ぐ」。摑んで完全に押し押さえてしまう。
「難波長門」不詳。以下、人名は一応、検索するが、実在が確認できなければ、注自体を略す。
「奧州寺泊り」現在の新潟県長岡市寺泊。しかし、寺泊は越後で奥州というのはおかしい。
「長(たけ)七寸(しちき)」既注であるが、再掲しておく。地面から馬の首の付け根までの高さを「寸(き)」と言った。「七寸」は約一メートル四十二センチメートルを指す語。これは当時の馬の標準が「四尺」(約一メートル二十センチメートル)が標準で、それより寸刻みで、寸だけを言って、それを「き」と別称したものである。「八寸(やき)」以上の表現はなく、超弩級に大きな「大馬」は「八寸に余る」と呼んだ。後半、佐藤次郎左衛門の持ち馬の黒馬「あらし山」(嵐山か)が「「八寸に餘り」と出るのが、それである。
「一物(いつぶつ)」「逸物」(いちもつ)の意を含むと採ってかく訓じておいた。
の早走(はやばし)りの馬をもとめたり。飛(とぶ)事、追風(おひかぜ)の如し。しかも、くらの上、靜(しづか)にて、只(ただ)座せるがごとし。
「冥官」地獄の裁判官。閻魔を初めとする十王を指す。敵を威圧するための兜(かぶと)の鍬形の装飾。
「かけ」底本はこの「かけ」を下の「紺地(こんぢ)」と一語で採っているが、従わず、頰当てを「掛け」で読んだ。「かけ紺地」の意味が判らなかったからである。大方の御叱正を俟つ。
「晒(サレ)かうべ」「髑髏(しやれかうべ)」。これはもう、同じく威圧のデザイン。
「大差物」旗指物。幟(のぼり)。
「四尺八寸」刃渡り一メートル四十七センチメートル弱もある、物干し竿のような超弩級に長い(同時に太くなければ簡単に折れてしまう)大太刀である。
「三尺五寸」一メートル六センチメートル。
「打刀(うちがたな)」主に馬上合戦用の太刀とは違い、主に徒戦(かちいくさ)徒歩で行う戦闘、白兵戦用に作られた太刀に比して短く軽く振り回しやすい刀を指す。それでも「三尺五寸」は異様に長い。これは江戸初期であるが、江戸時代の武士が好んだ刀の平均長は二尺三寸前後で、六十九・六九センチメートルであった。この忠吉に長刀好み(長けりゃ絶対勝てるという馬鹿げた盲信)が彼の墓穴を掘ることとなるのである。
「九寸五分」二十八センチメートル弱。
「鎧通し」白兵戦で組打ちとなった際に相手を刺すための、厚く鋭い刀身を持った小刀。概ね三十センチメートルほどであったから、この刃渡りは標準的である。
「七寸五分」二十三センチメートル弱。
「右ざし」予備装備として右に差した鎧通しであろう。
「三ツ物」鎧の胴・袖・兜の総称。
「四ツ物」武士の七つ道具は具足・刀・太刀・矢・弓・母衣・兜を指すから、ここは騎馬武将のフル装備のうちのアクティヴな武器の謂いであろうから、刀・太刀・矢・弓と採っておく。
「三間」五メートル四十五センチメートル。実は「槍」と書いた場合は片刃で長さ七尺ほどのものを指し、「鑓」と書いた場合は両刃で二間以上ある「槍よ」りも長いものを指す。ここはまさに異様に長く太い奇体な鑓(やり)なのである。
「六寸」十九センチメートル弱。
「天童が原」現在の山形県天童市(山形市北部に隣接)附近か。
「走りくら」「走り較(くら)」べの謂いか。
「諸鐙(もろあぶみ)を合せ」「諸鐙を合わす」で、馬を速く駆けさせるため、左右の鐙で同時に馬の腹を強く蹴り打つことを言う。
「懸(かけ)をのる」不詳。「驅けを乘る」で、「速駆け」をさせた馬に「乗」って走ることか。
「しらあわをかみ」「白泡(しらあは)を嚼(か)み」。
「息をきりはせ」「息を切り馳せ」。
「一町」百九メートル。
「狼戾(ラウレイ)」欲深く、道理にもとること。
「疎狂」落ち着きがなく、常識外れなこと。
「午時(コジ)、暗夜(アンヤ)となし」真昼であっても、その魔術で以って、一瞬にして暗黒の闇夜のようにしてしまい。
「兎兵法(ウサギへいはう)」本当の兵法を知らずに下手な策略を廻らした結果、却って失敗すること。兎は「因幡の白兎」の故事に基づいたもの。生兵法(なまびょうほう)に同じ。
「畑水(はたすい)れん」「畑水練」畑の中で水泳の練習をするように、実際の役には全く立たない無駄な訓練を指す。「畳水練」とも言う。
「無刀・すはだ」刀を持たず、素肌、ここはまあ、普段の着衣以外には具足を装着せず、という謂いであろう。
「手とらまへ」武具や道具を一切用いずに、お前らを全部、素手で押さえつけてやる、というのである。一種の居合道も身につけている感じである。
「頭取」読みは「とうどり」でよかろう。首謀者(複数)。
「もてなし」応対し。
「十辨慶、百朝比奈」十人の武蔵坊弁慶でも、百人の朝比奈三郎義秀でも俺の相手にゃ、不足だわ! と言い放っているのである。実にイヤな奴ではある。因みに弁慶は流石に注はいらんだろうが、朝比奈三郎義秀(安元二(一一七六)年~?)は知らぬ人もおろうほどなればこそ言っておくと、和田義盛の子にして和田一族の超人ハルクである(鎌倉と六浦を繫ぐ朝比奈切通は彼が一夜にして作ったとするのは無論、伝承上の大嘘であるが、そう信じられるほどには怪力無双であった)。知らん御仁は私の「新編鎌倉志卷之七」の「小坪村」の条や、「鎌倉攬勝考卷之一」の同じ「小坪」の条(こちらは義秀がらみの挿絵二枚がある)、或いは和田合戦での彼の奮闘ぶりを描いた、やはり私の「北條九代記 千葉介阿靜房安念を召捕る 付 謀叛人白状 竝 和田義盛叛逆滅亡 〈和田合戦Ⅱ 朝比奈義秀の奮戦〉」を読まれたい。
「ふしめ」「伏し目」。
「岡野の大淨寺」不詳。
「夜鳴ぢぞう」「夜泣き地藏」。
「甲(カブト)明神」不詳。
「香西助惣」無論、不詳だが、読みは「かさいすけそう」と読んでおく。
「時に、いづくより來(きた)る共(とも)なく、片隅に立(たて)し屛風の影より、忠吉」「先(せん)より是(これ)に罷在(まかりあり)」「と、屛風、おしのけ、座の眞中へおどり出(いで)、手をたゝき」「からから」「と打笑」ふのは、この実録物の中で最も怪奇の高まりを見せるところで、ここまでのリアルな描写も細かく、非常に成功している。三坂春編、タダモノでは、ない。
「齒金(はがね)をならす骨切(ほねきり)の士達」「齒金(はがね)を」鳴「らす」のは彼(忠吉)が怖ろしくて歯の根も合わず、がちがちと震えている臆病侍の皮肉であることは判るが、「骨切り」が判らぬ。無駄な「お骨折り、ご苦労様」という皮肉か。だったら、「骨折」でないとおかしいだろうし、よく言う「肉を切らせて骨を截つ」に引っ掛けたというにしても台詞として上手くは私には解せない。識者の御教授を乞う。
「をく床敷(ゆかしく)ぞんぜしに」「奥床しく存ぜしに」。貴殿らの心奥(しんおう)に潜むものに強く心が惹かれ、さらによく知りたく思うておったところが、なんとまあ。
「げふげふし」「仰々(ぎやうぎやう)し」。
「各々の小腕に及(および)候まじ」貴殿らの弱っちい細腕なんどの手にて捕え得るようなものにては御座るまいぞ。
「鬼と餓鬼とのすねをし」「鬼と餓鬼と(同じ「鬼」がついていても怪力の「鬼」神と餓鬼道の下劣な糞のような存在である餓「鬼」)が脛(すね)をちょいと押し合うのと同じで、あっと言う間に貴殿らはぺしゃんこにされよう、といった謂いであろう。
「猫と鼠のこはされ成るべし」「こはされ」が判らぬが、意味は前と対句だから、おおよその見当はつく。「こはされが」「こは、され」などではないとすれば(それでは意味が私には採れぬ)、「壞(毀)され」か? さすれば、「猫が鼠を食う気もなく玩弄しては結局はその傷がもととなって鼠は死んでしまうように、貴殿らも犬死ならぬ猫死にでもない鼠死にということになろうぞ」というのであろう。――ああ、思い出すね、ルナールの「博物誌」の「猫」――『私のは鼠(ねずみ)を食わない。そんなことをするのがいやなのだ。つかまえても、それを玩具(おもちゃ)にするだけである。』『遊び飽きると、命だけは助けてやる。それからどこかへ行って、尻尾(しっぽ)で輪を作ってその中に坐(すわ)り、拳固(げんこ)のように格好よく引き締まった頭で、余念なく夢想に耽(ふけ)る。』『しかし、爪傷(つめきず)がもとで、鼠は死んでしまう。』(岸田国士訳・「博物誌 ルナール 岸田国士訳(附原文+やぶちゃん補注版)」参照)――あれだよ。
「無用」無益。
「居合(ゐあひ)の出口をはずしなから」意味不詳。早水や長門がすかさず居合いざまに刀を抜き打った、それの突き出されたそれ(「出口」(いでぐち)、刃の切っ先)を、ひょひょいと軽快にかわしながら、の謂いか?
「としてもかくしても」どうしようと、こうしようと、いっかな。
「連判(れんぱん)一身」「連判一味」。
「神水(じんずい)を吞(のみ)」読みは底本に従ったが、「しんずい」「しんすい」でも構わない。神前で誓いのしるしとして飲む水のこと。
「討物(うちもの)」主君より許された討伐の対象者という意味で、かく訓じた(底本にはルビはない)。そのような用法があるかないかは確認できなかったが、一般表現としての「うつもの」(行為として討ち亡ぼすべき者として公的に認可するということ)という読みならば、以下の助詞は「に」ではなく「と」が相応しいと考えたからである。
「佐藤次郎左衞門」無論、不詳であるが、その場にいないからには、家老レベルの者ではない。しかし、恐らくは剣術手練れの老家臣として知られ、長門や早水のような若き家士からも普段から一目置かれ、尊敬もされていた人物であったと読める。時代劇には欠かせない設定である。
「畑六郎左衞門時能」畑時能(はたときよし ?~興国二/暦応四(一三四一)年)は南北朝前期の武将。「太平記」巻二十二によれば,元は武蔵国住人であったが、後、信濃国に移住したといい、武芸全般に優れ、山野河海に漁猟したという、所謂、典型的な〈悪党〉(鎌倉後期から南北朝期にかけて、夜討・強盗・山賊・海賊などの悪行を理由に支配階級から禁圧の対象とされた武装集団。山伏や非人の服装であった柿色の帷子(かたびら)を着、笠を被って顏を覆い、特有の武具を駆使して博奕や盗みをこととし、荘園などの紛争がおこると、賄賂をとって一方に荷担しつつ、状況によっては平然と寝返るなどの奔放卑劣な活動を展開した)であった。北陸越前において、新田義貞の敗死後、南朝方の武将として一井(いちのい)氏政らとともに鷹巣城(現在の福井市高須町にあった)に拠って、守護斯波高経の軍と戦い、敗死した(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠る)。
「御兩所、懸合(かけあひ)の勝負、如何(いかが)と存(ぞんじ)候」佐藤次郎左衛門の実に冷静な推察が素晴らしい。真っ向から勝負を正式に告げて、斬り合いに及んだ場合は長門と早水の二人がかりでも、勝負は見えていると踏んでいることがはっきりと判る(事実、そうなる)。
「喰伏(くひふ)せ」噛みついて地に伏せさせ。
「袴のもゝ立(だち)高く取(とり)」既出既注であるが、再掲する。「股立ち」は袴の左右両脇の開きの縫止めの部分をいう。そこを摘んで腰紐や帯にはさみ,袴の裾をたくし上げることを「股立を取る」と称し、機敏な活動をする仕度の一つとされた。
「からかさをさし」「唐傘を差し」。
「なわをの下駄をはき」「繩緒(なはを)の下駄を履き」。
「ものもふを乞(こひ)」「物申(ものまうし)を乞ひ」か。訪問の挨拶をし。
「案内をいゝ」屋敷の建物内へ立ち入ることの許諾伺いの確認し。
「入るゝ」門内へ入った。
「雨落(あまおち)」「雨落(あまお)ち石(いし)」(「雨垂れ石」とも呼ぶ)のところ。雨垂れで地面が窪んでしまうのを防ぐために軒下に石を置き並べた箇所。
「四尺弐寸の大刀・はゞ弐寸五分」刃渡り一メートル二十七センチ、刃幅七センチメートル。
「重ね八分」「重(かさ)ね」(刀を棟(むね)の方から見た厚み)が約二センチメートル。因みに、刀を平らにして刃文を見る状態にした棟から刃先までの幅は「身幅」と称する。
「高木彦四郎貞宗」(?~元応元(一三一九)年?/貞和五(一三四九)年?)は鎌倉末期或いは南北朝初めまでの相模国の刀工。正宗の子或いは養子と伝えられる、相州伝の代表的刀匠(但し、現存する在銘刀はない)。
「天窓(あたま)くだし拜打(おがみうち)」これで太刀の振り斬り方を示したソリッドな表現と採った。刀の柄を両手で握って頭上に高く構え、相手の頭部頭頂に真っ向から一気に振り下ろす斬り方。
「請(うけ)はして、請(うけ)たれども」意味不明。前の箇所は全体が衍字か。それとも「忠吉が振り下ろした太刀を辛うじて受けはした、受けはしたけれども」の畳みかけた表現か。
「つば」「鍔」。
「おとがひ」「頤」。顎。
「から竹割(たけわり)」「唐竹割り」。
「餘る太刀にて、脇差の柄を、つばもとより、打(うち)をる」二の手を避けるためであろうが、唐竹割にした以上(それは比喩ではなく事実、「長門は二ツに成(なり)て弓手(ゆんで)妻手(めて)へ、さばけたり」なんだ! 体幹で左右に縦割りにされて、左右に半身が倒れたんだぜ!)、これはやらずもがなの実にイヤらしい無駄な仕儀である。
「腰のつがひ」「腰の番(つがい)」。背と腰との間、腰骨(大腿部の上)の所。
「首より上は」「首」はおかしい。「腰」では後と重なるから「腹」「胸」「臍」などの誤りであろう。
「其方を討物(うちもの)に被仰付(おほせつけ)たる本人は、我也」長門らは「上意」と告げており、事実、鳥居忠恒の許諾を受けている正真正銘の上意による誅伐であるわけだが、佐藤は上手い。こう言って、私怨のごとくに言い放ち、忠吉をわざと怒らせて冷静な判断力を減衰させているのである。
と名乘懸(なのりかか)る。
「しゝ・熊」「猪(しし)・熊」と採っておく。
「表」「面」。顔。
「齋藤傳鬼入道」戦国から安土桃山にかけての剣豪で天流剣術の創始者である斎藤伝鬼房(でんきぼう 天文一九(一五五〇)年~天正一五(一五八七)年)。ウィキの「斎藤伝鬼房」によれば、俗名は斎藤勝秀、或いは、忠秀。常陸国真壁郡新井手村(現在の茨城県筑西市明野)に生まれた。父が北条氏康に仕え、『小番衆(近習)であったことから、相模国の出身とされることもある』。『幼年より刀槍の術を好み、塚原卜伝に弟子入りして新当流を学んだ。一説には、卜伝の養父・塚原安幹(土佐守)の実子で早世した塚原安義(新右衛門)の門人であったが、破門されたともいう』。『通説では』、天正九(一五八一)年十一月のこと、『鎌倉の鶴岡八幡宮で参籠中に修験者と出会い、ともに術について語り合い、実際に試合して吟味などするうちに一夜が明けた。伝鬼が修験者の刀術、流名を尋ねると、修験者は黙って太陽を指さして立ち去った。このことから、覚えた秘剣に「天流」と名付けたという』。『諸国を修行しながら京に上ると、伝鬼の刀術が評判となり、朝廷から参内を命じられて紫宸殿において三礼の太刀を披露、判官の叙任を受けた。この』後、『入道して井手判官入道伝鬼房と称した。伝鬼房は羽毛で織った衣服を好んで着用し、その姿は天狗のようであったという。真壁に帰ると、下妻城主・多賀谷重経に教授したのをはじめとして、大名諸士の入門者が多かった』。この頃、『神道流の達人として知られ霞流』『を称した桜井霞之助の挑戦を受けて立ち合い、死闘の末に霞之助の惨死で決着した』が、『恨みに思った霞流の門人たちによって暗殺された』という。享年三十八。その最期は、『伝鬼房が弟子ひとりを連れた道中で霞流の門人数十人の待ち伏せにあった。囲まれたと悟った伝鬼房は、師匠を一人おいて去ることを拒む弟子を無理に逃がし、路傍の不動堂に隠れた。堂の四方から矢を射かけられ、伝鬼房は堂を飛び出して手にした鎌槍で矢を払ったが、防ぎきれず』、『全身に矢が突き刺さった。余力を奮い起こして戦ったものの、衆寡敵せず死亡したという』。『のち、この地に伝鬼房の怒気が残って奇怪事が起こったとされ、土地の人々が小社を建て』、『伝鬼房の霊を祀り、「判官の社」と呼ばれた。場所は真壁町(現桜川市)白井とされるが、社は現存しない』とある。
「小太刀」主に太刀の一種で刃長が二尺(約六十センチメートル)前後の刀(これを脇差と同義とする説もあり、以下の解説はそうしたものとなっている。ウィキの「小太刀」を参照されたい)を使用した剣術。但し、ウィキの「小太刀術」によれば、「小太刀術」と呼ばれるものの、『これは小太刀を用いる意味ではなく、打刀の長さより短い刀を用いることから、剣術を意味する「太刀」に小をつけたことに由来する語である。小太刀術の成立は脇差が用いられていた時代のため、具体的には脇差を用いる術である』とある。『稽古に使用する木刀の寸法は各流派により異なり、流派成立の際の脇差などの小刀の大きさが影響しているようである』『(小刀の長さは戦国時代は長かったが短小化していった』)。『小太刀術のみを専門にする剣術流派は少なく、通常は剣術の中に付属しているが、全ての流派にあるわけではない。
その多くは入り身を主体とし、柔術的な技法を含む場合も多い』。『中条流や、それより生まれた富田流の小太刀術が有名』とある。
「弐尺五寸」七十五・七五センチメートル。忠吉の太刀は「四尺弐寸」(百二十七センチメートル)であるから、十分の六弱しかない。
「淸眼(せいがん)」「正眼」。に取(とり)て、わざと忠吉を座敷の内へ
「おびきいるゝ」「誘き入るる」。
「六尺ゆたか」一メートル八十二センチの身長で、筋骨隆々。
「いらつて」「苛つて」。いらだって。
「しやにかまへし」「斜に構へし」。
「面(めん)なりに」体勢から見ても「真横(面)に」という意味であろう。
「むくろは、つか、手を取(とり)はなし、四、五間、たゞ走り、金剛仁王をたをしたる樣(やう)に、大手をひろげ、足を踏み延ばし、座の眞中へ、うつふしに」「どう」「と倒れたり」ここも怪異のクライマックス。「四、五間」は七・二八~九メートル強。
「次郎左衞門、此時、五拾六歳の老兵(らうひやう)也」藩主である鳥居忠恒の藩主就任(一六二八年)、彼の死(一六三六年)、佐藤次郎左衛門の小太刀の師斎藤伝鬼房の没年(一五八七年)に、この数え五十六歳を重ね合わせると、この話柄が事実とするならば、忠恒が藩主になった直後ぐらいの時代設定としないと無理がある。]