江戸川乱歩 孤島の鬼(28) 諸戸屋敷
諸戸屋敷
近寄ると、諸戸屋敷の荒廃の有様は、一層甚だしいものであった。くずれた土塀、朽ちた門、それをはいると、境もなくてすぐ裏庭が見えるのだが、不思議千万なことには、その庭が、まるで耕(たが)やしたように、一面に掘り返されて、少しばかりの樹木も、あるものは倒れ、あるものは根こそぎにして放り出してあるといったあんばいで、眼も当てられぬ乱脈であった。それが屋敷全体の感じを、実際以上に荒れすさんだものに見せていた。
怪物のまっ黒な口みたいに見える玄関に立って、案内を乞うと、しばらくはなんのいらえもなかったが、再三声をかけているうちに、奥の方から、ヨタヨタと一人の老婆が出てきた。
夕暮の薄暗い光線のせいではあったが、私は生れてからあんな醜怪な老婆を見たことがなかった。背が低い上に、肉が垂れ下がるほどもデブデブ肥え太っていて、その上佝僂で、背中に小山のような瘤(こぶ)があるのだ。顔はというと、敏だらけの渋紙色の中に、お玉じゃくしの恰好をした、キョロンとした眼が飛び出し、唇が当たり前でないと見えて、長い黄色な乱杭歯(らんぐいば)が、いつでも現われている。そのくせ上歯は一本もないらしく、口をふさぐと顔が提灯(ちょうちん)のように無気味に縮まってしまうのだ。
「誰だえ」
老婆は、私たちの方をすかして見て、怒ったような声で尋ねた。
「僕ですよ。道雄ですよ」
諸戸が顔をつき出してみせると、老婆はじっと見ていたが、諸戸を認めると、びっくりして、頓狂な声を出した。
「おや、道かえ。よくまあお前帰ってきたね。あたしゃもう、一生帰らないかと思っていたよ。そして、そこの人はえ」
「これ僕の友だちです。久しぶりで家の様子が見たくなったものですから、友だちと一緒に、はるばるやってきたんですよ。丈五郎(じょうごろう)さんは?」
「まあお前、丈五郎さんだなんて、お父つぁんじゃないか。お父つぁんとおいいよ」
この醜怪な老婆は諸戸の母親だった。
私は二人の会話を聞いていて、諸戸が父親のことを丈五郎という名で呼んだのも異様な感じだが、それよりも、もっと不思議なことがあった。というのは、老婆が、「お父つぁん」といった。その調子が、気のせいか、軽業少年友之助が死ぬ少しまえに口にした「お父つぁん」という呼び声と、非常によく似ていたことである。
「お父つぁんはいるよ。でもね、このごろ機嫌がわるいから、気をつけるがいいよ。まあとにかく、そんなとこに立っていないで、お上がりな」
私たちはかび臭いまっ暗な廊下を幾曲りして、とある広い部屋に通された。外観の荒廃している割には、内部は綺麗に手入れがしてあったけれど、それでも、どこやら廃墟といった感じをまぬがれなかった。
その座敷は庭に面していたので、夕闇の中に広い裏庭と、例の土蔵のはげ落ちた白壁の一部が、ぼんやり見えたが、庭にはやっぱり、無残に掘り返したあとが歴々(ありあり)と残っていた。
しばらくすると、部屋の入口に、物の怪の気配がして、諸戸の父親の怪老人が、ニョイと姿を現わした。それが、もう暮れきった部屋の中を、影のように動いて、大きな床の間を背にして、フワリと坐ると、いきなり、
「道、どうして帰ってきた」
と、とがめるようにいった。
そのあとから、母親がはいってきて、部屋の隅にあった行燈(あんどん)を持ち出し、老人と私たちのあいだに置いて、火をともしたが、その赤茶けた光の中に浮かび上がった怪老人の姿は、梟(ふくろう)のように陰険で醜怪なものに見えた。佝僂で背の低い点は母親とそっくりだが、そのくせ顔だけは異様に大きくて、顔一面に女郎蜘妹が足をひろげた感じの皺と、ウサギみたいにまん中で裂けている醜い上唇とが、ひと目みたら、一生涯忘れることができないほどの深い印象を与えた。
「一度家が見たかったものだから」
と、諸戸はさいぜん母親にいった通りを答えて、かたわらの私を紹介した。
「ふん、じゃあ貴様は約束を反古にしたわけだな」
「そういうわけじゃないけれど、あなたに是非尋ねたいことがあったものだから」
「そうか、実はおれのほうにも、ちと貴様に話したいことがある。まあ、いいから逗留して行け。ほんとうをいうと、おれも一度貴様の成人した顔が見たかったのだよ」
私の力では、そのときの味を出すことができないけれど、十何年ぶりでの親子の対面は、ざっとこんなふうな、まことに変てこなものであった。不具者というものは、肉体ばかりでなく、精神的にも、どこかかたわなところがあるとみえて、言葉や仕草や、親子の情というようなものまで、まるで普通の人間とは違っているように見えた。
そんな変てこな状態のままで、この不思議な親子は、ポツリポツリと、それでも一時間ばかり話をしていた。そのうち今でも記憶に残っているのは、次の二つの問答である。
「あなたは近ごろどこかに旅行をなすったのじゃありませんか」
諸戸が何かのおりにその点に触れて言った。
「いんや、どこへも行かない。のうお高」
老人はそばにいた母親の方を振り向いて助勢を求めた。気のせいか、そのとき老人の眼が、ある意味をこめてギョロリと光ったように見えた。
「東京でね、あなたとそっくりの人を見かけたんですよ。もしかしたら、私に知らせないで、こっそり東京へ出られたのかと思って」
「ばかな。この年で、この不自由なからだで、東京なんぞへ出て行くものかな」
だが、そういう老人の眼が、やや血走って、額が鉛色に曇ったのを、私は見のがさなかった。諸戸はしいて追及せず、話頭を転じたが、しばらくすると、また別の重要な質問を発した。
「庭が掘り返してあるようですが、どうしてこんなことをなすったのですか」
老人は、この不意撃ちにあって、ハッと答えに窮したらしく、長いあいだ押しだまっていたが、
「なに、これはね、のうお高、六めの仕業だよ。ホラお前も知っている通り、家には可哀そうな一人前でない連中を養ってあるが、そのうちに六という気ちがいがいるのだよ。その六が、なんのためだか、庭をこんなにしてしまった。気ちがいのことだから、叱るわけにもいかぬのでのう」
と答えた。私にはそれが、出まかせの苦しい言いわけだとしか思えなかった。
その夜は、同じ座敷に床を取ってもらって、私たちは枕を並べて寝た。でも二人とも興奮のために、なかなか眠れない。といって迂潤(うかつ)な話もできないので、まじまじと押しだまっていたが、静かな夜に心がすんで行くにつれて、寝静まった広い屋敷のどこかで、細々と異様な人声が、切れてはつづいているのが、聞こえてきた。
「ウウウウウ」
と細くて甲高い唸り声だ。誰かが悪夢にうなされているのかとも思ったが、それにしてはいつまでもつづいているのが変である。
ボンヤリした行燈(あんどん)の光で、諸戸と眼を見かわしながら、じつと耳をすましているうちに、私はふと例の土蔵の中にいるという、あわれな双生児のことを思い出した。そして、もしやあの声は一つからだにつながり合った男女の、世にも無残な闘争を語るものではないかと、思わずゾッと身をすくめた。
あけがたにウトウトとして、ふと眼を醒まし、隣の床に諸戸の姿が見えぬので、私は寝すごしたかと、あわてて飛び起きて、洗面所を尋ねるために廊下のほうへ出て行った。
不案内の私が、広い家の中を、まごまごしていると、廊下の曲り角から、母親のお高がひょいと飛び出して、私の行手をさえぎるように立ちはだかった。猜疑心の強い、不具の老婆は、私が何か家の中を見廻りでもするかと疑ったものらしい。だが、私が洗面所を尋ねると、やっと安心した様子で、「ああ、それならば」といって、裏口から井戸のところへ案内してくれた。
顔を洗ってしまうと、私はふとゆうべの唸り声と、それに関連して、土蔵の中の双生児のことを思い出し、深山木氏が覗いたという、塀そとの窓を一度見たくなった。あわよくば、双生児がその窓のところに出ているかもしれないのだ。
私はそのまま朝の散歩を装い、何気なく邸内を忍び出し、土塀に沿って、裏の方へ廻って行った。そとは大きな石ころのでこぼこ道で、わずかの雑草のほかには、樹木らしいものもない、焼野原の感じであったが、表門から土蔵の裏手に行く途中に、一カ所だけ、ちょうど沙漠のオアシスのように、丸く木の茂った場所があった。枝を分けて覗いて見ると、その中心に、古井戸らしく苔むした石の井桁(いげた)がある。今は使用していないけれど、この淋しい孤島には立派すぎるほどの井戸である。昔は、諸戸屋敷のほかに、ここにも別の屋敷があったのかもしれない。
それはともかく、私は間もなく、問題の土蔵のすぐ下に達した。長い土塀に接して建っているので、そとからでもごく間近く見える。予期した通り、土蔵の二階には、裏手に向かって小さな窓がひらいていた。鉄棒のはまったところまで、例の日記の通りである。私は胸をおどらせながら、その窓を見上げて、辛抱強く立ちつくしていた。はげ残った白壁に、朝日が赤々と照りはえて、開放的な海の香が、ソヨソヨと鼻をうつ。すべてが明るい感じで、この土蔵の中に例の怪物が住んでいるなどとは、どうしても考えられないのだ。
だが、私は見た。しばらくわき見をしていて、ひょいと眼を戻すと、いつの間にか、窓の鉄棒のうしろに、胸から上の、二つの顔が並び、四本の手が鉄棒をつかんでいた。
一つの顔は青黒く、頰骨の立った、醜い男性であったが、もう一つは、赤味はなかったけれど、きめの細かいまっ白な若い女性の顔であった。
少女の一杯に見ひらいた眠が、私の見上げる眼とパッタリ出会うと、彼女は此の世の人間には見ることのできないような、一種不思議な羞恥の表情を示して、隠れるように首をうしろに引いた。
だが、それと同時に、なんということだ。この私もまた、ハッと顔を赤らめて、思わず眼をそらしたのである。私は愚かにも、双生児の娘の異様なる美しさに不意をうたれ、つい胸をおどらせたのであった。
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