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2017/11/21

老媼茶話巻之五 猪鼻山天狗

 

     猪鼻山天狗

 

 蒲生(がもう)貞秀、剃髮し給(たまひ)て知閑(ちかん)と云(いふ)。此人、歌道にも達し、「新つくば集」にも入(いり)たり。

 此知閑、或時、甲州猪鼻山に陣し給へる時、此所、聞ゆる魔所にして天狗の所爲と見へ、山の上より、大石、數多(あまた)、知閑の陣へ落し懸(かけ)、山の上にて大勢の聲にて笑(わらふ)音(をと)しけり。知閑、申されけるは、

「郭璞(クワクハク)が山海經(せんがいきやう)に『陰山に獸有(あり)。其形、狸のごとし。首白く、好(このみ)て大蛇を喰ふ。名付(なづけ)て「天狗」と云(いふ)』といへり。又、順(シタガウ)が「和名集」に、『あまのくつね』と和訓して獸の部に入れり。我、英雄を以(もつて)、けものゝ爲に陣をさはがさるゝ事、甚(はなはだ)心外の至りなり。むかし、此山に大頭(ダイヅ)魔王住(すみ)て人を喰(くらふ)。空海、是を巖窟(ガンクツ)にかり込(こみ)て魔王堂といふ有(あり)。此所へ、人、行(ゆく)時は、必(かならず)、きちくの爲に殺され、生(いき)て、弐度、歸りし者なし、といへり。誰(たれ)かある、此山へ分入(わけいり)、委敷(くはしく)見屆(みとどけ)、歸るべし。」

との玉ふこと葉の下より、蒲生家無雙の大力、土岐大四郞元貞といふ者、進み出、

「某(それがし)、見屆、罷歸(まかりかへ)り可申(まうすべし)。」

とて、白あやたゝんで鉢卷にし、黑原の鎧を着、白柄(しらえ)の長刀、杖につき、人も通はぬ山中蔦を引(ひき)、木の根をよぢ、がゞたる岩角をよぢ登る。

 魔王堂近く成り、弐丈斗(ばかり)の大山伏、柿の衣を着て、鐵棒を杖として、踏反(フミゾリ)かへり、雷のごとくなるいびきをかき、ねぶり居たり。

 元貞、長刀の石突(いしづき)にて山伏を突起(つきおこ)し、

「いとゞさへ道せばくして行步(かうほ)不自由なるに、道をふさぐ事、きつくわいなり。早々、起去(おきさ)れ。」

といふ。

 山伏、あくびをなし起上(おきあが)り、

「汝は先(まづ)何ものにて我(わが)醉眠(すゐみん)をさまたぐる。其名を名のれ、きかん。」

といふ。

 大四郞、聞(きき)て、

「我は蒲生家代々の家の子に土岐何某(なにがし)と云(いひ)、日本無雙の剛(かう)の者也。」

 山伏が曰(いはく)、

「汝、左樣の兵(ツハモノ)ならば、我と勝負をなしてんや。」

「是(これ)こそ望(のぞみ)、幸(さいはひ)よ。」

と大長刀を取直(とりなほ)し、山伏と渡し合(あひ)、火華(ひばな)を散(ちら)し切結(きりむす)ぶ。

 山伏、如何(いかが)したりけん、元貞が長刀の切先(きつさき)に懸(かけ)られて弐に成(なり)て倒れたり。

 元貞、山伏が首を切らんとするに、忽チ大きなる鳶となり、杉の梢に飛上(とびあが)り、虛空をさして逃去(にげさり)けり。

 もと貞、それより魔王堂に登り、緣に腰を懸(かけ)、四方を見𢌞すに、堂は、軒、崩落(くずれおち)、壁、かたぶき倒れ、誰(たれ)、取立(とりたつ)る者もなし。

 げにも天狗・まおうの住(すめ)るとみへ、牛馬人畜の死骨共(ども)、庭に抛(なげ)ちりて、人の手足、爰(ここ)かしこに、ちり亂(みだれ)たり。

 魔王堂のもんぜんに破れはてたる仁王門有けるが、丈(タケ)弐丈斗(ばかり)成る仁王、此門より戶を押開(おしひ)らき、元貞が前に來り、眼をはり、力足(ちからあし)を踏(ふみ)て、

「いかに客人(まらうど)、角力(すまひ)壱番、取るべし。相手に立(たち)玉へ。」

と云。

 もと貞、聞て、

「望(のぞみ)ならば參らん。」

と甲(かぶと)の結(ヲ)を强く〆(しめ)、鎧、ゆり合(あひ)、件(くだん)の仁王と四手に引組(ひつくみ)、捻合(ねぢあひ)しが、元貞、力や強かりけん、仁王を小脇にかいばさみ、强くしめて、橫樣(よこざま)に抛倒(なげたふ)すに、元より、年久敷(ひさしく)風雨にされたる仁王なれば、五體、ちりぢりに碎(くだけ)たり。

 元貞、

「さも候はん。扨、こり候得。」

と、息つき、休み居たり。

 かゝる所に亦、奧山より、すざましき聲にて、おめきさけびて來(きた)るものあり。

 元貞、内陣に隱(かくれ)て是をみるに、一丈餘りの鬼姥(おにばば)、白毛、面背(メンハイ)に振亂(ふりみだし)、眼(まなこ)、鏡のごとく、口、耳元迄さけたるが、左の肩をはだぬぎ、數十(すじふ)の毒蛇を腕にからみ、右の手にて毒蛇を、つまみ切(きり)、つまみ切、是を喰(くらひ)ながら爰(コヽ)へ來り、仁王が骸(むくろ)の邊(あたり)に彳(たたずみ)て、

「哀(あはれむ)べし。萬里鐵面鐵胴の仁王、人を喰(くら)はんとて、却(かへつ)て人に五體を破られたり。」

と云。

 時に、仁王が首、物云(モノイヽテ)曰、

「我、人をあなどりて如此(かくのごとく)にせられたり。我、ちりぢりになりし五體、集吳(あつめくれ)よ。今、一(ひと)勝負。」

といふ。姥(ばば)、聞(きき)て、走り𢌞り、爰かしこにちり亂れたる仁王が手足、取集(とりあつ)めければ、仁王がむくろ、おどり起(おき)、兩手を以て首を押(おし)すへ、力足を踏(ふみ)て元貞が方へ歩行(ありきゆく)。

 元貞、是をみて、長刀、取延(とりのべ)、仁王が首、打落(うちおと)せば、仁王が首は谷底へ、むくろは姥(ばば)とつれて、奧山へにげ入(いり)たり。

 時に、内陣、震動して、丈六の阿彌陀佛、山河もひびく大音(だいをん)にて、

「我、しゆつかうの期より此所に跡をたれ、衆生さいどの方便。見よ見よ、出世の曉(あかつき)を待(まつ)といへども、耳に讀經の聲聞(きか)ず、香花(かうげ)手向(たむく)る人もなく、物淋敷(ものさびしき)夕暮に、大頭(だいづ)魔王の進(すすめ)によりて自然(おのづ)と人を喰習(くらひなら)へり。形は、にうは・にんにくの姿、心は恐しき鬼の肝、腹は大蛇の腹と成(なる)。幸(さいはひ)、今宵の默心なし。いかゞせんとおもひけるに、客人(まらうど)の來り玉ふ。天の助けを得たり。さらば夫(それ)へ參らん。」

と、臺座をゆるぎをり、元貞に、とりかゝる。

 元貞、見て、

「佛は人を助(たすく)るこそ道成に、却(かへつ)て人を喰(くら)はんと云(いふ)は何事ぞ。」

と、掌を握り、佛の胸板を突(つき)て、あをのけに突倒(つきたふ)す。

 佛、地に倒れて、甚(はなはだ)、にをひけり。

 元貞、足を上(あげ)、佛の橫腹を踏破(ふみやぶ)るに數拾のがいこつ、ころび出(いづ)。

 よろぼひ立(たつ)て、元貞にかゝりけるを、長刀の柄を以(もつて)、散々に打碎(うちくだく)に、がい骨の割(われ)、數(す)百萬の蝶と成(なる)。

 元貞が甲(かぶと)・面頰(めんぼほ)の合(あはせ)・わたがみのはづれ・草ずりのすき間より、むらがり入(いり)、飛付(とびつき)て面(つら)を打(うつ)事、大雪の吹(ふぶく)ごとく、目、見上(みあぐ)る事、不能(あたはず)、東西、辨(わきま)へがたかりければ、元貞、一足を出(いだ)し、山下へ走り行(ゆき)けるに、傍(かたはら)の岩の上に、先にきられし仁王の首、有けるが、元貞をみて、飛(とび)て懸り、胸板に喰付(くひつき)ける。

 元貞、仁王が首を摑(ツカ)んでばんじやくへ抛付(なげつけ)たるに、こまりのごとくにはづみ上り、いずくともなく、飛失(とびうせ)たり。

 元貞、猪鼻の陣中歸り、件(くだん)の有增(あらまし)、事細(ことこまか)に知閑へ申上(まうしあげ)けるに、虛空、震動して、件の仁王が首、車輪のごとく光り、知閑の陣へ落(おち)ける。

 其ひゞき、百(もも)いかづちのごとく、暫(しばし)ちやうやの闇となる。

 やゝ有(あり)て、雲、晴(はれ)て、金兎(きんと)かゞやき出(いで)、あたりをみるに、仁王が首はなく、こんようと光りかゞやき、天女、壱人、金鳳座をいだき、側(そば)に座し居たり。

 知閑、刀に手を懸(かけ)、天女を白眼(ニラミ)、

「汝、何ものぞ。其(その)正體を顯(あらは)せ。」

と、いふ。

 天女、聞て、

「我は是、唐の玄宗皇帝の后(きさき)、楊玄げんが娘、楊貴妃也。玄宗皇帝とは、夙(つとに)、生の契り深くして、生(き)かはり死(しに)かはり、世々、夫婦の契りを結ぶ。玄宗、又、此山の天狗と成(なり)給へば、我も又、隨ひ來(きた)れり。然るに汝等(ら)、大凡不淨(だいぼんふじやう)の身を以(もつて)猥(みだ)りに我(わが)住(すむ)山へ入(いり)、ほしいまゝに踏(ふみ)あらす。早々、此所を立去(たちさ)らずんば、一人も生(いき)て返すまじ。覺悟せよ。」

と云。

 知閑、いかつて、拔打(ぬきうち)に天女の首を打落(うちおと)す。

 天女、切られて、うつふしに倒れけるを、座中の兵、能(よく)見るに、天女にはなくして、土岐大四郞元貞、二つに成(なり)て伏居(ふしゐ)たり。

 皆々、大きに驚く所に、又、山上に數萬(すまん)の聲にて同音に、

「どつ。」

と笑ふ。

 知閑の陣中山上より大石を抛打(なげうつ)事、雨あられのごとく、辻風おこり、天、闇(くら)く、山嵐、吹來(ふきいた)り、陣中にかざり立(たて)し鑓(やり)・長刀(なぎなた)・旗印・馬印、散々に吹(ふき)ちらしければ、さしもの知閑入道、ほうほう、陣ばらひして、急ぎ、本國へ歸り玉ひしとかや。

[やぶちゃん注:エンディングで大活躍した土岐元貞(本文では「土喜」と表記する箇所が多いが、編者の判断に従い、「土岐」で統一した)があっけなく首を斬られてしまうのは、なかなか想定外で面白い。怪談としての各個の出し物に新味はないものの、玄宗と楊貴妃まで出てくるテンコ盛りの設定と、最後の知閑の敗走という展開の意外性で全体がしっかりと支えられている、武辺実録風に仕立てた佳品とは言えるように思う。

「猪鼻山」不詳。山梨県内にはこの名称の山は現在はないように思われる。「ゐのはなやま」と訓じておく。

「蒲生貞秀」室町時代の武将で歌人としても知られた蒲生貞秀(文安元(一四四四)年~永正一一(一五一四)年)。蒲生氏十三代蒲生秀綱の実弟で、和田氏を継いでいた和田政秀(秀憲)の子であったが、男児のなかった伯父秀綱の娘を娶って、蒲生氏の家督を相続、第十四代当主となると同時に蒲生貞秀と名乗った。本文にある通り、後に出家して「智閑・知閑」と称した。ウィキの「蒲生貞秀」によれば、『応仁の乱においては東軍方であり、義兄弟の小倉実澄(お互いの妻が姉妹)などと行動を共にした』。『近江南部の有力国人として室町幕府と結びついており』延徳三(一四九一)年に於ける第二次『六角高頼征伐(延徳の乱)の際に』第十『代将軍足利義材』(よしき)『から蒲生郡散在所職名田以下の所領の安堵を受けた。しかし、明応の政変で義材が失脚すると』、十一『代将軍足利義澄と六角高頼との間で和議が成り、しだいに高頼は南近江で勢力を盛り返し』、明応四(一四九五)年に『高頼が近江守護に返り咲くと』、『蒲生氏も南近江の勢力として』、『実質的に六角氏の組下に属すことにな』った。『同年に貞秀は』五十二『歳で出家。長男の秀行に家督を譲り』、『智閑(知閑)と号する。また、次男高郷を高頼に出仕させ』、三男には『音羽姓を名乗』らせ、『細川氏へと仕えさせた』。明応六(一四九七)年には、『美濃で起きた先の船田合戦で高頼が石丸利光を支援した報復を受け、貞秀ら蒲生家は六角方として斎藤妙純(利国)、京極高清らと交戦している』。文亀二(一五〇二)年に『起こった高頼と伊庭貞隆との間の抗争でも高頼を支持』したが、『当初は高頼側が優勢だったものの』、『伊庭氏が細川政元が派遣した赤沢朝経の支援を得て反撃に出ると、逆に高頼側は馬淵城、青地城、永原城らを次々と失』い、『窮地に立たされる。すると高頼は観音寺城を捨て、貞秀の居城である音羽城に入城し、音羽城は伊庭貞隆と赤沢朝経に包囲・攻撃された』ものの、『持ちこたえ、高頼が折を見て政元との講和を締結させると』、『伊庭方も戦いを継続できず』、『兵を退いた』。『六角氏に属した働きが多くなった蒲生家であるが』、『幕府奉公衆のような働きもしていたようで』、永正七(一五一〇)年には復権した第十代将軍足利義稙』(よしたね)『(義材から改名)の要請を受けて、先の将軍である足利義澄を匿った九里信隆の守る水茎岡山城攻めに幕府軍として参加している』。『蒲生氏の名籍を継いでいた長男秀行は』永正一〇(一五一三)年に貞秀に先立って亡くなってしまい、『次男高郷が蒲生家の家督を強く望んだが、貞秀は秀行の子で自身の嫡孫である蒲生秀紀を後継に据えた。しかしながら』。『後年になって遺恨となり、秀紀と高郷の間で家督争いが生じている』。『歌人としても知られており』「新撰菟玖波集」(しんせんつくばしゅう:室町後期の准勅撰連歌撰集。全二十巻で収録句数は凡そ二千句。大内政弘の発願によって宗祇を中心として連歌師猪苗代兼載(けんさい)・宗長・肖柏らの協力によって撰集され、明応四(一四九五)年に成立した。心敬・宗砌(そうぜい)・後土御門天皇・専順・大内政弘など約二百五十人の句を集めた有心連歌の集大成。ここはウィキの「新撰菟玖波集」に拠った)に五首が『選ばれているほか』「蒲生貞秀詠草」「貞秀朝臣集」がある。『個人的には飛鳥井家の雅親、雅康、雅俊、三条西実隆などと交わり、連歌師の宗祇・宗碩とも交流を持った』。『出家した後も隠居せずに戦場に出向いており、阿弥陀仏を槍の先にかけて念仏を唱えながら戦に臨んでいた。信楽院本尊の阿弥陀仏がこの時貞秀の使っていたものであると伝わっており「槍かけ本尊」と呼ばれている』(この辺りへの強い皮肉がこの怪談(阿弥陀仏が人食い鬼となって元貞を襲撃してくる辺り)には意識されているように思われる)。『民衆は「知閑が念仏、持是院(斎藤妙純)が頭巾、申して無益、して無益」と』、出家しても猶、『武を誇る貞秀を揶揄した歌を残している』(この皮肉も本怪談の核にありそうだ)。元禄八(一六九五)年刊の「蒲生軍記」には『「武芸はいふに及ばず、歌道にも達したり」と文武両道を讃えて』おり、宝暦二(一七五三)年刊の奇談集「新編奇怪談」でも『言及されるなど、江戸時代までは歌人としてそれなりの知名度があったようである』とある。因みに、本「老媼茶話」は寛保二(一七四二)年の序であるから、この江戸時代の彼貞秀の人気がそれなりにあった時期の作であることが判る。さても、以上の事蹟を見渡しても「甲州猪鼻山に陣し」た事実は浮かび上がってこない。もし、あるのであれば、室町・戦国史にお詳しい方の御教授を乞うものである。

「郭璞(クワクハク)が山海經(せんがいきやう)」西晋・東晋の文学者で卜者であった郭璞(かくはく 二七六年~三二四年)が注を附した、戦国から秦朝・漢代(紀元前四世紀~紀元後三世紀頃)にかけて徐々に加筆されて成立したものと考えられている、奇体な幻想地誌書「山海経」(せんがいきょう)。魯迅が大好きで、私も愛している作品である。

「陰山に獸有(あり)。其形、狸のごとし。首白く、好(このみ)て大蛇を喰ふ。名付(なづけ)て「天狗」と云(いふ)」「山海経」の「巻二」に以下のように出る。

   *

又、西三百里、曰隂山、濁浴之水、出焉而南流、注于蕃澤。其中、多文貝。有獸焉。其狀、如狸、白首、名曰天狗。其音、如榴榴、可以禦凶。

   *

因みに、この場合は「天狗」は「てんぐ」ではなく「テンコウ」(現代仮名遣)と読むべきである。また、「狸」は別本では「豹」ともある。

「順(シタガウ)」平安中期の公家で博学の学者として知られた源順(みなもとのしたごう 延喜一一(九一一)年~永観元(九八三)年)。大納言源定(さだむ)の曾孫で左馬允源挙(こぞる)の次男。官位は従五位上・能登守。漢詩や和歌の上手でもあった。

「和名集」源順が承平年間(九三〇年代半ば)に二十歳代の頃に独力で編纂した本邦初の分類型辞典「和名類聚抄」。

「あまのくつね」二十巻本の「毛群部」(獣一般)を見たが、見当たらない。発見し次第、追記する。

「さはがさるゝ事「騷がさるる事」。

「大頭(ダイヅ)魔王」魔王の首魁の謂いか。

「かり込(こみ)て」「驅り込みて」。駆り追い込んで。

「きちく」「鬼畜」。

「土岐大四郎元貞」かなり怪奇談・怪奇絵の武勇の士としては知られたらしく、幕末の浮世絵師月岡芳年の「新形三十六怪撰」に「蒲生貞秀臣土岐元貞甲州猪鼻山魔王投倒圖」が出る。国立国会図書館デジタルコレクションのここの画像で視認出来る。極彩色で、異様な阿弥陀が描かれており、なかなかクルものがある。必見!

「白あやたゝんで」「白綾疊んで」。

「黑原」「黑腹」か。

「よぢ」「攀ぢ」。

「がゞたる」「峨々たる」。

「弐丈」六メートル六センチ。

「踏反(フミゾリ)かへり」ふんぞり返って。

「石突」槍・長刀などの柄の端や、太刀の鞘尻の部分。また、そこを保護のために包んである金物を指す。

「きつくわい」「奇怪」。

「醉眠(すゐみん)」底本は誤字として横に添字して「睡眠」とする。

「誰(たれ)、取立(とりたつ)る者もなし」長い年月、誰一人として補修した形跡もない。

「まおう」ママ。「魔王(まわう)」。

「力足(ちからあし)を踏(ふみ)て」四股(しこ)を踏んで。

「こり候得」「懲りたことで御座ろう」。

「鬼姥(おにばば)」私の推定訓。

「面背(メンハイ)」顏と背中。

「左の肩をはだぬぎ、數十(すじふ)の毒蛇を腕にからみ、右の手にて毒蛇を、つまみ切(きり)、つまみ切、是を喰(くらひ)ながら爰(コヽ)へ來り」ホラー芸が細かい。

「丈六」作仏像の背丈の一基準。仏は身長が一丈六尺(約四メートル八十五センチメートル)あるとされることから、仏像もこの「丈六」を等身大の基準とし、その五倍・十倍或いは「丈六」の半分などの大きさで造立された。坐像の場合の「丈六像」は半分の約八尺(弐メートル四十三センチメートル、「半丈六像」は約八尺(約二メートル四十二センチメートル)の立像として作った。

「しゆつかう」「出興」。現世に(本来は)衆生済度のために示現すること。

「跡をたれ」「迹を垂れ」。垂迹(すいじゃく)し。仏・菩薩が民衆を救うために仮の姿をとって現れること。本地の対語。

「形は、にうは・にんにくの姿」「形は、柔和・忍辱の姿」。忍辱とは六波羅蜜(ろくはらみつ:菩薩が涅槃の世界に入るために修める六つの行。布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧(般若))の第三で、種々の侮辱や苦しみを耐え忍んで、心を動かさないこと。

「默心」底本のママ。底本にも注がないが、これは「點心」の誤りであろう点心は一般に禅宗で昼食前に摂る簡単な食事或いは昼食を指す元貞を格好の食事として喰らおう、と言うのである

「ゆるぎをり」「搖るぎ下り」。体を揺らしながら動いて、蓮華座を降りたのである。

「がいこつ、ころび出」「骸骨、轉び出づ」。

「よろぼひ立(たつ)て」「よろぼふ」(蹌踉ふ・蹣跚ふ)は「よろよろと歩く・よろめく」の意。よろめきながら再び立ち上がると。

「がい骨の割(われ)、數(す)百萬の蝶と成(なる)」なかなか映像が素敵だ。この骸骨は阿弥陀の腹から転げ出た數十の頭蓋骨であろう。無論、阿弥陀の頭蓋骨でも構わぬし、それも画像として想起すると、なおのこと、素敵だ。

「面頰(めんぼほ)の合(あはせ)」「面頰」は「めんぽお」「めんぼお」(現代仮名遣)とも読み、武具の一つで顔面を保護するための防御具で目の下頰当て・頰当ての類であるから、それらが冑などと組み合わせられている、その合わせの部分。

「わたがみのはづれ」「綿嚙みの外れ」。「わたがみ」は「肩上・綿上」などとも書き、鎧 や具足の胴の両肩に懸ける部分の名称。背面の押付 (おしつけ) の板から両肩に続けて、前の胸板の高紐 (たかひも) に懸け合わせる装具を言う。その隙間の部分。

「草ずり」「草摺」。鎧 の胴の下部の付属具で、大腿部を守るために革又は鉄片を連結して、通常は五段下りに縅して下げる。「下散 (げさん)」「垂れ」などとも呼ぶ。

「吹(ふぶく)ごとく」私の趣味の当て訓。「ふく」でもよいが、弱いと感じた。

「ばんじやく」「盤石」。大きな岩。

「こまり」「小鞠」。

「ちやうや」「長夜」。

「金兎」月の別称。

「こんよう」「金容」。一般には金色(こんじき)の仏像の尊い姿をいう語であるが、ここは以下の「天女」がそうした眩い光りを放っているというのであろう。

「金鳳座」不詳。金色の糸で鳳凰の刺繡をしたクッションのようなものか。

「楊玄げんが娘、楊貴妃也」楊貴妃は蜀州の役人であった楊玄琰(げんえん)の四女であるとされるから、「げん」は衍字であろう。「琰」を「ゲン」とは読めない。

「二つ」首と胴の二つ。]

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