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2017/11/01

柴田宵曲 續妖異博物館 「大魚」

 

 大魚

 

「夷堅志」に海上で大魚に行き違ふ話がある。その魚と舟との距離は十五里もあるに拘らず、完全に行き違ふのに數時間を費した。恐らく魚の長さは幾百里もあるに相違ない。波の間に紅い旗のやうなものが見えたのは、その鱗や背鰭だといふことであつた。「玄中記」の大魚は更に凄まじく、魚の頭に出逢つてから七日目にその尾を見るとある。「閲微草堂筆記」にあるのはそれほどでもないが、その首を擧げるときは危峯の日を遮る如く、一躍する每に大浪が起つて、雷のやうな音がする。何時間かを費してその傍を通過したから、その長さは數百里に及ぶだらうと記されてゐる。「莊子」の鯤(こん)は、その大いさ幾千里なるを知らずといふだけで、具體的な説明は何もないが、以上の大魚は皆鯤の系統に屬するのであらう。「夷堅志」の舟人は大魚と行き違ふに當り、刀で自分の舌を疵付け、その血を海に滴らしたりしてゐる。吾々はさういふ呪ひを知らぬから、かういふ先生に出逢つた場合、先づ脱帽して敬意を表し、おもむろにその通過を待つより仕方があるまい。

[やぶちゃん注:以上の話、「夷堅志」には見当たない。今でもそうであったが、或いは宵曲は引用元を誤っているのかも知れぬ。どこかに見出せたら、追記する。

「十五里」「夷堅志」は南宋期の志怪小説で、当時のあちらの一里は約五百五十三メートルであるから、八キロ三百メートルほど。

「玄中記」西晋(二六五年~三一六年)代に成立した博物誌。散逸。以上の話は「太平廣記」の「水族一」の「玄中記」を出典とする「東海大魚」。

   *

東方之大者、東海魚焉。行海者、一日逢魚頭、七日逢魚尾。魚産則百里水爲血。

   *

 以上の「閲微草堂筆記」のそれは「第十九卷 灤陽續錄一」の以下(中文サイトからの引用であるが、一部に脱字があるかもしれない。悪しからず)。

   *

孟鷺洲自記巡視臺灣事曰。「乾隆丁酉、偶與友人扶乩。乩贈余以詩曰、『乘槎萬里渡滄溟、風雨魚龍會百靈。海氣粘天迷島嶼、潮聲簸地走雷霆。鯨波不阻三神島、鮫室爭看二使星。記取白雲飄渺處、有人同望蜀山靑。』。時將有巡視臺灣之役、余疑當往。數日、果命下。六月行、八月至廈門渡海、駐半載始歸。歸時風利、一晝夜卽登岸。去時飄蕩十七日、險阻異常。初出廈門、卽雷雨交作、雲霧晦冥、信帆而往、莫知所適。忽腥風觸鼻、舟人曰、『黑水洋也。』。其水比海水凹下數十丈、闊數十里、長不知其所極、黝然而深、視如潑墨。舟中搖手戒勿語、云、『其下卽龍宮爲第一險處、度此可無虞矣。』。至白水洋、遇巨魚鼓鬣而來、舉其首如危峰障日、每一撥刺、浪湧如山、聲砰訇如霹靂、移數刻始過盡。計其長、當數百里。舟人云、『來迎天使、理或然歟。』。既而颶風四起、舟幾覆沒。忽有小鳥數十、環繞檣竿。舟人喜躍、稱天后來拯。風果頓止、遂得泊澎湖。聖人在上、百神效職、不誣也。遐思所歷、與詩語相符、非鬼神能前知歟。時先大夫尚在堂、聞余有過海之役、命兄到赤嵌來視余。遂同登望海樓、并末二句亦巧合。益信數皆前定、非人力所能爲矣。戊午秋、扈從灤陽、與曉嵐宗伯話及、宗伯方草「灤陽續錄」、因書其大略付之、或亦足資談柄耶。」。以上皆鷺洲自序。考唐鍾輅作「定命錄」、大旨在戒人躁競、毋涉妄求。此乩仙預告未來、其語皆驗、可使人知無關禍福福之驚恐、與無心聚散之蹤跡、皆非偶然、亦足消趨避之機械矣。

   *

『「莊子」の鯤(こん)は、その大いさ幾千里なるを知らず』「荘子」「逍遙遊篇」の頭に出る超有名な巨大魚。荘子の時代の一里は四百五メートルであるが、ここでは「幾千里」であるかを認知出来ないいほど、途方もない大きさでるから、距離単位も無化される。

「呪ひ」「まじなひ」。]

 

 吾々の見た範圍に於て一番大きな日本の魚は「おきな」であらう。「大言海」には「蝦夷ノ海ニ棲メリト云フ大魚ノ名。鯨モ畏ルト云フ、詳ナラズ」とあるだけで頗る要領を得ないが、橘南谿「東遊記」によると、二十尋三十尋の鯨を呑む事、鯨の鰯を呑むが如しといふのだから大變である。この魚の來る時は海底が雷の如く鳴り、風もないのに波浪が起つて、鯨が東西に逃げ走る。稀に海上に浮ぶのを見れば、大きな嶋がいくつも出來たやうで、これは「おきな」の背中や尾鰭が少しつつ見えるのだとあるが、この邊はいさゝか「夷堅志」の出店の觀がないでもない。勿論南谿も親しく目擊したわけでなく、傳聞のまた傳聞ぐらゐの話らしいから、話の大きい割に隔靴搔痒の憾みがあるのは、蓋し已むを得ざるところであらう。

[やぶちゃん注:以上は「東遊記」の「巻之四」の「大魚」。例の東洋文庫の気持ちの悪い新仮名のそれを引いておく。読みはごく一部に限った。

   *

 

    大魚(北海道)

 

 北狄(ほくてき)の地、夜国(やこく)のおき、クルウンランド[やぶちゃん注:グリーンランドか。]などいう国の海には、鯨夥敷(おびただしく)、其中にはかくべつ大なるありて、蛮人の説を聞きたるばかりにてまことしからざる物ありというに、余もまのあたり親しく東海の人に聞くに、東蝦夷の海におきなという魚あり。其大きさ二里三里にも及べるにや、ついに其魚の全身を見たる人はなし。春は此魚南に出でて、秋よりは北へ帰る。蝦夷の猟船は毎度出逢う事なりとぞ。其魚きたる時は、海底雷のごとく鳴りて、風無きに波浪起り、鯨東西に逃走る。かくの如くなる時は、すはおきな来たりたりとて猟船も早々に逃帰る事也。稀々に海上に浮きたるを見るに、大なる島いくつも出来たるごとく也。是おきなの背中尾鰭などの少しずつみゆるなりとぞ。二十尋三十尋の鯨を呑む事、鯨の鰯を呑むがごとくなるゆえ、此魚来たれば鯨東西に逃走るなり。

 誠に東蝦夷の海は、即(すなわち)日本奥州の東海にして、東(ひんがし)の方へは数万里の間に国なく、世界第一の大海なれば、かくのごとき大魚も生ずるなるべし。二里三里五里にも及ぶ大魚ありとは信じがたきようなれども、又あるまじともいうべからず。唐土などは海に遠き国ゆえに、昔の文人学者など、二十尋三十尋の鯨南海にある事をいと怪しみ、不思議に思いたるようなり。海に遠く住めるゆえ也。日本などは四方に海近き国なるゆえに、小児といえども鯨ある事を怪しむ事なし。されば数万里打開きたる大海には、かくべつの大魚ある事も怪しむべからず。

 荘子の鯤、鵬などは寓言にて、荘子も実にありとは思われず。鄒衍(すうえん)[やぶちゃん注:中国の戦国時代の陰陽家。]が赤県神州(せきけんしんしゅう)[やぶちゃん注:中国全体のこと。ウィキの「九州(中国)」によれば、『戦国時代の鄒衍は』『九州は実際には世界の』八十一分の一に過ぎず、『中国全体が赤県神州という名前のひとつの州にすぎないとした』とある。]の如きもの九つ有りといいしも虚妄の空誕(くうたん)と云いしかど、今蛮国の図を見れは、唐土などのごとき国十も二十もありて、九つなどは数ならず。此おきな有る時は鯤も大なりとするに足らず。実に文物(ぶんぶつ)開けし御代に生れ逢いたるはありがたき事なり。

   *

なお、この「おきな」については、ウィキの「赤えい(妖怪)」の「オキナ」の条にも南谿の「東遊記」の記載を紹介しつつ、以下のように書かれてある。『同書に記す「オキナ」は蝦夷の東海に棲息し、春に南の海に行き秋に戻って来るといい、その魚が現れる際には海底から雷鳴のような轟音が響くとともに大波が起こり、餌として』二十尋から三十尋(およそ三十から五十メートル)も『ある鯨を、鯨が鰯を飲み込むかのように飲み込むために、食べられまいとする鯨は四方八方に逃げ出すという。その体長は全身を目にした者はいないものの』、二里から三里に『およぶものと考えられ、稀に海上に浮かぶ姿を目にし得た時にはまるで大きな島々が連なっているかのようであるが、それとても背中乃至尾鰭が僅かに突き出ている姿に過ぎないという』。『大槻文彦はこの「お(を)きな」を「大き魚(な)」の謂であろうと解している』。また、江戸期のある記載では、『松前(北海道)から「ヲキナ」の牙が産出され、それは象牙に似たもので三味線の撥等に用いると述べ』。『「松前にては(ヲキナを)知る人なし」としつつも』、『「かぎりなき大海なれば鯨を呑む大魚もあるべきなり」とその存在の可能性を否定していない』もあるという(引用元はリンク先を参照)。]

 

「今昔物語」にある天竺の五百の商人は、寶を求めんがために海を渡らうとして、二つの日と白い山とを見た。楫取りに聞いて見たところ、これは魚の王で、二つの日は魚の目、白い山は魚の齒、水が速かに流れるやうなのは魚の口に水が引かれるのである、佛の御名を念じてこの難を免れよ、と答へたので、五百人心を一にし佛の御名を稱へた。魚は口を閉ぢて海に沈み、一商人は無事に本國に帰るり得た。これなどもよほど巨大なものに相違ない。

[やぶちゃん注:以上は「今昔物語集」の「卷第五」の「天竺五百商人於大海値摩竭大魚語第廿八」(天竺の五百の商人(あきびと)大海(だいかい)に於いて摩竭大魚(まかだいぎよ)に値(あ)へる語(こと)第二十八)。

   *

 今は昔、天竺の人、五百人と共に、寶を求めむが爲に、海に浮かびて渡る間、梶取(かぢとり)有りて、樓の上に有る人に問ひて云く、

「汝、見るや否や。」

と。

 上の人、答ふる樣、

「二つの日(ひ)を見る。亦、白き山、有り。亦、流れ趣きて奔(はし)る事、大きなる坑(あな)に入(い)るが如し。」

と。

 梶取の云はく、

「此れは、知らずや、汝等。魚の王の出來(いでき)たる也。二の日と見るは、魚の目也。白き山と見ゆるは、魚の齒也。水の流れ趣くと見ゆるは、魚の口に水の入るが、引かれて流るる也。此れ、恐れても怖るべし[やぶちゃん注:「恐れねばならないことの最上級の表現。]。汝等、早く、各々、五戒を持し、佛の御名を念じ奉りて、此の難を免れよ。船、魚の口に近付かば、返り得(う)べからず。汝等、其の流れの疾(と)き事を見るべし。」

と。

 其の時に、五百人の人、皆、各々、心を一つにして、佛の御名(みな)を稱し、觀音の御名を唱へて、

「此の難を免れむ。」

と申すに、忽ちに、魚、口を閉ぢて、海に引き入りにけり。然(さ)れば、五百の商人、平(たひら)かに本(もと)の國に返り來たる事を得たり。

 亦云く、此の魚、命、盡きて、人中(にんぢう)に生れて、比丘と成りて、羅漢果(らかんくわ)を證(しよう)したりとなむ、語り傳へたるとや。

   *

「羅漢果を證(しよう)したり」阿羅漢(悟りを得て人々の尊敬と供養を受ける資格を備えた人)としての資格を修行によって証として獲得した。]

 

 以上のやうなのは除外例として、日本にも嶋國なりに大魚の話がいろいろある。「月堂見聞集」に見えた大坂城の堀の大魚なども、長さ四五間、胴の太さ三四尺𢌞り、頭は牝牛ぐらゐとあるから、相當なものであらうが、とにかく堀の中に棲息してゐる點で、その大きさはおのづから制限されざるを得ぬ。魚の種類は何とも書いてないが、淡水魚であることは明かである。

[やぶちゃん注:「月堂見聞集」(げつどうけんもんしゅう)は本島知辰(月堂)著。元禄十(一六九七)年から享保十九(一七三四)年までの江戸・京都・大坂を主としつつ、諸国まで手を伸ばした見聞雑録集。二十九巻。私は所持しないが、国立国会図書館デジタルコレクションの画像で視認出来る(但し、二巻に分かれている)ので、お探しあれ。私はそんなエネルギは今、全く、ない。

「長さ四五間、胴の太さ三四尺」体長七・三~九メートル十センチほど、胴回りが九十一~一メートル二十一センチほど。こんなデカい淡水魚は、いない。]

 

「孔雀樓筆記」の記載によると、賀茂の蟻池では人の溺死することが屢々あり、龍が棲むと傳へ、雨乞ひをすれば必ず效(しるし)があると云はれた。或時二三人の男が釣りに行き、蟒(うわばみ)が出たと云つて逃げ歸つたが、一人は大熱を發して死に、二人は數日間床に就いて平癒した。倂し或俠客の別に見屆けたところでは、池中からさし出した頭は、龍でもなければ蟒でもない。紛れもない鯉であつた。馬の頭よりもつと大きかつたといふから、大坂城の堀の先生と兄たり難く弟たり難きものであつたらう。

[やぶちゃん注:「孔雀樓筆記」江戸中期の儒者で越前福井藩儒の清田儋叟(せいたたんそう 享保四(一七一九)年~天明五(一七八五)年)の随筆。所持しないので原文は示せない。

「賀茂の蟻池」現在の上賀茂神社後背地の北北東、京都府京都市北区上賀茂本山に現存する蟻ケ池。ここ(グーグル・マップ・データ)。]

 

「譚海」にあるのは、安永元年の冬、下總(しもふさ)國松戸で川を堰いて水を干し、六尺餘りの鯉を獲た。大き過ぎて入れる物がないため、酒屋で酒を造る桶に入れて置いたのを、寺の住持が錢を出して貰ひ受け、もとの淵へ放してやつた。もし今後この鯉を捕る者があつても、構へて殺してはならぬぞと十分戒めた上であつた。安永五年に利根川で捕つた鯉は七尺餘りあつたが、これは或人の夢に見えたといふ話で、千住で買ひ取り、不忍池に放したと書いてある。「綺堂隨筆」の「鯉」は嘉永六年の話で、三尺八寸といふのだから、安永の鯉より大分小ぶりだけれど、一度食はうとして疵付けたのを買ひ取る人があり、龍寶寺といふ寺の池に放す。鯉は疵のために死んでしまび、それにまつはる怪談めいた話があつたので、寺内に鯉塚を建てるといふことになつてゐる。捕つた鯉のあまり大きい場合、殺さずに放す話がよくあつたものと見える。

[やぶちゃん注:私は津村淙庵の「譚海」も電子化注している。ここに出るそれは幸いにも既に電子化注してある。「卷之一 下總國松戸にて鯉人の夢に見える事」である。

「安永元年」一七七二年。

『「綺堂隨筆」の「鯉」』「青空文庫」のこちらで読める。

「嘉永六年」一八五三年。

「三尺八寸」一メートル十五センチ。]

 

 「多話戲草(たはけぐさ)」には俳優松本小三郎に關する話が三つある。第一は新川(しんかは)の庄左衞門の打つた網にかかつた鯉で、大き過ぎて容易に上らぬのを、小三郎が水底に入つて網を寄せ、水面に浮み出た。この鯉の寸法は書いてないが、あまり大きいので、食はずに柳嶋の寮の池に放したとある。

 第二は夏の未明に田舟に乘り、長命寺の方へ鱸(すずき)を釣りに出て、大きな緋鯉を引掛けた。勿論急には上らぬので、魚のあばれ次第に舟を操り、弱るのを待つて絲を引き寄せたところ、水面が眞赤になつた。五尺足らずもある緋鯉だから、さすがの小三郎もどうにもならず、てぐすの元を持つてゐると、水面近く浮んだ緋鯉は一跳ね跳ねて絲を引切り、水底深く沈んでしまつた。

 第三は愈々眞打ちで、長命寺下の夕釣りの時であつた。小三郎が中腰になつて手繰る絲が、手應へなしにするすると來るので、不思議に思つて伸び上る途端、一間餘りもあらうと思はれる緋鯉が水上に飛び上り、小三郎の脇腹を引ぱたいて水に落した。水練達者の事とて難なく田舟に這ひ上つたが、山の宿(しゆく)の釣舟屋へ歸つてから、半纏股引腹掛の類を取つて見ると、脇の下二尺ばかり眞黑になつてゐた。かれこれするうちにその疵がひどく痛み出し、小三郎は三十日ほど苦しんだ。何でも隅田川の上、鐘ガ淵あたりに雌雄の大緋鯉が棲んでゐるといふ話で、小三郎が雌の緋鯉を苦しめた返報に、雄の緋鯉が一打ち食はせたものだらうと、釣りの連中は恐れをなし、小三郎もその後は釣りをやめて、投網だけ打たせるやうになつた。

[やぶちゃん注:「多話戲草(たはけぐさ)」江戸の文化・文政期の市井の雑事を集成した「街談文々集要」で知られる石塚豊芥子が、さらに砕けた形の俗語を以って同様の対象を記した随筆。私は孰れも所持しないので原文は示せない。

「俳優松本小三郎」文化年間の女形で松本小三郎がいる。山村基毅のサイト「くろにか」の永井義男氏の「江戸の醜聞愚行」の「娘が立小便」が、まさに「多話戲草」からの引用で、すこぶる面白いので読まれたい。]

 

 古くは「今昔物語」に近江國で鰐と戰つた鯉の話がある。鰐に勝つたといふ以上、當然大きなものでなければならぬが、古人はのんびりしてゐるから、寸法なんぞに拘泥してゐない。「北窓瑣談」には巨椋(おぐら)の池に棲む大鯉の話があつて、二つとも一丈餘りあつたと記されてゐる。その邊の漁師などは、この鮭を鳥羽殿と稱し、それが遊行する時は敬意を表して漁に出ないといふことであつた。橘南谿も初めは信じなかつたが、後にその邊の事を司どる人から、慥かに見たといふ話を聞いた。たゞ近來は絶えて出ないらしいと附け加へてある。

[やぶちゃん注:前者は「今昔物語集」の「卷第三十一」の「近江鯉與鰐戰語第卅六」(近江(あふみ)の鯉(こひ)、鰐(わに)と戰ふ語(こと)第三十六)。「今昔物語集」掉尾の一つ前の話である。□は欠字。

   *

 今は昔、近江の國志賀の郡(こほり)古市(ふるち)の郷(さと)[やぶちゃん注:現在の滋賀県大津市膳所石山附近。ここ(グーグル・マップ・データ)。]の東南に、心見(しむみ)の瀨有り。郷の南の邊に勢多河有り。其の河の瀨也。

 其の瀨に、大海(おほうみ)の鰐[やぶちゃん注:鮫。]、上りて、江(え)[やぶちゃん注:琵琶湖。]の鯉と戰ひけり。

 而る間、鰐、戰、負けぬれば、返り下りて、山背(やましろ)の國[やぶちゃん注:山城国。現在の京都府南部。]に石と成りて居(ゐ)ぬ。

 鯉は、戰ひ、勝ちぬれば、江に返り上りて、竹生島を繞(しま)きて[やぶちゃん注:ぐるりと取り巻いて。]居ぬ。此の故に心見の瀨と云ふ也けり[やぶちゃん注:先の「しまく」という語が訛って「しむみ」となったとする地名発祥伝承。ちょっと無理があるように私は感ずる。]。

 彼の石に成たりりと云ふは、今、山城の國□□郡の□□に有る、此れ也。

 彼の鯉は、今に竹生島を繞きて有るとぞ、語り傳へたる。

 心見の瀨と云ふは、勢多河の□□の瀨也、となむ語り傳へたるとや。

   *

後者の「北窓瑣談」のそれは何度か縦覧したものの見出せなかった。発見し次第、追記する。]

 

 今のやうな遠洋漁業は望みがたいにせよ、萬葉集時代以來、「鰹釣り鯛釣る」業には慣れた國民である。もう少し變つた魚の話が出て來さうなものだと思ふが、大魚と云へば鯉と相場がきまつてゐる。いさゝか物足らぬといふやうなものの、水上に飛び上つて小三郎に一擊を食はせた先生の如きは、正に列傳中の大物であり、魚妖譚に加へてよささうな氣がする。支那の大魚に此して、あまり懸隔が甚し過ぎるといふ負けじ魂の人は、「東遊記」の「おきな」でも引張り出して對抗を試みたらよからう。

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