トゥルゲニエフ作 上田敏譯 「散文詩」(抄) 戰はむ哉
戰はむ哉
いともいともはかなき事の、時としては心機を轉ずるものかな。
悲觀にくれて、ひと日、大路を辿(たど)る。
憂愁の思に胸苦し。 心、沈欝に亂れぬ。 ふと仰げば………高楊二列のひま、途は、矢の如く遠きに馳す。そをこえて、その途こえて、十步のあなた、眩ゆき盛夏の金光裡、ひとむれ雀、つれだちて、躍りゆく、勢猛に、をかしげに、心だのみ強く。
殊に其群の一羽、必死の勢に橫走りし、胸つきいでゝ誇りかに囀るさま、恐ろしもの無しといふやうなり。 げに勇しき小戰士かな。
時に、見よ、みそら高く鶻(はやぶさ)かけりて、おとし來らむず姿なるを。
これを觀じて、われほゝゑむ。 躰をふるひて、憂愁消えたり。勇氣、豪毅、人生の愛、とみに、われ再び覺ゆ。
かれもわが上に飛べや、わが鶻(はやぶさ)。
われら戰はむ哉。 かれなにものぞ。
[やぶちゃん注:「哉」は「かな」と訓じておく。
「金光裡」「こんくわうり」と読んでおく。黄昏の夕日の光りの中。
「ひとむれ雀」「むれ雀」で「群雀」のソリッドとして採る。
「勢猛に」「いきほひ(いきおい)、まう(もう)に」と訓じておく。
「鶻(はやぶさ)」鳥綱ハヤブサ目ハヤブサ科ハヤブサ亜科ハヤブサ属ハヤブサ Falco peregrinus。但し、原詩は“ястреб”で、これはタカ目タカ科 Accipitridae の鷹類或いはハイタカ属 Accipiter のハイタカ類を指すので、隼、ハヤブサはおかしい。元にしたガーネット夫人の英訳が誤っているのかも知れない。
なお、ここまでが上田敏の単行本訳詩集「みをつくし」に載るものであるが、この詩の最終行に下インデントで、
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(トウルゲニエフ)
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とあって、次の行から、二字下げポイント落ちで、
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露西亞の作家、數はあれど、妙趣最も饒かなるはトウルゲニエフ Ivan Turgenev を秀でたりとす。「散文詩」は千八百八十二年の著にして、思想の奇拔なるを以て名あり。「遊獵日記」「大野のリア王」「親子」等の傑作、今に十九世紀の珍品と稱せられて、作家の模範たり。
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と記してある。]
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