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2017/11/09

江戸川乱歩 孤島の鬼(5) 入口のない部屋

 

   入口のない部屋

 

 さて、私は大正十四年六月二十五日のあの恐ろしい出来事を語らねばならぬ順序となった。その前日、いやその前夜七時ごろまでも、私は初代と語り合っていたのだった。晩春の銀座の夜を思い出す。私はめったに銀座など歩くことはなかったのだが、その夜は、どうしたのか、初代が銀座へ行ってみましょうと言い出した。初代は見立てのいい柄の、仕立卸しの黒っぽい単衣物(ひとえもの)を着ていた。帯はやっぱり黒地に少し銀糸をまぜた織物であった。臙脂色(えんじいろ)の鼻緒(はなお)の草履(ぞうり)もおろしたばかりだった。私のよく磨いた靴と彼女の草履とが足並をそろえて、ペーヴメントの上をスッスッと進んで行った。私たちはその時、遠慮勝ちに新時代の青年男女の流行風俗をまねてみたのであった。ちょうど月給日だったので、私たちは少しおごって、新橋のある鳥料理へ上がったものだ。そして七時ごろまで、少しお酒を飲みながら、私たちは楽しく語り合った。酔ってくると私は、諸戸なんか、今にごらんなさい私だって、というような気焰を上げた、そして、今ごろ諸戸はきっとくしゃみをしているでしょうね、といって思い上がった笑いかたをしたのを覚えている。ああ、私はなんという愚かものであったのだろう。

[やぶちゃん注:「ペーヴメント」pavement。舗装道路。舗道。特に石を敷きつめた歩道を指す。]

 私はその翌朝、ゆうべ別かれるとき初代が残して行った、私のすきでたまらない彼女の笑顔と、ある懐かしい言葉とを思い出しながら、春のようにうららかな気持で、S・K商会のドアをあけた。そして、いつもするように、先ず第一に初代の席を眺めた。毎朝どちらが先に出勤するかというようなことさえ、私たちの楽しい話題の一つになるのであったから。

 だが、もう出勤時間が少し過ぎていたのに、そこには初代の姿はなく、タイプライターの覆いもとれてはいなかった。変だなと思って、自分の席の方へ行こうとすると、突然横合いから興奮した声で呼びかけられた。

「蓑浦君、大変だよ。びっくりしちゃいけないよ。木崎さんが殺されたんだって」

 それは人事を扱っている庶務主任のK氏だった。

「今しがた、警察のほうから知らせがあったんだ。僕はこれから見舞いに行こうと思うんだが、君も一緒に行くかい」

 K氏は幾分は好意的に、幾分はひやかし気味にいった。私たちの関係はほとんど社内に知れ渡っていたのだから。

「ええ、一緒に参りましょう」

 私は何も考えることができなくて、機械的に答えた。私はちょっと同僚に断わって、K氏と同道して、自動車に乗った。

「どこで、誰に殺されたのですか」

 車が走り出してから、私は乾いた唇で、かすれた声で、やっとそれを尋ねることができた。

「家でだよ。君は行ったことがあるんだろう。下手人はまるでわからないということだよ。とんだ目にあったものだね」

 好人物のK氏はひとごとではないという調子で答えた。

 痛さが余り烈しいときには、人はすぐ泣き出さず、かえって妙な笑い顔をするものだが、悲しみの場合も同じことで、それがあまりひどいときは涙を忘れ、悲しいと感じる力さえ失ったようになるものである。そして、やっとしてから、よほど日数がたってから、はんとうの悲しさというものがわかってくるのだ。私の場合もちょうどそれで、私は自動車の上でも、先方について初代の死体を見た時でさえも、なんだか他人のことのようで、ボンヤリと普通の見舞い客みたいにふるまっていたことを記憶している。

 初代の家は巣鴨宮仲(すがもみやなか)の、表通りとも裏通りとも判別のつかぬ、小規模な商家としもた家とが軒を並べているような、細い町にあった。彼女の家と隣りの古道具屋とだけが平屋建てで、屋根が低くなっているので、遠くから目印になった。初代はこの三間か四間の小さな家に彼女の養母とたった二人で住んでいたのである。

[やぶちゃん注:「巣鴨宮仲」現在の東京都豊島区上池袋内。この附近(グーグル・マップ・データ)。]

 私たちがそこに着いたときには、もう死体の調べなどもすんで、警察の人たちが付近の住人を取り調べているところだった。初代の家の格子戸の前には、一人の制服の警官が、門番みたいに立ちはだかっていたが、K氏と私とは、S・K商会の名刺を見せて、中へはいって行った。

 六畳の奥の間に、初代はもう仏(ほとけ)になって横たわっていた。全身を白い布で覆い、その前に白布をかけた机をすえて、小さなロウソクと線香が立ててあった。一度会ったことのある小柄な彼女の母親が、仏の枕元に泣き伏していた。そのそばに彼女の亡夫の弟だという人が、憮然として坐っていた。私はK氏の次に母親に悔みを述べて、机の前で一礼すると、仏のそばへ寄って、そっと白布をまくり初代の顔を覗いた。心臓を一とえぐりにやられたということであったが、顔には苦悶のあともなく、微笑しているのかと思われるほど、なごやかな表情をしていた。生前から赤みの少ない顔であったが、それが白蠟のように白けて、じっと眼をふさいていた(胸の傷痕には、ちょうど彼女が生前帯をしめていた恰好で、厚ぼったく繃帯が巻いてあった。それを見ながら、私は、今からたった十三、四時間前に、新橋の鳥屋でさし向かいに坐って、笑い興じていた初代を思い出した。すると、内臓の病気ではないかと思ったほど、胸の奥がギュウと引締められるような気がした。その刹那、ポタポタと音を立てて、仏の枕元の畳の上に、つづけざまに私は涙をこぼしたのであった。

 いや、私はあまりに帰らぬ思い出に耽り過ぎたようである。こんな泣きごとを並べるのがこの記録の目的ではなかったのだ。読者よ、どうか私の愚痴を許してください。

 K氏と私とは、その現場でも、また後日役所に呼び出されさえして、いろいろと初代の日常に関して取り調べを受けたのであるが、それによって得た知識、また初代の母親や近所の人たちから聞き知ったところなどを総合すると、この悲しむべき殺人事件の経過は、大体次のようなものであったことがわかった。

 初代の母親は、その前夜、やっぱり娘の縁談のことについて相談するために、品川のほうにいる彼女の亡夫の弟のところへ出向いて、遠方のことゆえ、帰宅したのはもう一時を過ぎていた。戸締まりをして、起きてきた娘としばらく話をして、彼女の寝室に定めてあるほうの、玄関ともいうべき四畳半へ臥せった。ここでちょっとこの家の間取りを説明しておくと、今いった玄関の四畳半の奥に六畳の茶の間があり、それが横に長い六畳で、そこから奥の六畳と三畳の台所と両方へ行けるようになっている。奥の間の六畳というのは、客座敷と初代の居間との兼用になっていた。初代は勤めに出て家計を助けているので、主人格として一ばん上等の部屋を当てがわれていたのである。玄関の四畳半は南に面していて、冬は日当たりがよく、夏は涼しく、明るくて気持がよいというので、母親が居間のようにして、そこで針仕事などすることになっていた。中の茶の間は広いけれど、障子ひとえで台所だし、光線がはいらず、陰気でじめじめしているので、母親はそこを嫌って寝室にも玄関を選んだわけであった。なぜ私はこんなにこまごまと間取りを説明したかというに、実はこの部屋の関係が初代変死事件をあれほど面倒なものにした、一つの素因をなしていたからである。事のついでにもう一つ、この事件を困難にした事情を述べておくが、初代の母親は少し耳が遠くなっていた。それにその夜はよふかしをした上に、ちょっと興奮するような出来事もあったので、寝つきがわるかった代りには、わずかのあいだであったが、ぐっすりと熟睡してしまって、朝六時ごろに眼を覚ましたまでは、何事も知らず、少々の物音には気のつかぬ状態であった。

 母親は六時に眼を覚ますと、いつもするように、戸をあける前に、台所へ行って、仕かけておいた竃(かまふぉ)の下をたきつけて、少し気掛りなことがあったものだから、茶の間の襖(ふすま)をあけて、初代の寝間をのぞいて見たのだが、雨戸の隙間からの光と、まだ、つけたままの机の上の置き電燈の光によって、一と目でその場の様子がわかった。布団がまくれて、仰臥した初代の胸がまっ赤に染まり、そこに小さな白鞘の短刀がつっ立ったままになっていた。格闘の跡もなく、さしたる苦悶の表情もなく、初代はちょっと暑いので、布団から乗出したという恰好で静かに死んでいた。曲者(くせもの)の手練が、たった一と突きで心臓をえぐったので、ほとんど苦痛を訴えるひまもなかったのであろう。

 母親はあまりの驚きに、そこにべッタリ坐ったまま「どなたかきてくださいよ」と連呼した。耳が遠いのでふだんから大声であったが、それが思いきり叫んだのであるから、たちまち壁ひとえの隣家を驚かせた。それから大騒ぎになって、ちょっとの間に近所の人たちが五、六人集まってきたが、はいろうにも、戸締まりをしたままなので、家の中へはいることができない。人々は「お婆さんここをあけなさい」と叫んで、ドンドン入口の戸を叩いた。もどかしがって裏へ廻る者もあったが、そこも締まりのままでひらくことができない。でもしばらくすると、母親が気が顚倒していたのでという意味の詫ごとをして締まりをはずしたので、人々はやっと屋内にはいり、恐ろしい殺人事件が起こったことを知ったのである。それから警察に知らせるやら、母親の亡夫の弟の家へ使いを走らせるやら大騒ぎになったが、もうそのころは町内じゅう総出の有様で、隣家の古道具屋の店先などは、そこの老主人の言葉を借りると「葬式なんかのおりの休憩所」といった観を呈していた。町内が狭いところへ、どの家からも、二、三人の人が門口へ出ているので、ひとしお騒ぎが大きく見えた。

 兇行のあったのは、後に警察医の検診によって、午前の三時、ごろということがわかったが、兇行の理由と見なすべき事柄は、やや曖昧にしかわからなかった。初代の居間は、大して取り乱した様子もなく、簞笥なんかにも異状はなかったが、だんだん調べて行くと、初代の母親は二つの品物の紛失していることに気づいた。その一つは初代がいつも持っていた手提げ袋で、その中にはちょうど貰ったばかりの月給がはいっていた。その前夜少しごたごたしたことがあったので、それを袋から出すひまもなく、初代の机の上に置いたままになっていたはずだと、母親はいうのだ。

[やぶちゃん注:「検診」はママ。]

 これだけの事実によって判断すると、この事件は何者かが、多分夜盗のたぐいであったにちがいないが、初代の居間に忍び込んで、あらかじめ目星をつけておいた月給入りの手提げ袋を盗み去ろうとしたとき、初代が眼を覚まして声を立てるか何かしたので、うろたえた賊が所持の短刀で初代を刺し、そのまま手提げ袋を持って逃亡したというふうに、想像することができた。母親がその騒ぎに気づかなかったのは少々変であるが、前にも述べた通り、初代の寝間と母親の寝間とが離れていたこと、母親は耳が遠い上に、その夜は殊に疲れて熟睡していたことなどを考えると、無理もないことであった。それはまた、初代が大声で叫び立てるひまを与えず、とっさの間に、賊が彼女の急所を刺したためだと考えることもできた。

 読者は、私がそんな平凡な月給泥棒の話を、なぜこまごまとしるしているのかと、定めし不審に思われるであろう。なるほど以上の事実はまことに平凡である。だが事件全体は決して平凡ではなかった。実をいうと、その平凡でない部分を、私はまだ少しも読者に告げていないのである。物には順序があるからだ。

 では、その平凡でない部分とはなんであるかというに、先ず第一は、月給泥棒がなぜチョコレートの罐を一緒に盗んでいったかということである。母親が発見した二つの紛失物の内の一つが、そのチョコレートの罐であったのだ。チョコレートと聞いて私は思い出した。その前夜、私たちが銀座を散歩した時、私は初代がチョコレートを好きなことを知っていたものだから、彼女と一緒に一軒の菓子屋にはいって、ガラス箱の中に光っていた美しい宝石のような模様の罐に入ったのを買ってやったのである。丸く平べったい掌くらいの小罐であったが、非常に綺麗に装飾がしてあって、私は中味よりも罐が気に入って、それを選んだほどであった。初代の死体の枕元に、銀紙が散らばっていたというのだから、彼女はゆうべ、寝ながら、その幾つかをたべたものにちがいない。人を殺した賊が、危急の場合、なんの余裕があって、またなんの物好きから、そんなくだらない、お金にして一円〔註、今の四百円ほど〕足らずのお菓子などを、持って行ったのであろうか。母親の思い違いではないか、どっかにしまい込んであるのではないかと、いろいろ調べてみたが、その綺麗な罐はどこからも出てこなかった。だが、チョコレートの罐くらいは、なくなろうとどうしようと、大した問題ではなかった。この殺人事件の不思議さは、もっともっとほかの部分にあったのである。

[やぶちゃん注:「〔註、今の四百円ほど〕」この割注は換算から見て、話者である蓑浦のそれというよりも、作者乱歩が蓑浦仮託して註したものと判断される。則ち、「今」とは、本篇が連載された、事件があったとする大正一四(一九二五)年から四年後の、昭和四(一九二九)年当時ではなく、初出から二十五年を優に越えてしまった第二次世界大戦後の物価による換算値であるからである。本底本の最後には、乱歩自身の「自註自解」があり(残念なことにクレジットがない)、それを見ると、本篇は戦後に、乱歩自身が『元の姿に直した』(戦争中の出版では検閲によって削除された箇所があった)と述べていることから、ここも戦後の物価に新たに換算し直して改訂を加えたと推定されるのである。大正一四(一九二五)年当時の白米十キログラムの値段が三・二円であったものが、昭和二五(一九五〇)年で九百九十円、昭和三〇(一九五五)年で千八十円、乱歩が亡くなった昭和四〇(一九六〇)年(七月二十八日没)で千三百六十円であるから、そう考えて初めて納得出来る換算値であるからである。]

 一体、この賊は、どこから忍び入り、どこから逃げ出したのであろう。先ず、この家には普通に人の出入りする箇所が三つあった。第一は表の格子戸、第二は裏の二枚障子になった勝手口、第三は初代の部屋の縁側である。そのほかは、壁と、厳重にとりつけた格子窓ばかりだ。この三つの出入口は、前夜充分に戸締まりがしてあった。縁側の戸にも一枚一枚クルルがついていて、中途からはずすことはできない。つまり泥棒は普通の出入口からはいることは絶対不可能だったのである。それは母親の証言ばかりでなく、最初叫び声を聞きつけて現場にはいった近隣の五、六人の人たちが充分認めていた、というのは、その朝彼らが初代の家にはいろうとして、戸を叩いたとき、すでに読者にもわかっている通り、表口も裏口も、中から錠がおろしてあって、どうしてもあけることができなかったからである。また初代の部屋にはいって、光線を入れるために、三人でそこの縁側の雨戸をくったときにも、雨戸には完全に締まりがしてあったのだ。とすると、賊はこの三つの出入口のほかから忍び込み、また逃げ去ったものと考えるほかないのだが、そんな箇所がどこにあったのであろうか。

[やぶちゃん注:「クルル」枢(くるる)。戸締まりのために戸の桟(さん)から敷居に指し込んで止めるようにした木製或いは金属製の装置。

 さて、丁度、この位置には、底本では、竹中英太郎の挿絵が入るが、その右上方には、「木崎家間取」とした図(標題は縦にあるが、図だけが左に四十五度近く傾いた変則的なものである)が記されてある。或いはこれも乱歩が竹中に依頼して挿絵の上方に入れ込んでもらったもの、則ち、竹中の描いた図である可能性も高いのであるが、ここは作品の密室殺人の謎という性質上、間取り図は必要不可欠と私は判断した。そこで画像で当該箇所をスキャンし、家の間取りの画線のみを抜き出し、手書きの標題及び各間の説明を私が活字で示したものを、ここに挿入しておくこととした。則ち、これが竹中画伯のものであったとしても、自筆部分は部屋の画線のみとなるので、あの世の英太郎氏もお許し戴けるものと存ずる。万一、それでも著作権侵害とされた場合は、画線も私が引いたものに代える用意はある。]

 

Kizakikemadori

 

 先ず最初に気がつくのは、縁の下であるが、縁の下といっても、そとに現われている部分は、この家には二カ所しかない、玄関の靴脱ぎの所と、初代の部屋の縁側の内庭に面した部分である。だが、玄関のほうは完全に厚い板が張りつけてあるし、縁側のほうは犬猫の侵入を防ぐために、一面金網張りになっている。そして、そのいずれにも、最近取りはずしたような形跡はなかったのである。

 少し汚ない話をするようだが、便所の掃除口はどうかというに、その便所は初代の部屋の縁側にあったのだが、掃除口は昔風の大きなものでなく、近いころ用心深い家主がつけかえたという話で、やっと五寸角ぐらいの小さなものであった。これも疑う余地はないのだ。また、台所の屋根についている明りとりにも異状はなかった。それの締まりをする細引はちゃんと折れ釘に結びつけたままになっていた。そのほか、縁側のそとの内庭のしめった地面にも、足跡などは見当たらず、一人の刑事が天井板の取りはずしのできる部分から、上にあがって調べてみたが、厚くつもったほこりの上にはなんの痕跡も発見することができなかった。とすると、賊は壁を破るか、表の窓の格子をとりはずして、出入りするほかには、全く方法がないのである。いうまでもなく、壁は完全だし、格子は厳重に釘づけになっていた。

 さらにこの盗賊は、彼の出入りの跡をとどめなかったばかりでなく、屋内にも、なんらの証拠物を残していないのであった。兇器の白鞘の短刀は、子供のおもちゃにもひとしいもので、どこの金物屋にも売っているような品であったし、その鞘にも、初代の机の上にも、そのほか調べえた限りの場所に、一つの指紋さえ残っていなかった。むろん遺留品はなかった。妙な言い方をすれば、これは、はいらなかった泥棒が、人を殺し、物を盗んだのである。殺人と窃盗ばかりがあって、殺人者、窃盗者は影も形もないのである。

 ポーの「モルグ街の殺人事件」やルルウの「黄色の部屋」などで、私はこれと似たような事件を読んだことがある。共に内部から密閉された部屋での殺人事件なのだ。だが、そういうことは外国のような建物でなければ起こらぬもの、日本流のヤワな板と紙との建築では起こらぬものと信じていた。それが今、そうばかりともいえぬことがわかってきたのだ。たとえヤワな板にもしろ、破ったり取りはずしたりすれば跡が残る。だから、探偵という立場からいえば、四分板も一尺のコンクリート壁もなんの変りもないのである。

[やぶちゃん注:『ポーの「モルグ街の殺人事件」』言わずもがな、アメリカの詩人で小説家のエドガー・アラン・ポー(Edgar Allan Poe 一八〇九年~一八四九年)が一八四一年(本邦は天保十二年)に発表した密室物の短編推理小説の傑作「モルグ街の殺人」(The Murders in the Rue Morgue)。

『ルルウの「黄色の部屋」』これも言わずもがなであるが、フランスの推理小説の創世期に於いて「アルセーヌ・ルパン」を生んだモーリス・ルブラン(Maurice Leblanc 一八六四年~一九四一年)と並称された、新聞記者で小説家のガストン・ルルー(Gaston Leroux 一八六八年~一九二七年)が一九〇七年に発表した密室トリックの古典的名品「黄色い部屋の秘密」(Le Mystère de la chambre jaune)。

「四分板」「しぶいた」と読む。厚み四分、約一センチ二ミリの板。]

 だが、ここで、ある読者は一つの疑問を提出されるかもしれない。「ポーやルルウの小説では、密閉された部屋の中に被害者だけがいたのである。それゆえまことに不思議であったのだ。ところが君の場合では、君が一人で、この事件をさも物々しく吹聴しているにすぎないではないか。たとえ家は君のいうように密閉されていたにもしろ、その中には、被害者ばかりではなくて、もう一人の人物がちゃんといたのではないか」と。まことに左様である。当時、検事や警察の人々も、その通りに考えたのであった。

 賊の出入りした痕跡が絶無だとすると、初代に近づきえた唯一の人は彼女の母親であった。盗まれた二た品というのも、ひょっとしたら彼女の欺瞞(ぎまん)であるかもしれない。小さな二た品を人知れず処分するのはさして面倒なことではない。第一おかしいのは、たとえ一と間隔たっていたとはいえ、耳が少しくらい遠かったとはいえ、眼ざといはずの老人が、人一人殺される騒ぎを、気づかなかったという点である。この事件の係りの検事は、定めしそんなふうに、考えたことであろう。

 そのほか、検事はいろいろな事実を知っていた。彼女らがほんとうの親子でなかったこと、最近は結婚問題で、絶えず争いのあったこと。

 ちょうど殺人のあった夜も、母親は亡夫の弟の力を借りるために彼を訪問したのだし、帰ってから二人のあいだに烈しいいさかいがあったらしいことも、隣家の古道具屋の老主人の証言で明らかになっている。私が陳述したところの、母親が初代の留守中に、彼女の机や手文庫をソッと調べていたなどということも、かなり悪い心証を与えた様子であった。

 可哀そうな初代の母親は、初代の葬儀の翌日、ついにその筋の呼出しを受けたのである。

 

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