柴田宵曲 續妖異博物館 「蜂」
蜂
大國主命が一夜を明された蜂の室はどんなものであつたか、「古事記」には何の說明もないからわからない。芥川龍之介の「老いたる素戔嗚尊」に「室の天井からは幾つとなく、大樽程の蜂の巢が下つてゐた。しかも又巢のまはりには、彼の腰に下げた高麗劍(こまつるぎ)より、更に一かさ大きい蜂が、何匹も悠悠と這ひまはつてゐた」とあるのは無論作者の空想である。神代の蜂の室は全く見當が付かぬ。
[やぶちゃん注:「大國主命が一夜を明された蜂の室はどんなものであつたか」ウィキの「大国主命」によれば、『根の国のスサノオの家で、オオナムヂ』(オオクニヌシの初名)『はスサノオの娘のスセリビメ(須勢理毘売命)と出会い、』二『柱は一目惚れした。スセリビメが「とても立派な神が来られました」というので、スサノオはオオナムヂを呼び入れたが』、『「ただの醜男ではないか。葦原色許男神(アシハラシコヲ)と言った方が良い。蛇の室(むろや)にでも泊めてやれ」と、蛇がいる室に寝させた。スセリビメは「蛇の比礼(ひれ:女性が、結ばずに首の左右から前に垂らすスカーフの様なもの)」を葦原色許男神(大国主)にさずけ、蛇が食いつこうとしたら比礼を三度振るよういった。その通りにすると』、『蛇は鎮まったので、葦原色許男神は無事に一晩寝て蛇の室を出られた。次の日の夜、スサノオは葦原色許男神を呉公(ムカデ)と蜂がいる室で寝させた。スセリビメは「呉公と蜂の比礼」をさずけたので、葦原色許男神は無事にムカデと蜂の室を出られた』とある。オオナムヂの試練はまだ続くが、結果的には素戔嗚の命によってスセリビメと結ばれ、「大国主」の名を与えられて、国造りを始める。詳細は引用のリンク先を参照されたい。
『芥川龍之介の「老いたる素戔嗚尊」』初出(原題は後の正篇分の「素戔嗚尊」のまま)は『大阪毎日新聞』(夕刊・大正九(一九二〇)年三月三十日から同年六月六日。『東京日日新聞』も同じ開始日でで最終回は六月七日)で、大正一二(一九二三)年五月春陽堂刊の作品集「春服」に、第一回から第三十五回(正篇「素戔嗚尊」)を削除し、残りの十回分のみに加筆して「老いたる素戔嗚尊」と成して収録させた。我々が普通に読んでいる「素戔嗚尊」の削除部分は生前の単行本には全く未収録であった。
「室の天井からは幾つとなく、大樽程の蜂の巢が下つてゐた。しかも又巢のまはりには、彼の腰に下げた高麗劍(こまつるぎ)より、更に一かさ大きい蜂が、何匹も悠悠と這ひまはつてゐた」宵曲は「その」(以下参照)を落している。ここは段落冒頭に変更が加えられている箇所で、まず、初出ならば(読みは一部に留めた。下線はやぶちゃん)、
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そのかすかな夕明りに透して見ると、室(むろ)の天井からは幾つとなく、大樽(おほだる)程の蜂の巢が下つてゐた。しかもその又巢のまはりには、彼の腰に下げた高麗劍(こまつるぎ)より、更に一かさ大きい蜂が、何匹も悠々と這ひまはつてゐた。
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であるのに対し、単行本「春服」では、
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その微光に透して見ると、室の天井からは幾つとなく、大樽程の蜂の巢が下つてゐた。しかもその又巢のまはりには、彼の腰に下げた高麗劍より、更に一かさ大きい蜂が、何匹も悠々と這ひまはつてゐた。
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なお、何故か、岩波版旧全集の普及版では根拠不明ながら、
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その薄明りに透すかして見ると、室の天井からは幾つとなく、大樽程の蜂の巢が下つてゐた。しかもその又巢のまはりには、彼の腰に下げた高麗劍より、更に一かさ大きい蜂が、何匹も悠々と這ひまはつてゐた。
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となっている。なお、私が唯一正統として拠って立つところの岩波版旧全集の最後のものでは、単行本「春服」版(太字で示した)が採用されている。]
併し古人の蜂を飼ふ目的が何に在つたにせよ、蜂を飼ふ者のあつたことは事實である。京極太政大臣宗輔などは蜂飼の大臣と云はれたくらゐ、多くの蜂を飼つてゐたが、その蜂に何丸といふやうな名を付けて、誰を刺して來いと命ずれば、その通り刺して來る。出仕の車に蜂が集まつてぶんぶん飛んでゐるのに、とまれと聲をかければ靜かになつた。蜂の扱ひ方などは手に入つたもので、鳥羽殿の蜂の巢が俄かに落ちて、座上に蜂が飛び散つた時など、人々の逃げ騷ぐ中に、御前に在つた枇杷の一房を取り、琴の爪で皮を剝いて差上げると、蜂は悉くこれに取り付いてしまつた。かういふ處置が出來たのも、蜂飼の大臣なればこそで、平生無益の事に耽るやうに嘲つた人々も、今更の如く感服せざるを得なかつた(十訓抄)。
[やぶちゃん注:「京極太政大臣宗輔」藤原宗輔(承暦元(一〇七七)年~応保二(一一六二)年)。ウィキの「藤原宗輔」より引く(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)。『漢籍や有職故実に通じ、音楽に秀で、かつ控えめな人物であったが、非常な健脚であり、そのほか個性的なエピソードを数多く残した』。『嘉保二年(一〇九六年)、まだ五位蔵人という低い官職の時に父宗俊が死去、さらに側近として仕え主君であり笛を通じた友人でもあった堀河天皇が早世するなどの不幸もあり、昇進が遅れ』、『四十六歳でようやく参議として公卿に列した。大治三年(一一二九年)の除目では、宗輔が外戚の伯父である源師頼の任官された職務を誤って書き写した公文書を作成してしまい、除目のやり直しが行われた』。『平素からあまり政治に口出しすることはなく、趣味の世界に没頭していく。音楽においては、笛や琵琶・箏に秀でており、当人も「死ぬのは怖くないが、笛が吹けなくなるのが困る」と語った。また、娘・若御前も父に勝るとも劣らない才能を持ち(「若御前」とは、鳥羽法皇が彼女の曲を聞くために男装をさせて院の御所に上げさせた事に由来している)、後に当代随一の音楽家として名を残した藤原師長(頼長の子、後の太政大臣)もこの親子から箏を習った』。『もう一つの趣味は自然への親しみであった。公家が自ら草花を育てる事は考えられなかったが、宗輔は自ら菊や牡丹を育てて、藤原頼長や鳥羽上皇ら親しい人々に献上している。何よりも人々を驚かせたのは蜂を飼いならしていたと言う話である。当時の日本にも養蜂は伝わっていたとはいえ、「古事談」ではそれを「無益な事」と人々から嘲笑されていたが、宮廷に蜂が大発生した際に宗輔だけが冷静に蜂の好物である枇杷を差し出したところ、蜂はその蜜を吸って大人しくなったと伝え、「十訓抄」では飼っている蜂の一匹一匹に名前を付けては自由に飼い慣らして、気に入らない人間を蜂に命じて刺させたとしている』。『宗輔が権中納言であった五十六歳の時にわずか十三歳の関白』『藤原忠実の子』である『頼長が同僚となった。四十三歳と親子以上の年齢差があった二人であったが、才気に溢れて敵が多かった頼長に対して、宗輔は年長者として接し、頼長も宗輔に対して敬意を払った。この信頼関係は頼長が大臣に昇進した後も続き、頼長はしばしば』、『宗輔と政治的な相談をしたり、息子』『師長への音楽の教授を依頼するなどの繋がりを深めた。頼長から見れば』、『宗輔は高齢になってもなお』、『職務を忠実にこなしている模範となる人物であり、大臣に昇進させないのはおかしい事であると鳥羽法皇らに度々奏上したが、頼長存命の間には実現しなかった』。『保元元年(一一五六年)、保元の乱によって頼長が討たれると、頼長側近の貴族たちは宮廷から追放された。だが、その筆頭であった大納言宗輔には何の処分も下らなかった。既に宗輔は八十歳の高齢であり、このような老人が反乱の企てに参加出来る訳が無いと、後白河天皇らから思われたからだと言われている。その数ヵ月後、頼長死亡に伴う人事異動によって右大臣に任命されたのである(これは平安時代を通じて大臣初任の最高齢記録である)。そして翌年には遂に太政官の最高位である太政大臣へと昇進する』。『宗輔の太政大臣時代には後白河上皇と二条天皇の確執、院近臣間の対立など事態は激動し、やがて平治の乱が発生する。宗輔はその健脚を駆使して難局を乗り切り、八十四歳で引退するまで長い政治生活を送った』。『「堤中納言物語」に登場する「虫愛づる姫君」のモデルは宗輔』及び『若御前父娘であるとされ』ている、とある。
以上の「十訓抄」のそれは、前に次の段落で宵曲が語「餘五太夫」の話が先にある。「十訓抄」の「第一 可定心操振舞事」(心・操(みさを)・振舞(ふるまひ)を定むべき事)の六条目に出る。底本は岩波文庫永積安明校訂本(昭和一七(一九四二)年刊)を用いたが、一部の句読点や記号を変更・追加し、永積が補訂された追加字を本文に繰り込み、読みの一部はオリジナルに歴史的仮名遣で附した。直接話法も改行した。踊り字「〱」「〲」は正字化した。第二部(京極宗輔の話)に移る箇所は、一行空けを施した。
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蜂といふむしも又、かかること、ありけり。昔、中納言和田麿[やぶちゃん注:不詳。]ときこゆる人、おはしけり。其末に餘五大夫[やぶちゃん注:「よごだいふ(よごだゆう)」と読んでおく。不詳。]といふ兵(つはもの)ありけり。年比(としごろ)、三輪の市(いち)のかたはらに城を搆(かまへ)て、よそほひ、いかめしうして住(すみ)けるほどに、妻敵(めがたき)にせめられて、城もやぶれ、兵もことごとくうち失はれぬ。からうして、身一つ命ばかり生(いき)て、初瀨山のおくにこもり居にけり。敵、あさりもとめけれども、深く用意して、笠置(かさぎ)ときこゆる山寺の岩屋のありけるに隱れて、二、三日、ありけるほどに、岩屋のほとりに、寺蛛(じぐも)と云(いふ)くもの、ゐ[やぶちゃん注:網。]をかけたりけるに、大(おほい)なる蜂のかゝりたりけるを、蛛のゐを卷(まき)かけて卷ころさむとしけるとき、憐(あはれ)をおこして、とりはなちて、蜂にいひけるやうは、
「生(しやう)有(ある)物は、命にすぎたるものなし。先(さきの)世の戒(いましめ)か、すくなくて、ちく生と生れたれど、命おしむこゝろは、人にかはらじ。恩をおもくすることは、おなじかるべし。我、敵にせめられて、からき目を見る。身をつみて、汝が命を助けん。必ずおもひしれ。」
といひて、はなちつ。其夜の夢に、柿の水干はかま着たるおとこの來て、いふやう、
「晝の仰せ、悉く、みゝにとゞまりて侍り。御心ざし、まことにかたじけなし。我、拙(つたなき)身をうけたりといへども、いかでか、其恩をしらざらむ。願(べがはく)は申さん儘にかまへ給へ。きみの敵を亡(ほろぼし)て奉らむ。」
と云。
「たが、かくはのたまふぞ。」
といへば、
「晝、くものゐにかゝりて候つる蜂は、をのれにはべる。」
と云。あやしながら、
「いかにして、敵はうつべきぞ。我(わが)身にしたがひたりしものどもも、十が九はほろびうせぬ。城もなし。すべて、たちあふべきかたも、なし。」
といへば、
「それは何かはのたまふ。殘(のこり)たるものども、侍るらん。二、三十人ばかりをかまへて、かたらひ集(あつめ)たまへ。此(この)うしろの山に、蜂の巢、四、五十ばかり有(あり)。これも皆、我(わが)同心なる物也。かたらひあつめて、力をくはへ奉らむに、などかうちたまはざらむ。但(ただし)、其(その)軍(いくさ)したまはん日は、なよせたまひそ。本(もと)の城のほどに假屋をつくりて、そこになり、ひさご・壺・瓶子(へいじ)[やぶちゃん注:酒器の一種。胴の膨らんだ細長い器で口元は細首となった、現在のビン方のもの。]やうのものを、おほく、おきたまへ。やうやうまかりつどはんずれば、そこに隱れをらむためなり。しかじか、其日、よからむ。」
とちぎりて、いぬ、とおもふほどに、夢、さめぬ。うけること[やぶちゃん注:当てにならぬ、馬鹿げたこと。]なれど、いみじくあはれにおぼえて、夜にかくれ、ふるさとへいでゝ、ここかしこにかくれたるもの等(ども)に語(かたらひ)て云。
「我、いけりとても、かひなし。最後に、矢、一(ひとつ)、射てしなばやとおもふ。弓矢のみち、さのみこそあれ、各(おのおの)、ともなへ。」
といひければ、
「まことにしかるべき事。」とて、五十人ばかり、出(いで)にけり。假屋、造(つくり)て、ありし夢のまゝにしつらひをれば、
「これは何のためぞ。」
とあやしみければ、
「さるゆへあり。」
とて、しつらひをきつ。其朝(あした)、ほのぼのと明(あけ)はなるゝ程より、山のおくのかたより、大きなる蜂、一、二百・二、三百、うちむれて、いくらともなく、入(いり)あつまるさま、いとけむづかしく見えけり。日さし出(いづ)るほどに、敵のもとへ、
「これなむ侍(はべり)。いそぎ、見參(けんざん)すべし。」
と言へりければ、敵、よろこびて、
「尋失(たづねうしな)ひて、やすからずおぼえつるに、いみじき幸(さいはひ)かな。」
とて、三百騎ばかり、うち出(いで)たり。勢(いきほひ)、くらぶるに、物のかずならねば、あなづりて、いつしか、かけ組(くむ)ほどに、蜂ども、假屋より雲霞のごとく涌(わき)いでゝ、敵一人に、二、三十・四、五十、取りつき、目鼻ともなわかず、物具(もののぐ)のあきまを、さしつめけり。手・足・ふところにも入(いり)つゝ、すべてはたらく所ごとに、さしぞんぜずといふこと、なし。うちころせども、三、四十ばかりこそ死すれ、敵にあふまでは、おもひもよらず、今は目をふさぎ、うそをふきて、あきまをさゝれじと、あはてさはぐほどに、弓矢のゆくゑも知らず、かゝりければ、おもふさまには、せめぐりて、敵(かたき)三百餘騎、時のほどにたやすくうちころされてければ、おもひなく、もとのあとに歸居(かへりゐ)にけり。死(しし)たる蜂、少々ありけるをば、笠置の後の山に埋(うづみ)て、上に堂たてなどして、每年に蜂の忌日とて恩を報じけり。子孫のはかばかしきなかりける後には、此寺をば、敵(かたき)の孫にあたりける法師の、
「祖父の敵なりける蜂の行衞なり。」
とて、燒失(やきうせ)てければ、
「いみじき嗚呼(をこ)のものなり。」
とて、奈良、うつはらはれてけるとぞ。
すべて、蜂は短少のものなれども、仁智の心ありといへり。さればにや、京極太政大臣宗輔公は、蜂をいくらともなく飼(かひ)たまひて、
「なに丸。」
「か丸。」
と名付(なづけ)て、
「なに丸、それがし。」
[やぶちゃん注:宮内庁書陵部本「十訓抄」では、ここの部分が、宵曲の梗概のように、『と名を付けて、呼び給ひければ、召すにしたがひて、恪勤者などを勘當(かんだう)し給ひけるには、「なに丸、某(なにがし)刺して來(こ)」』となっている。「恪勤者」(かくごんしや)は平安時代に院・親王家・大臣家などに仕えた武士のことで、単に「かくごん」とも称した。「勘當」は「法や仕来りに合わせて勘(かんが)えて罪に当てる」の意で、責めて叱ること。]
とのいはれければ、其ままにぞふるまひける。出仕のとき、車のうらうへ[やぶちゃん注:あちらこちら。]のもの見[やぶちゃん注:牛車の左右の立て板に設けた窓。]に、はらめきけるを[やぶちゃん注:蜂がぱらぱらと音を立てているのに対して。]、
「とゞまれ。」
とのたまひければ、とゞまりけり。世には「蜂飼(はちがひ)の大臣殿(おとど)」とぞ申(まうし)ける。ふしぎの德、おはしけるひとなり。漢の蕭望(せうばう)が、雉をしたがへたりけるにことならず[やぶちゃん注:宮内庁書陵部本では「蕭望」は「蕭芝」(しょうし)。尚書郎に叙せられた蕭芝は至孝の人であったが、雉数千羽が彼の屋敷に居り、芝が宮中の宿直に行く際には分かれ道まで見送り、終わって家に帰って来る際には家の門内に入り、車前で飛び回って鳴いて迎えたと蕭広済著「孝子傳」に載るのに基づき、「蒙求」(もうぎゅう)には「蕭芝雉隨」として出る。この人物、前者の「蕭望」なら、前漢の政治家蕭望之(しょう ぼうし ?~紀元前四六年)、後者「蕭芝」なら、西晋の初期の大臣蕭芝(一九〇年~二七三年)のことになるが(孰れも尚書職に就任している)、原典の蕭広済の「孝子傳」なるものは前漢の成立のようだから、これは蕭望之である。]此殿の蜂をかひたまふを、世の人、
「無益のこと。」
と言ひけるほどに、五月の比(ころ)、鳥羽殿[やぶちゃん注:現在の京都市伏見区鳥羽にあった白河・鳥羽両上皇の離宮。白河天皇が上皇になった応徳三(一〇八六)年にここの経営に着手、翌年、ここに入っている。鳥羽上皇も譲位後にここに入り、殿舎・仏殿の増築等を行なっている。]にて、蜂の巢、俄(にはか)に落ちて、御前におほく飛散(とびちり)たりければ、人々、
「刺されじ。」
とて逃げ騷ぎけるに、相國[やぶちゃん注:太政大臣(及び左大臣と右大臣)の唐名。]、御前に枇杷のありけるに、一ふさ、とりて、琴爪にてこれをむきて、さしあげられたりければ、蜂のあるかぎり、つきて、ちらざりけるを、付(つき)ながら、御供の人をめして、やはら、たびてけり。、院は、
「かしこくぞ。宗輔が候(さふらひ)て。」
と、御感ありけり。
*]
「十訓抄」にあるもう一つの蜂の話は、餘五太夫といふ武將である。三輪の市の側に城を作つて、いかめしく住みなすほどに、妻の敵(かたき)に攻められて城は陷り、兵どもも離散してしまつた。餘五太夫は身を以て遁れ、初瀨山の奧に隱れる。敵は隈なく探り求めたけれど、笠置といふ山寺の岩屋に潛んで二三日を過した。或日蜘蛛の巢に大きな蜂がかゝつて卷き殺されさうになつた時、自分の身の上に引き比べてあはれに思ひ、網から放してやつた。その夜の夢に水干(すゐかん)袴を著けた男が現れ、餘五太夫の厚意を感謝し、何とかして敵をほろぼしませう、私は晝間蜘蛛の網から放していたゞいた蜂でございます、といふ。戰ふと云つたところで、手下の兵は十の九まで亡び、城もない、これでは仕樣がないと答へると、それでも生き殘りの兵がありませうから、二三十人もお集めなさい、このうしろの山に蜂の巢が四五千ばかりあります、これは皆私の同志ですから、呼び集めて戰ひませう、倂し此方からお攻めになつてはいけません、城のあとに假屋を作つて、瓢簞、壺瓶子(つぼへいし)の類を澤山置いて下さい、蜂どもの隱れ場所にするためです、といふことであつた。夢がさめて後、餘五太夫は意を決して故鄕に赴き、殘黨を集めて今一戰試みようと云ふと、たちどころに五十人ばかり集まつた。次の日はほのぼの明けの頃から、大きな蜂が百、二百、三百と集まつて來て、例の隱れ場所に入る。日の出るのを待つて、敵方に通告したら、三百騎ばかりで押寄せて來た。此方は五十人の寄せ集めだから、敵は侮つて攻め立てるほどに、假屋の中から蜂が雲霞の如く湧き出し、一人每に二三十、四五十と取り付いて、目と云はず鼻と云はず刺しまくるので、弓矢の沙汰に及ばず、先づ顏を塞ぐことを專らにしなければならぬ。敵三百餘騎は時の間に討たれてしまつた。死んだ蜂が少々あつたのを、笠置の彼の山に埋めて堂を建て、年々蜂の忌日には報恩の供養を怠らなかつた。
[やぶちゃん注:前段注に原文有り。]
餘五太夫の一戰は蜂の防衞軍によつて勝ち得たのであるが、これにちよつと似た趣の話が「今昔物語」にある。たゞこれは武士ではない。京に住む水銀商人で、馬百餘疋に荷を積み、少年に馬を追はせて伊勢國へ往來するのに、未だ嘗て紙一枚取られたことがなかつた。伊勢には有名な盜賊の一團があつて、鈴鹿山の路を要して旅人の荷を奪ふ。水銀商人の荷も遂に襲はれた。少年達はどこかへ逃げてしまふ。一商人は辛うじて高い山の上へ逃げのぴた。さうして盜賊などは事ともせぬ面魂で、虛空を見上げては、頻りに遲い遲いと云つてゐる。半時ばかりして三寸ばかりの大きな蜂が下りて來て、ぶんと云つて傍にある高い木の枝にとまつた。商人はこれを見ながら、依然遲い遲いと云ひ續けて居つたが、やがて大空に二丈ばかりの赤い雲の湧くのが遙かに見えた。その雲が漸く低くなつて、盜賊どもが品物を奪つて入り込んだ谷に蔽ひかゝる。前に木の枝にとまつた蜂も、翅を鳴らして其方へ行つた。赤い雲と見えたのはおびただしい蜂の群だつたので、八十餘人の盜賊はこの蜂の襲擊を受けた。餘五太夫の場合と同じく、多少は打ち殺したにしても、一人あたり二三石の蜂が取り付いたのだから、さすがの盜賊も施す術がなく、皆往生してしまつた。蜂が飛び去るにつれて雲の晴れたのを見て、水銀商人はおもむろに谷に入り、自分の品物の外に、盜賊の年來取り溜めた物まで取つて歸り、家は愈愈富み榮えた。この商人はかねて家に酒を造つて居つたが、他の事には少しも使はず、すべて蜂に吞ませて置いた。彼が多年京と伊勢の間を往來しながら、何も奪はれなかつたのは、全くこの援護部隊あるがためだつたのに、事情を知らぬ盜賊がうつかり手を出して、一切を失ふに至つたのである。當時に於てかういふ飛行部隊を有する者は、恐らくこの商人以外になかつたらうと思ふ。
[やぶちゃん注:「二三石」江戸時代の一般概念から言うと、体積としての一石(こく)は俵二つ半である。
以上は、「今昔物語集」の「卷第二十九」の「於鈴香山蜂螫殺盜人語第卅六」(鈴香(すずか)の山にして、蜂、盜人(ぬすびと)を螫(さ)し殺す語(こと)第卅六(さむじふろく))。
*
今は昔、京に水銀商(みづかねあきなひ)[やぶちゃん注:水銀は当時、白粉(おしろい)の主原料で、その白粉でも「伊勢白粉」は江戸時代まで最も知られたブランド品であった。]する者、有りけり。年來(としごろ)、役(やく)と[やぶちゃん注:一途に励んで。]商ひければ、大きに富みて、財(たから)、多くして、家、豐か也けり。
伊勢の國に、年來、通ひ行(あり)きけるに、馬(むま)百餘疋に諸(もろもろ)の絹・絲・綿・米などを負(おほ)せて、常に下り上り行(あり)きけるに、只、小さき小童部(こわらはべ)を以つて、馬を追はせてなむ有りける。
此樣(かやう)にしける程に、漸く、年、老いにけり。其れに、此く行(あり)きけるに、盜人(ぬすびと)に、紙一枚、取らるる事、無かりけり。然(しか)れば、彌(いよい)よ富(と)び增(まさ)りて、財、失する事、無し。亦、火に燒け、水に溺(おほる)る事、無かりけり。
就中(なかんづく)に、伊勢の國は、極(いみ)じき[やぶちゃん注:「恐るべき」。一文文末の「所也」に係る。]、父母が物をも奪(ば)ひ取り、親き踈(うと)きをも云はず、貴きも賤しきも蕳(えら)ばず、互に𨻶(たがひ)を量りて魂(たましひ)を暗(くら)まして、弱き者の持ちたる物をば憚らず奪ひ取りて、己(おのれ)が貯へと爲る所也。其れに、此の水銀商が、此く晝夜に行(あり)くを、何(いか)なる事にか、此れが物をのみなむ取らざりける。
而(しか)る間、何也(いかなり)ける盜人にか有りけむ、八十餘人、心を同じくして、鈴香の山にて、國々の行來(ゆきき)の人の物を奪(ば)ひ、公(おほや)け・私(わたくし)の財(たkら)を取りて、皆、其の人を殺して年月(としつき)を送りける程に、公(おほやけ)も、國の司(つかさ)も、此れを追捕(ついぶ)せらるる事も、否(え)無かりけるに、其の時に、此の水銀商、伊勢の國より、馬(むま)百餘疋に諸(もろもろ)の財(たから)を負せて、前々の樣に小童部を以つて追せて、女(をむな)共(ども)など具して、食物(くひもの)などせさせて[やぶちゃん注:旅中の食事の世話などをさせて。]上ぼりける程に、此の八十餘人の盜人、
「此(こ)は極(いみ)じき白物(しれもの)かな。此の物共、皆、奪(ば)ひ取らむ。」
と思ひて、彼(か)の山の中にして、前後(まへうしろ)に有りて、中に立ち挾(はさ)めて、恐(おど)しければ、小童部は、皆、逃げて去りにけり。物負せたる馬共、皆、追ひ取りつ。女共をば、皆、着たる衣共を剝ぎ取りて、追ひ棄てけり。
水銀商は、淺黃(あさぎ)の打衣(うちぎぬ)に靑黑(あをぐろ)の打狩袴(うちかりばかま)[やぶちゃん注:光沢のある絹製の狩衣(かりぎぬ)の下に穿く袴。]を着て、練色(ねりいろ)[やぶちゃん注:薄い黄色。]の衣(きぬ)の、綿、厚(あつ)らかなる三つ許(ばか)りを着て、菅笠を着て、草馬(めむま)[やぶちゃん注:雌馬。]に乘りて有りけるが、辛くして逃げて、高き丘(をか)に打ち上ぼりにけり。盜人も此れを見けれども、
「爲(す)べき事、無き者なんめり。」
と思ひ下(くだ)して、皆、谷に入りにけり。
然(さ)て、八十餘人の者、各(おのおの)思しきに隨ひて、諍(あらそ)ひ分かち取りてけり。取りて、「何(いか)に」と云ふ者、無(な)ければ、心靜かに思ひけるに、水銀商、高き峰に打ち立ちて、敢へて事とも思ひたらぬ氣色(けしき)にて、虛空(おほぞら)を打ち見上げつつ、音(こゑ)を高くして、
「何(いづ)ら、何ら、遲し、遲し。」
と云ひ立てりけるに、半時許り有りて、大きさ、三寸許りなる蜂の怖し氣なる、空より出で來て、
「ぶぶ。」
と云ひて、傍らなる高き木の枝に、居ぬ。
水銀商、此れを見て、彌(いよい)よ念じ入りて、
「遲し、遲し。」
と云ふ程に、虛空に、赤き雲、二丈許りにて、長さ遙かにて、俄かに見ゆ。道行く人も、
「何なる雲にか有らむ。」
と見けるに、此の盜人共は取りたる物共、拈(したた)め[やぶちゃん注:荷造りし。]ける程に、此の雲、漸く下(くだ)りて、其の盜人の有る谷に入りぬ。此の木に居たりつる蜂も立ちて、其方樣(そなたざま)に行きぬ。早(はや)う、此の雲と見つるは、多の蜂の群(むれ)て來るるが、見ゆる也けり。
然(さ)て、若干(そこばく)の蜂、盜人每(ごと)に、皆、付きて、皆、螫し殺してけり。
一人に、一、二百の蜂の付きたらむだに、何ならむ者かは堪へむと爲(す)る[やぶちゃん注:反語。]。其れに、一人に、二、三石(ごく)の蜂の付きたらむには、少々をこそ打ち殺しけれども、皆、螫し殺されにけり。
其の後(のち)、蜂、皆、飛び去りにければ、雲も晴れぬと見えけり。
然て、水銀商は、其の谷に行きて、盜人の年來(としごろ)取り貯へたる物共、多く、弓・胡錄(やなぐひ)[やぶちゃん注:矢を入れて携帯するための箙(えびら)。]・馬(むま)・鞍・着物などに至るまで、皆、取りて京に返りにけり。
然(しか)れば、彌(いよい)よ富み增(まさ)りてなむ有りける。
此の水銀商は、家に酒を造り置きて、他の事にも仕(つか)はずして、役(やく)と[やぶちゃん注:専ら。ただもう。]蜂に吞ませてなむ、此く祭りける。然れば、彼(か)れが物をば、盜人も取らざりけるを、案内も知らざりける盜人の取りて、此(か)く螫し殺さるる也けり。
然(しか)れば、蜂そら[やぶちゃん注:副助詞「すら」の転訛。]、物の恩は知りけり。心有らむ人は、人の恩を蒙りなば、必ず酬(むく)ゆべき也。亦、大きならむ蜂の見えむに、專(もは)らに打殺すべからず。此(か)く諸(もろもろ)の蜂を具し將(ゐ)て來て[やぶちゃん注:引き連れて来て。]、必ず怨(あた)[やぶちゃん注:怨み。仇(あだ)。]を報ずる也。
此れ、何れの程の事にか有けむ[やぶちゃん注:話柄時制が不明であることを謂う。]、此くなむ語り傳へたるとや。
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「搜神後記」に建安郡の山賊の話がある。百餘人の同勢で先づ民家を脅かし、次いで或寺に亂入した。この寺の供養に用ゐる諸道具は別室にしまつてあつたが、賊がその戶を壞すと同時に、法衣を入れた革籠から數萬疋の蜜蜂が飛び出し、一時に俄に襲ひかゝつた。狼狽した賊は最初に奪つた物を皆抛り出して、逃げ去らざるを得なかつた。
蜂に關する限り、支那よりも日本の方が話が大きいやうである。
[やぶちゃん注:以上は「搜神後記」の「第三卷」の以下。
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元嘉元年、建安郡山賊百餘人破郡治、抄掠百姓資產、子女、遂入佛圖、搜掠財寶。先是、諸供養具別封置一室。賊破戶、忽有蜜蜂數萬頭、從衣簏出、同時噬螫。群賊身首腫痛、眼皆盲合、先諸所掠、皆棄而走。
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