江戸川乱歩 孤島の鬼(13) 再び怪老人
再び怪老人
私は二た晩つづけて諸戸の家をおとずれたのであったが、第一の晩は諸戸が不在のため空しく玄関から引き返すほかはなかったけれど、第二の晩には私は意外な収穫を得たのである。
もう七月の中旬にはいっていて、変にむし暑い夜であった。当時の池袋は今のように賑やかではなく、師範学校の裏に出ると、もう人家もまばらになり、細い田舎道を歩くのに骨が折れるほど、まっ暗であったが、私は、その一方は背の高い生垣、一方は広っぱといったような淋しいところを、闇の中に僅かにほの白く浮き上がっている道路を、眼をすえて見つめながら、遠くの方にポッツリポッツリと見えている燈火をたよりに、心元なく歩いていた。まだ暮れたばかりであったが、人通りはほとんどなく、たまさかすれ違う人があったりすると、かえって何か物の怪(け)のようで、無気味な感じがしたほどであった。
[やぶちゃん注:「師範学校」現在の池袋西口公園(東京都豊島区西池袋一丁目)の位置にあった東京府豊島師範学校(明治四一(一九〇八)年創設で、東京都小金井にある東京学芸大学の旧学芸学部(現在の教育学部)の母体の一つ)。]
先にしるした通り、諸戸の邸(やしき)はなかなか遠く、駅から半みちもあったが、私はちょうどその中ほどまでたどりついたころ、行手に当たって、不思議な形のものが歩いているのを気づいた。背の高さは常人の半分くらいしかなくて、横幅は常人以上に広い一人物が、全身をエッチラオッチラ左右に振り動かしながら、そして、そのたびに或いは右に或いは左に、張子の虎のように、彼の異常に低いところについている頭をチラチラと見せながら、難儀そうに歩いて行くのである。といっては一寸法師のように思われるが、それは一寸法師ではなく、上半身が腰のところから四十五度の角度で曲っているために、うしろからはそんな背の低いものに見えたのだ。つまりひどく腰の曲った老人なのである。
[やぶちゃん注:「駅から半みちもあった」東京都豊島区長崎附近か、或いはその北の豊島区千早や千川辺り、私は師範学校の裏を通るという表現から見て、前者と見た。]
その異様な老人の姿を見て、当然私は、かつて初代が見たという無気味なお爺さんを思い出した。そして、時が時であったし、ところがちょうど私が疑っている諸戸の家の付近であったので、私は思わずハッと息をのんだ。
注意して、悟られぬように尾行して行くと、怪老人は、果たして諸戸の家の方へ歩いて行く。一つ枝道を曲ると、一層道幅が狭くなった。その枝道は、諸戸の邸で終っているのだから、もう疑う余地がなかった。向こうにボンヤリ諸戸の家の洋館が見えてきたが、今夜はどうしたことか、どの窓にも燈火が輝いている。
老人は、門の鉄の扉の前でちょっと立ちどまって、何か考えているようであったが、やがて、扉を押して中へはいって行った。私は急いであとを追って門内に踏み込んだ。玄関と門のあいだにちょっと茂った灌木の植え込みがあって、その蔭に隠れたのか、私は老人を見失った。しばらく様子をうかがっていたが、老人の姿は現われない。私が門にかけつけるあいだに、彼は玄関にはいってしまったのか、それとも、まだ植え込みの辺にうろうろしているのか、ちょっと見当がつかなかった。
私は先方から見られぬように気をつけて、広い前庭をあちこちと探してみたが、老人の姿は消えたかのように、どこの隅にも発見できなかった。彼はすでに屋内にはいってしまったのであろう。そこで、私は思い切って、玄関のベルを押した。諸戸に会って、直接彼の口から何事かを探り出そうと決心したのだ。
間もなくドアがあいて、見知り越しの若い書生が顔を出した。諸戸に会いたいというと、彼はちょっと引っ込んでいったが、直ぐ引き返してきて、私を玄関の次の応接間へ通した。壁紙なり、調度なり、なかなか調和がよく、主人の豊かな趣味を語っていた。柔かい大椅子に腰かけていると、諸戸は酒に酔っているのか、上気した顔をして、勢いよくはいってきた。
「やあ、よくきてくれましたね。このあいだ、巣鴨ではほんとうに失敬しました。あの時はなんだかぐあいがわるくってね」
諸戸は快い中音で、さも快活らしくいうのだった。
「そのあとでもうー度お逢いしていますね。ホラ、鎌倉の海岸で」
決心をしてしまうと、私は存外ズバズバと物がいえた。
「え、鎌倉? ああ、あの時、君は気がついていたのですか、あんな騒動の際だったので、わざと遠慮して声をかけなかったのだが、あの殺された人、深山木さんとかいいましたね。君、あの人とはよほど懇意だったのですか」
「ええ、実は木崎初代さんの殺人事件を、あの人に研究してもらっていたんです。あの人はホームズみたいな優れた素人探偵だったのですよ。それが、やっと犯人がわかりかけたときに、あの騒動なんです。僕、ほんとうにがっかりしちゃいました」
「僕も大方そうだろうとは想像していましたが、惜しい人を殺したものですね。それはそうと、君、食事は? ちょうど今食堂をひらいたところで、珍らしいお客さんもいるんだが、なんだったら一緒にたべて行きませんか」
諸戸は話題を避けるようにいった。
「いいえ、食事はすませました。お待ちしますからどうぞ御遠慮なく。ですが、お客さんというのは、もしやひどく腰の曲ったお爺さんの人じゃありませんか」
「え、お爺さんですって。大違い、小さな子供なんですよ。ちっとも遠慮のいらないお客だから、ちょっと食堂へ行くだけでも行きませんか」
「そうですか。でも、僕くるとき、そんなお爺さんがここの門をはいるのを見かけたのですが」
「へえ、おかしいな。腰の曲ったお爺さんなんて、僕はお近づきがないんだが、ほんとうにそんな人がはいってきましたか」