進化論講話 丘淺次郎 藪野直史附注 第七章 生存競爭(2) 二 無意識の競爭
二 無意識の競爭
動植物の生存競爭を論ずるに當つては、先づ競爭といふ字の意味を廣くして用ゐなければならぬ。我々は普通人間社會に行はれる互に敵意を挾んだ故意の競爭ばかりを見慣れて居る故、競爭といへば直にかやうなものと思ふが、生物界では偶然の競爭でも無意識の競爭でも、故意の競爭と同じ結果を生ずるものは、皆同じく競爭と看倣して論ずる。例へば植物でも一本以上生ずることの出來ぬ區域に、二個の種子が落ちれば、この二個は互に競爭の位置にあるもので、結局はその中孰れか一個だけより生存することは出來ぬ。前の節には主として動物を例に擧げて競爭の避くべからざることを説いたが、競爭といふ字をこの意味に取れば、植物とても競爭の烈しいことは決して動物に劣るものではない。
されば生存競爭には意識的のものと無意識的のものとがあり、また競爭に與る生物の種類からいへば、異種屬間の競爭と同一種屬内の競爭の別がある。その中には個體間の競爭もあれば團體間の競爭もある。意識的の競爭はたゞ若干の動物間に行はれるだけで、下等動物の大半と植物全體とには何時もたゞ無意識的の競爭のみが行はれて居る。且高等動物の間にも無意識的の競爭の行はれることは決して稀でないから、大體より論ずれば、生物の競爭は九分通りまで無意識的であるといつて宜しい。
[やぶちゃん注:「與る」「あづかる(あずかる)」。]
こゝに無意識的の競爭の例を二つ三つ擧げて見るが、誰も知つて居る通り、花園の手入を怠つて捨てて置くと、忽ち雜草が蔓延つて、終には折角植えて置いた花は枯れてなくなり、全く雜草ばかりになつてしまふ。之は何故かといふに、凡そ植物は生きて居る間は自然界の中に一定の場所を占領して之を保つて居なければならぬが、各種ともに皆無數の種子を生じ、芽を出して增加しようと務めるから、是非とも場處占領の競爭が起り、場所を獲たものは盛に繁茂し、場所を失つたものは忽ち萎縮して枯れ失せなければならぬからである。花園は常に人が干渉して雜草の蔓延らぬやうにするから、花は安んじてそれぞれ一定の場所を占め、咲いて居られるが、人間の干渉が止めば直に雜草に場所を奪はれ、生活が出來なくなる。雜草が直接に花を食ふ譯ではないが、花の要するものを雜草も要し、彼れが活きれば我は死ぬといふ間柄故、たとひ雜草はたゞ蔓延ろうと勉めるばかりで、別に敵に勝ちたいといふ料簡がなくとも、その結果は實に劇烈な戰爭と少しも異なる所はない。
[やぶちゃん注:三箇所の『「蔓延」る』は「はびこる」。]
「おらんだげんげ」が今日處々に蔓延つて居るのも同樣の例である。今日この草の生えて居る處はその前何も生えて居ぬ裸地ではなく、從來日本産の草が一面に生えて居た。そこへこの草の種子が紛れ込み、繁殖するに隨つて、前からそこにあつた草を次第に追ひ退け、その跡を占領したのである故、決して廣い空家(あきや)に引移つて來て、平和に繁殖した譯ではない。無意識ながら劇しい競爭に打勝つて、今日の有樣に達したのである。
[やぶちゃん注:「おらんだげんげ」「阿蘭陀蓮華」で「白詰草」、マメ目マメ科シャジクソウ(車軸草・トリフォリウム)属 Trifolium 亜属 Trifoliastrum 節シロツメクサ Trifolium repens の異名。属名はラテン語で「数の3」を指す「tres」と、「葉」の意の「folium」に由来し、「三つの小さな葉を持つもの」を意味する。和名の「詰草(つめくさ)」の由来は、江戸時代にオランダから輸入されたガラス製品の梱包に本種が詰め物として使われていたことに由来し、ウィキの「シロツメクサ」によれば、『日本においては』、『明治時代以降、家畜の飼料用として導入されたものが野生化した帰化植物』である。『根粒菌の作用により』、『窒素を固定することから、地球を豊かにする植物として緑化資材にも用いられている』とある。]
また狹い處に澤山の種子を蒔けば、決して皆が芽を出すことは出來ず、芽を出したものの中でも、極少數のものの外は生長し續けることは出來ぬ。籾は一粒每に一本の稻を生ずべきもので、試に一粒づゝ間を隔てて廣い處に蒔けば、必ずその通りになるが、苗代には幾ら澤山の籾を蒔いても、その苗代一杯になるだけより以上の稻の芽は出ぬ。またこの若い芽は各々生長して穗を生ずる筈のもので、實際之を廣い田に移し、間を少しづゝ隔てて植ゑると、忽ち生長して多量の米を生ずるが、若しそのまゝに捨て置いたらば、殆ど千本の中に一本も眞に生長して穗を生ずるものは出來ぬ。總べて植物が生長するには、各々一定の面積を有する土地と、一定量の水・空氣・日光等を要するもの故、狹い場所に多數が生長しようとするときには、互にこれらの需要品を奪ひ合はざるを得ぬ。尤も、供給の額が需要の額を超えるときは、競爭も起らぬ筈であるが、日光の如きものですらも、例へば一本が生長すれば、その蔭に當るものは十分にその恩に浴することが出來ぬから、植物は日光のためにも競爭をせざる譯には行かぬ。兄弟墻に鬩ぐことは無數の種子を生ずる植物に於ては、到底免るるを得ぬ所である。
[やぶちゃん注:「兄弟墻に鬩ぐ」「けいてい、かきにせめぐ」と読む。兄弟姉妹又は仲間同士が内輪喧嘩をすることを言う。「詩経」の「小雅」の「常棣(じょうてい)」の一節が出典。因みに「常棣」とは、バラ目バラ科スモモ属ニワウメ亜属ニワウメ変種 Prunus japonica var. glandulosa(或いはニワザクラ Prunus
glandulosa cv. Alboplena)を指す。]
斯くの如く無意識的の競爭は自然界到る處に行はれて居るが、意識的と無意識的とを論ぜず、互に競爭するのは如何なる動植物かと見れば、何時も必ず同處に住し、同一の需要品を有するものばかりで、その中でも彼の需要品と此の需要品とが相重り合ふことの多いものほど、その間の競爭が劇烈である。而して如何なる動植物が共同の需要品を有することが最も多いかと尋ねると、無論同一種類に屬するもので、これらは形狀・構造が同一なるのみならず、食物が全く同一であり、その他一般の習性が同一であつて、自然界の中に同一なる位置を占めるべき資格のもの故、素より總べての點に於て互に競爭せねばならぬが、動植物の種類は何十萬もあること故、その中には屬を異にし、種を異にしても、餘程までは同一の需用品を要するものが澤山にある。これらは皆人間社會に譬へていへば、所謂商賣敵(かたき)で、相接近して生活する以上は同じく競爭を免れぬ。彼の儲けた一錢は若し彼なかりせば我が懷に入つた筈の一錢である。故に彼が一錢を儲けたのは恰も我が握つた手から一錢を椀(も)ぎ取つたと同じであると感じて、人間社會では意識的に競爭するが、之よりも尚一層劇烈な無意識的の競爭が自然界の到る處に春夏秋冬の別なく、目夜絶えず行はれて居る。倂し無言無聲の裡に行はれて居る故、たゞ物の表面のみを見る人等は、通常斯かることを知らずに過して居るのである。
« 柴田宵曲 ねずみの句 | トップページ | 進化論講話 丘淺次郎 藪野直史附注 第七章 生存競爭(3) 三 異種間の競爭 »