江戸川乱歩 孤島の鬼(8) 七宝の花瓶
七宝の花瓶
木崎の家は、もう忌中(きちゅう)の貼紙も取れ、立番の警官もいなくなって、何事もなかったようにひっそりと静まり返っていた。あとでわかったことであるが、ちょうどその日、初代の母親は骨上げから帰ると間もなく、警察の呼び出しを受けて警官に連れて行かれたというので、彼女の亡夫の弟という人が、自分の家から女中を呼び寄せて、陰気な留守番をしていたのであった。
私たちが格子戸をあけてはいろうとすると、出会いがしらに中から意外な人物が出てきた。私とその男とは、非常な気まずい思いで、ぶつかった眼をそらすこともできず、しばらく無言で睨み合っていた。それは求婚者であったにかかわらず、初代の在世中には、一度も木崎家を訪れなかった諸戸道雄が、なぜかその日になって、悔みの挨拶にきているのだった。彼はよく身に合ったモーニングコートを着て、しばらく見ぬ間に少しやつれた顔をして、どうにも眼のやりばがないという様子で、立ちつくしていたが、やっとの思いらしく私に言葉をかけた。
「あ、蓑浦君、しばらく。お悔みですか」
私はなんと返事していいのかわからなかったので、かわいた唇でちょっと笑ってみせた。
「僕、君に少しお話ししたいことがあるんだが、そとで待ってますから、御用がすんだら、ちょっとその辺までつき合ってくれませんか」
実際用事があったのか、その場のてれ隠しにすぎなかったのか、諸戸はチラと深山木のほうを見ながら、そんなことをいった。
「諸戸道雄さんです。こちらは深山木さん」
私はなんの気であったか、どぎまぎして二人を紹介してしまった。双方とも私の口から噂を聞き合っていた仲なので、名前をいっただけで、お互いに名前以上の色々なことがわかったらしく、二人は意味ありげな挨拶をかわした。
「君、僕にかまわずに行ってきたまえ。僕はここのうちへちょっと紹介さえしといてくれりやいいんだ。どうせしばらくこの辺にいるから、行ってきたまえ」
深山木は無造作にいって、私を促がすので、私は中にはいって、見知り越しの留守居の人々に、ソッと私たちの来意を告げ、深山木を紹介しておいて、そとに待ち合わせていた諸戸と一緒に、遠方へ行くわけにはいかぬので、近くのみすぼらしいカフェへはいった。
諸戸としては、私の顔を見れば彼の異様な求婚運動について、なんとか弁解しなければならぬ立場であっただろうし、私のほうでは、そんなばかなことがと打ち消しながらも、心の奥では、諸戸に対して、ある恐ろしい疑念をいだいていて、それとなく彼の気持を探ってみたい、というほどハッキリしていなくても、何かしら、この好機会に彼を逃がしてはならぬというような心持があって、それに深山木が私に行くことを勧めた調子も、なんだか意味ありげに思われたので、お互いの不思議な関係にもかかわらず、私たちはつい、そんなカフェなどにはいったものであろう。
私たちはそこで何を話したか、今ではひどく気まずかったという感じのほかは、ハッキリ覚えていないのだが、おそらくほとんど話をしなかったのではないかと思われる。それに、深山木が用事をすませて、そのカフェを探し当ててはいってきたのが、あまりに早かったのだ。
私たちは飲物を前にして、長いあいだうつむき合っていた。私は相手を責めたい気持、彼の真意を探りたい気持で一杯ではあったが、なに一つ口に出してはいえなかった。諸戸のほうでも妙にもじもじしていた。先に口をひらいたほうが負けだといった感じであった。奇妙な探り合いであった。だが、諸戸がこんなことをいったのを覚えている。
「今になって考えると、僕はほんとうにすまぬことをした。君はきっと怒っているでしょう。僕はどうして謝罪していいかわからない」
彼は、そんなことを遠慮勝ちに、口の中で、くどくどとくり返していた。そして、彼が一体何について謝罪しているのか、ハッキリしないうちに、深山木がカーテンをまくって、つかつかとそこへはいってきた。
「お邪魔じゃない?」
彼はぶっきら棒にいって、ドッカと腰をおろすと、ジロジロ諸戸を眺めはじめるのだった。諸戸は深山木の来たのを見ると、なんであったかわからぬが、彼の目的を果たしもせず、突然別れの挨拶をして、逃げるように出て行ってしまった。
「おかしい男だね。いやにソワソワしている。何か話したの?」
「いいえ、なんだかわからないんです」
「妙だな。いま木崎の家の人に聞くとね。あの諸戸君は初代さんが死んでから、三度目なんだって、訪ねてくるのが。そして妙にいろいろなことを尋ねたり、家の中を見て廻ったりするんだって。何かあるね。だが、かしこそうな美しい男だね」
深山木はそういって、意味ありげに私を見た。私はその際ではあったけれど、でも顔を赤くしないではいられなかった。
「早かったですね。何か見つかりましたか」
私はてれ隠しに質問した。
「いろいろ」
彼は声を低めてまじめな顔になった。彼の鎌倉を出るときからの興奮は、増しこそすれ決してさめていないように見えた。彼は何かしら、私の知らないいろいろなことを心の奥底に隠していて、独りでそれを吟味しているらしかった。
「おれは久しぶりで大物にぶつかったような気がする。だがおれ一人の力では少し手強いかもしれぬよ。とにかく、おれはきょうからこの事件にかかりきるつもりだ」
彼はステッキの先で、しめった土間にいたずら書きをしながら、独りごとのようにつづけた。
「大体の筋道は想像がついているんだが、どうにも判断のできない点が一つある。解釈の方法がないではないが、そして、どうもそれがほんとうらしく思われるのだが、もしそうだとすると、実に恐ろしいことだ。前例のない極悪非道だ。考えても胸がわるくなる。人類の敵だ」
彼はわけのわからぬことを呟きながら、なかば無意識にそのステッキを動かしていたが、ふと気がつくと、そこの地面に妙な形が描かれていた。それは燗徳利(かんどくり)を大きくしたような形で、花瓶を描いたものではないかと思われた。彼はその中へ、非常に曖昧な書体で「七宝」と書いた。それを見ると、私は好奇心にかられて、思わず質問した。
「七宝の花瓶じゃありませんか。七宝の花瓶が何かこの事件に関係があるのですか」
彼はハッとして顔を上げたが、地面の絵模様に気づくと、慌ててステッキでそれを搔き消してしまった。
[やぶちゃん注:「搔」は底本の用字。]
「大きな声をしちゃいけない。七宝の花瓶、そうだよ。君もなかなか鋭敏だね。それだよ、わからないのは。おれは今その七宝の花瓶の解釈で苦しんでいたのだよ」
だが、それ以上は、私がどんなに尋ねても、彼は口を緘(かん)して語らぬのであった。
間もなく私たちはカフェを出て、巣鴨の駅へ引き返した。方向が反対なので、私たちがそこのプラットフォームで別れるとき、深山木幸吉は「一週間ばかり待ちたまえ。どうしてもそのくらいかかる。一週間したら何か吉報がもたらせるかもしれないから」といった。私は彼の思わせぶりが不服であったけれど、でも、ひたすら彼の尽力を頼むほかはなかったのである。

