老媼茶話巻之五 嶋原の城化物
嶋原の城化物
松倉長門守嶋原の城に居給ひし時、廣間の入口の座敷にて、或夜、燈(ともしび)の光、有り。其夜の廣間に番せし士ども、此燈のひかりをみて、何となく物すざましく、誰(たれ)行(ゆか)んといふ人、なし。
時に、士、弐人、行(ゆき)て見るに、大廣間の障子をひらき、六尺斗(ばかり)の大女(おほをんな)、髮を亂し、ゆかたを着し、側に行燈(あんどん)を置(おき)、庭を詠居(みゐ)たりけるが、人音(ひとをと)を聞(きき)て振歸(ふりかへ)りたるつらつき、眼(まなこ)、大きく、口、耳の際迄さけたるが、
「につこ。」
と打笑(うちゑみ)たる氣色を見て、壱人、卽座に死す。一人氣を失ひけり。
其隙(すき)に件(くだん)の女、行衞なく失(うせ)けると、なん。
[やぶちゃん注:「嶋原の城」現在の長崎県島原市城内にあった島原城。有明海(有明湾口で島原湾奥)に臨み、雲仙岳の東北山麓に位置する。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「松倉長門守」肥前島原藩(この頃の呼称は日野江(ひのえ)藩)第二代藩主松倉長門守勝家(慶長二(一五九七)年~寛永一五(一六三八)年)。初代藩主松倉豊後守重政(彼同様、藩内に苛政と搾取を行って島原の乱の主因を作った)の嫡男。寛永七(一六三〇)年の父重政の急逝を受けて藩主となったが、父を凌ぐ収奪の悪政を敷き、切支丹を容赦なく虐殺、「島原の乱」(寛永十四年十月二十五日(一六三七年十二月十一日)~寛永十五年二月二十八日(一六三八年四月十二日))を引き起こし、乱鎮定後は江戸に送られ、幕府から領国経営の失敗と反乱惹起を問責されて斬首刑に処せられている(松倉家は改易となった。勝家には二人の弟がいたが、次弟の重利は讃岐国及び陸奥国会津へと預けられ、明暦元(一六五五)年に自殺、末弟三弥は助命されたものの浪人となった。但し、重利の後裔は後も三百俵の旗本として存続した)。大名が名誉刑としての切腹さえも許されずに一介の罪人として斬首させられたのは極めて異例で、江戸時代を通じてこの一件のみである。詳しい事蹟は参照したウィキの「松倉勝家」を参照されたい。以上から、話柄内時制は寛永七(一六三〇)年から島原の乱の起こる前、寛永十四年十月二十五日(一六三七年十二月十一日)よりも前の七年余の閉区間内に限定出来る。或いは、彼の惨死の予兆(警告)ででもあったのかも知れない。
「六尺斗」一メートル八十二センチメートルほど。]