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2017/11/12

柴田宵曲 俳諧漫筆コスモス

 

[やぶちゃん注:本篇は昭和二六(一九五一)年十月発行の雑誌『日本及日本人』に発表された。底本は一九九九年岩波文庫刊の小出昌洋編「新編 俳諧博物誌」に載る「コスモス」を用いたが、「虫の句若干」の冒頭注で述べた通り、大幅な変更処理を施してある。後ろの方の句は、或いは、かなり新しい作品(或いは第二次世界大戦後のものも)も含まれているのかも知れぬが(宵曲は引用元を記していないので判らぬ)、基本、確率上の意味からも、やはり、句(俳号含む)表記は確信犯で総てを正字化した

「コスモス」一般的に本邦で狭義にこう言った場合は、被子植物門 Magnoliophyta 双子葉植物綱 Magnoliopsida キク目 Asterales キク科 Asteraceae キク亜科 Asteroideae コスモス属 Cosmos オオハルシャギク(大春車菊)Cosmos bipinnatus を指す現在では、他にキバナコスモス Cosmos sulphureus・チョコレートコスモス Cosmos atrosanguineus(参照したウィキの「コスモス」によれば、『黒紫色の花を付け、チョコレートの香りがする』とある)の二種を見るが、これらは孰れも大正期になってから本邦へ持ち込まれたもので、本篇内の引用対象植物としては、候補として挙げないほうが良いように思われる。最後の方に出る句でも「大正初年」と宵曲は言っているからである。但し、最後に掲げられる「左衞門」の眼に動くそれに、この二種が混じっていないとは断定出来ぬので掲げておくこととした。「新修歳時記」は種小名を「ヒブクリス」と音写しているが、現行のそれは「ビピンナツス」と読む。音写の誤りとは思えないので、シノニムを英文の植物学学名サイトで探してみたところ、Cosmos hybridus というのがどうやらそれらしい感じではある。しかし、だとしても音写は「ヒブリダス」で誤りである。種名のそれは「秩序」「調和」を意味するギリシャ語の“kosmos”(ラテン文字転写)に由来する(この語は後に「秩序立っていて統一されている」という意味から、「世界」「宇宙」の意を持つようになり、秩序正しく調和のとれた対象が一般に美しとされることから、「装飾」「美麗」の意味をも含むようになった)。種小名 bipinnatus “bi”」は「二つ」を意味し、“pinnatus”pinnate)は「羽状の」の意であるから、先の派生的意味も含めて「二枚の羽状の美しいもの」という意味となる。私は昔からコスモスが好きだ。]

 コスモスという花は何時頃(いつごろ)日本に渡って来たものか知らぬが、一般に普及するに至ったのはそう古いことではあるまい。われわれの漠然たる記憶によれば、日露戦争前後ではないかという気がする。『新俳句』や『春夏秋冬』には勿論ない。手許にある明治の歳時記を調べて見ると、明治三十七年刊の『俳句新歳時記』には出ておらぬが、四十二年刊の『新修歳時記』に載っている。但(ただし)「コスモス、ヒブクリスの略語。菊科の一年草本にして、春下種し、二、三寸に生長したる時移植すれば、秋の季高五、六尺に達し多く枝を分ちて紅白赤黃絞(しぼり)等の單辨の美花を開く。葉は細く數岐をなして柔く節ごとに對生す。葉花共に甚だ優美なり」とあるのみで、例句も挙げず、何時頃から普及したかというような点に少しも触れておらぬのは遺憾である。

[やぶちゃん注:「日露戦争」明治三七(一九〇四)年二月八日から明治三八(一九〇五)年九月五日まで。但し、ウィキの「コスモス」には、それよりも早く、『日本には明治』二十『年頃に渡来したと言われる』とある(下線やぶちゃん)。

「新俳句」既出既注であるが、再掲しておく。明治三一(一八九八)年に刊行された子規門下の俳句アンソロジー。

「春夏秋冬」既出既注であるが、再掲しておく。俳句選集。明治三四(一九〇一)年から同三十六年にかけて俳書堂から刊行された。春・夏・秋・冬と新年で四季四冊から成る。子規一門『日本』派の句集で、子規が撰した春の部から刊行を開始したが、続く三冊は子規の病状が悪化しため、高弟であった河東碧梧桐と高浜虚子の二人の共撰となっている。

「明治三十七年」一九〇四年。

「俳句新歳時記」寒川鼠骨編。

「新修歳時記」中谷無涯編。そこからの引用部は恣意的に漢字を正字化した。]

 三宅花圃(みやけかほ)女史が明治四十年の『日本及日本人』に連載した「花の趣味」の中にもコスモスがある。丈高く庭もせにひろごる事、絞りの花は珍しい事、風雨に倒れたのをそのままにして置くと、幹は横になりながら枝は上を向く事、その他いろいろな消息が記されているが、何時頃から多く見かけるようになったかなどということは書いてない。「去年も一昨年も裏の方に植(うゑ)つれば彼程(かほど)にはのびざりしをと今は丈高きもはびこれるをも、中々にめでていひさわげば」とあるによって、雪嶺博士の庭のコスモスはこの二、三年前からあったことが知られる。

[やぶちゃん注:「三宅花圃」(明治元(一八六九)年~昭和一八(一九四三)年)は小説家・歌人。著書「藪の鶯」(明治二一(一八八八)年発表)は明治以降で女性によって書かれた最初の近代小説とされる。本名は竜子。東京生まれ。東京高等女学校卒業の前年に「藪の鶯」を発表、その後、短編集「みだれ咲」(明治二五(一八九二)年)などを発表、三宅雪嶺(後注参照)と結婚し、夫の主宰する『女性日本人』の歌壇を担当した。『文学界』にも関与し、樋口一葉を同誌に紹介したのも彼女であった。なお、「花の趣味」の引用の読みは底本に従わず、歴史的仮名遣を用いた。

「明治四十年」一九〇七年。

「雪嶺博士」三宅雪嶺(みやけせつれい 万延元(一八六〇)年~昭和二〇(一九四五)年))は哲学者・評論家で国粋主義者。加賀国金沢(現・石川県金沢市)の生まれ。明治二十一年にの地理学者志賀重昂(しげたか)・思想家で国粋主義者の杉浦重剛(じゅうごう)らと「政教社」を設立し、国粋主義の立場を主張するために『日本人』を創刊した(後に『日本及日本人』に改題)。]

 明治三十九年四月に出た『伶人(れいじん)』という歌集がある。その中に金子薫園(かねこくんえん)氏の歌として

 こすもすの花の灯影(ほかげ)や胸像の詩人の頰にうす紅して

 こすもすの花はあるじが歌の趣と人の苦吟を笑むや宵の灯

の二首が出て来る。恐らく前年秋の作であろう。われわれはコスモスといえば先ず昼の眺めを思い浮べるのが常であるのに、二首とも灯影に配してあるのは、何だか不思議な感じがする。前の歌は明かに室内の灯影である。灯下の下に置かれた石膏の詩人の像にコスモスの花がうす紅く映えるなどは、当時としては新しい題材であったに相違ない。後の歌は室内の趣とも取れるし、室の灯が庭のコスモスにさす場合とも取れる。いささか不明瞭な境地である。

 俳句の方では三十九年の十月に成った

 コスモスの冬近し人の猿袴(さるばかま) 碧梧桐

が古い方に属するらしい。作者は当時奥羽の旅を続けつつあったから、その地方における所見であろう。薫園氏の歌のコスモスは二首ともハイカラな趣であったが、この句はまた思いきって野趣を発揮した。コスモスが已に各地に普及していた模様は、この一句で証することが出来るかと思う。

[やぶちゃん注:「猿袴」労働用の袴の一種。腰の周りはゆったりと作られており、下部は股引(ももひき)のように足にフィットするように仕立てられてある。グーグル画像検索「猿袴」をリンクさせておく。]

 靑く晴れてコスモスの花に飛雲かな 浅茅(あさぢ)

 コスモスに綠紗(りよくしや)を垂れぬ憎きさま

                  同

 コスモスの花や墓石の新しき    石楠居(しやくなんきよ)

 コスモスの畫室に狂ふ日影かな   瘦仏

 コスモスの掲焉(けちえん)なりや霧の垣

                  瓊音

これらは時代において前の句に次ぐものであろう。古人は「秋風起兮白雲飛」といった。青々と晴渡ったコスモスの空を真白な雲の飛ぶ趣は、眼前に秋晴の天地を展開せずには措かぬ。「綠紗を垂れぬ」といい「畫室に狂ふ日影」という、この種の景致は当時のコスモスに調和すべき新な趣だったのである。「掲焉」の語はコスモスの茎の高く聳(そび)えたところをいうのであろうが、言葉が際立ち過ぎて、花も葉もなよやかなコスモスにふさわしくない。同じ作者がそれより前に作った「紅茸や掲焉として霧の中」の句を並べて見ると、いよいよその感を深うする。

[やぶちゃん注:「綠紗」緑色の薄絹。

「掲焉」著しいさま。目立つさま。「けつえん」とも読む。

「秋風起兮白雲飛」「秋風 起こりて 白雲 飛び」。漢の武帝劉徹(紀元前一五六年~紀元前八七年)の知られた「秋風辞」の第一句目。彼が現在の山西省万栄県に行幸し、后土(土地神)を祭って、群臣とともに汾河(ここ(グーグル・マップ・データ))に船を浮かべて行楽した折り、四十四歳の時の作。

「紅茸」「べにたけ」。菌界担子菌門ハラタケ亜門ハラタケ綱ベニタケ目ベニタケ科ベニタケ属 Russula に属するベニタケ類の総称。ウィキの「ベニタケによれば、『きのこの大きさは大小さまざまで、かさの径』五ミリメートル『程度、全体の高さ』一センチメートル『程度の小形種から、かさの径』が二十センチメートルにも『達する大形のものまで知られている。ほぼ共通して、成熟するとかさの中央部が大きくくぼみ、あるいは漏斗状に反転する』。『かさの色調も多種多様で、紅色系のものが多いのはもちろんであるが、そのほかに白・黒・暗褐色・黄褐色・黄色・橙色・桃色・紫色・緑色などを呈する種が知られ、一つの種の中でもさまざまな変異が見られ』、『一個のかさの中でも、部分的に異なる色調が混ざって認められることも珍しくない』という。『毒々しい色調のために、古くは毒きのこの代表格のように扱われてきていたが、すべてが有毒であるわけではない。ただし、辛味や苦味が強いものが含まれ、そうでないものも一般に歯切れが悪いために、食用きのことして広く利用されるものは少ない』。『ニセクロハツ』(ベニタケ属クロハツ節ニセクロハツ Russula subnigricans:主に夏期に富山県から愛知県以西のシイ林などの地上に発生する。傘は灰褐色でスエード状の質感があり、成長すると、中央が窪んで浅い漏斗状になる。襞はクリーム色を呈し、傷ついたり、老成すると、薄く赤変する。本邦以外では東アジア(中国、台湾、韓国)に分布する)『は致命的な有毒種として知られている』(ニセクロハツによる中毒事故は一九五四年に京都市で初めて報告され、以降、一九五八年から二〇〇七年にかけて愛知・富山・大阪・宮崎で六件計十五人が中毒症状を起こし、七人が死亡している。中国では南部で中毒事故が多発しており、一九九四年から二〇一二年までに発生したキノコ中毒患者八百五十二人の内の四分の一もが本種による中毒であり、死亡率は実に二十%以上に上ったという。致死量は二、三本とも言われ、潜伏期は数分から二十四時間で、嘔吐・下痢など消化器系症状の後に縮瞳・呼吸困難・言語障害・横紋筋溶解に伴う筋肉痛・多臓器不全・血尿を呈し、重篤な場合は腎不全を経て、死亡に至る。主な治療(対症療法)は胃洗浄・利尿薬投与及び人工透析となる。毒成分は二〇〇八年に京都産の個体から分離されたシクロプロペン誘導体の2-シクロプロペンカルボン酸(C4H4O2)で、症状の主因は、これが骨格筋の組織を溶解させ、その溶解物が臓器に障害を起すことによるものであることが判明している。以上のニセクロハツの記載はウィキの「ニセクロハツ」に拠った)。『ほかにもいくつかの有毒種が含まれているといわれているが、どの種が食用となり、どの種が有毒なのかについては、不明な点も多い』とある。危きに近寄らずに越したことはない。]

 張板に影コスモスと蜻蛉かな  成岩生

 靄の裾コスモス高き小家かな  未央

 コスモスや橋場の家の灯早き  梅女

   幼稚園

 コスモスは高く遊べる園兒かな 麥村

 「張板」の句は「靑く晴れて」「畫室に狂ふ」などと同じく、爽(さわやか)な秋晴を想わしむるものがある。「橋場の家の灯早き」というのは実景であろうが、コスモス趣味にはやや遠い。前に挙げた「墓石」の句などと同じく、動く嫌いがありそうに思われる。「幼稚園」の句は「高く」で一先ず意味が切れるのであろう。花をつけたコスモスの高く伸び立つ下に、嬉々(きき)として園児が遊んでいる。その子供たちは皆丈が低いのである。この趣もまた晴渡った秋天の下でなければならぬ。

[やぶちゃん注:「橋場」(はしば)は固有地名であろう。現在の東京都台東区北東部にある。ここ(グーグル・マップ・データ)。古くは武蔵と下総(しもうさ)間の渡し場で、中世の「義経記」「源平盛衰記」に浮き橋を架けたとする記載があり、それが地名の由来とされる。この浅草橋場では寛永通宝を鋳たとか、新銭座(しんぜにざ)が浅草に命ぜられたともされ、橋場明神の北東が銭座跡とされる。明治頃には別荘地帯となり、三条実美(さねとみ 天保八(一八三七)年~明治二四(一八九一)年:元公卿で三条暫定内閣の内閣総理大臣兼任(「兼任」は後の「代理」のこと。但し、明治二二(一八八九)年の十月二十五日からの二ヶ月のみ))の別荘(対鷗荘)等があった。現在は木材・染色など水に関連の中小工場が並ぶ東京北部工業地域の一角。謡曲「隅田川」で知られる妙亀(みょうき)塚があり、北東端に白鬚(しらひげ)橋がある(ここまでは小学館「日本大百科全書」に拠る)。江戸時代は江戸最大の焼き物の産地であり、また、遺体の火葬場としても知られたため、「橋場の煙となってしまう」という有り難くない比喩にも用いられている。

「動く嫌いがありそう」俳句の観察対象や感懐主体が本来(ここは「コスモス」)のものから、別なもの、橋場という固有名詞から想起される、例えば、ハイカラなコスモスの花の咲き乱れる別荘の庭から室内に動いて上流階級の優雅な暮らし振り(だからまだほの暗いうちから明かりが灯る)などへ意識が「動いてしまう」、スライドしてしまって詠吟の眼目が鑑賞者によってはズレてしまうことを言っているのではないかと私は思う。大方の御叱正を俟つ。]

 雪嶺博士は大著『宇宙』の跋の最後に「庭前のコスモスの咲き初(そ)むるを觀て」の一行を加えた。この言葉は花圃女史の『花の趣味』と併看するだけでも一種の興味があるが、『宇宙』の出た明治四十二年頃までは、まだコスモスに多少の新味が伴ったのではあるまいか。それが大正初年になると、

 コスモスの咲ける家と貸家教ふるに  繞石

 コスモスは束ねあり畫室半ば成る   同

 コスモスの雨に繚亂(れうらん)すあき家かな

                   瓊音

 小別荘庭はコスモスばかりなり    同

の如く、よほど平凡な存在になって来る。人の住まぬ空家の庭に咲き乱れたり、小別荘の庭がコスモスばかりだといわれたりするに至っては、花としては冷遇された形で、詩人の胸像に映じた全盛時代と日を同じゅうして語るわけには往かぬ。画室の庭に咲くことに変りはないにしろ、普請中(ふしんちゅう)束ねられているのは決して有難い現象ではない。コスモスがそれだけ平凡化したということは、各地に行わたったことを意味する。しかし花が珍しくなくなったからといって必ずしも詩材としての価値を減じたことにはならない。コスモスの句が多く生れるようになったのはむしろ大正以後である。明治年間のコスモスの句は、題材として新しかった代りに、いささか配合物に煩(わずらわ)されるところがあった、コスモスの真趣はそういう時代が過ぎてから発揮されたといっても過言ではない。例えば

 コスモスの吹かれ消ぬべき空の色   左衞門

の如く、コスモスそのものの姿を描いた句が、大正年間になって現れるのは、俳人の観察が進んだということもあるが、やはりコスモスが普及した結果として、種々の句が生れたものと解すべきであろう。

[やぶちゃん注:「宇宙」三宅雪嶺が政教社から明治四二(一九〇九)年に刊行した哲学書。]

 

 コスモスが非常な勢でひろがった頃、この花を野草として山野に放ったら、更に大(おおい)に蕃殖して、秋の眺めを賑かにすることになりはせぬかといった人がある。外国から渡来した月見草が忽ちにして夏の夜を飾る新たな景物になった例があるから、コスモスの野草化も面白いかも知れぬと思ったが、事実はこれに反して次第に振わなくなり、郊外住宅につきものであったコスモスまで影が薄くなって来た。終戦後は焼跡が多く、太陽が十分に照りつけるため、また復活の傾向を示しているけれども、いまだ旧観に還るには至らぬようである。考えて見るとコスモスの花は楚々たる家庭婦人の趣があり、街頭に出て活動するには適せぬところがある。コスモスに伴う一種の新趣味の如きも、この花が思いきって野草となり得ぬ所以(ゆえん)かも知れない。国家にしろ、個人にしろ、ものの繁栄には自ら限度がある。どこまで発展するかわからぬと思われたものが意外に早く衰兆(すいちよう)を示す例を、われわれはいくつも見て来た。一度日本の秋に立脚地を得たコスモスが、絶滅する気遣は決してないから、日当りのいい郊外住宅の庭にはびこって、楚々たる花に行人を顧みさせる程度で落著いたらよかろうと思う。

[やぶちゃん注:「終戦後は焼跡が多く、太陽が十分に照りつけるため、また復活の傾向を示しているけれども、いまだ旧観に還るには至らぬようである」冒頭に記した通り、本篇は昭和二六(一九五一)年十月の発表である。敗戦から六年後の東京の景への宵曲の感懐である。]

 コスモスを秋桜と称するのは何時頃誰がいい出したものか、一般には勿論行われていない。俳人は文字を斡旋する都合上、いろいろな異名を好む者であるが、『新修歳時記』時代にこの称呼がなかったことは、前に引用した文章によって明かである。俳句の季題には冬桜(寒桜)というものがあって、花の咲く季節を現しているから、何か混雑した感じを与えやすい上に、コスモスの花にはどう考えても桜らしいところはない。シュウメイギク(貴船菊)を秋牡丹と称するよりも、遥か空疎な異名であるのみならず秋桜などという言葉は古めかしい感じで、明治の末近く登場した新しい花らしくない。少くともコスモスという言葉に伴う一種の新しい趣味は、秋桜という言葉には含まれていないように思う。ただ上五字乃至(ないし)下五字に置く場合、コスモスでは据(すわ)りが悪いからというので、五音の異名を択(えら)むというだけのことならば、今少し工夫を費してしかるべきである。如何に日本か桜花国であるにせよ、似ても似つかぬ感じの花にまで桜の名を負わせるのは、あまり面白い趣味ではない。四音の名詞はコスモスに限った話ではないのだから、つまらぬ異名を作るよりは、このままで十七字に収まるようにする方が、むしろ俳人の手腕であろう。秋桜の名が広く行われないのは、畢竟(ひっきょう)コスモスの感じを現し得ておらぬ点に帰するのかも知れない。

[やぶちゃん注:「秋桜」老婆心乍ら「あきざくら」と読む。驚くべきことに、ネット上には恐るべき忌まわしい「秋桜(こすもす)」アーバン・レジェンド(都市伝説)が蔓延している

「コスモスを『秋桜』などと漢字で書くことは現代までなかった」

「『秋桜』という語自体が一般的に殆んど全く知られていなかった」

「山口百恵の一九七七年の流行歌「秋桜(コスモス)」以降に世間で知られるようになった漢字表記で、一般人は全然知らない未知の熟語だった」

とか(これらを厳然と否定しておく。私は昭和三二(一九五七)年生まれであるが、小学生の時から「コスモス」を「秋桜」と書くと知っていたし、それは母から教えて貰ったことも覚えている)

「『秋桜』と書いて『あきざくら』と読まれることも殆んどなかった」

などとトンデモないことがそこかしこに書かれてある(但し、「秋桜」を「しゅうおう」と読む私の同世代は思いの外に多いことは事実である。これはある理由があるが、それは脱線になるのでやめておく)。果ては、まことしやかに、

「秋に咲く桜というコスモスの花のイメージから、山口百恵の曲の作詞者である、さだまさしが、独自に考案した造語熟語へのお洒落なカタカナ当て字の可能性がある」

などという、トンデモ回答をしている人物までいる(これはQ&Aサイトの「コスモスはなぜ秋桜と書くのでしょうか?」へのベスト・アンサーになっている回答者の答えであって質問者はそれに感謝の意を表している)。

 但し、瓢簞から駒で、その回答者が参考として引用しているページは非常な優れものであった。

 個人ブログ「takayanの雑記帳」のコスモスの由来3である。幾つか、大切な箇所を引用させて貰う。

 まず、『コスモスが日本に入ってきた』『時期は、江戸時代後期、明治時代中期らしいと書いてある。内容もはっきりしないが、その「らしい」という情報そのものも出典が分からないものが多』い、そん中で、『コスモスは、幕末に渡来し、イタリアの彫刻家で、工部美術学校の教師ビンチェンツォー・ラグーザが』明治一二(一八七九)年に『種子を持ち込んだのが最初だともいわれてい』るというのが確述的なもので、ヴィンチェンツォ・ラグーザ(Vincenzo Ragusa 一八四一年~一九二七年)は日本最初の美術教育機関である「工部美術学校」に招かれたお雇い外国人三人のイタリア人教師の一人で、担当は彫刻科、彼は工部美術学校開校時の明治九(一八七六)年から明治十五年まで教授していた(この年に彫刻家は廃止され、翌明治一六(一八八三)年残っていた画学科も廃止され、同校は閉校した)。

 次にブログ主は「コスモス」が使われた最初の作品を「青空文庫」全文検索システムを用いて調べ、『明確な初出時期の分かる作品としては』与謝野晶子の「ひらきぶみ」(『明星』明治三七(一九〇四)年十一月号初出)『が見つかった。本文最後から二番目の文』で(踊り字「〲」を正字化し、漢字を正字化した)、

   *

 庭のコスモス咲き出で候はば、私歸るまであまりお摘みなされずにお殘し下されたく、軒の朝顏かれがれの見ぐるしきも、何卒歸る日まで苅りとらせずにお置きねがひあげ候。

   *

『これが出された』一九〇四年当時は、『既に一部の日本人の庭にコスモスが咲いていたと考えていいだろう。「君死にたまふこと勿れ」の批判への返答という形で出された作品だけに、この文章も多くの人に知られたことだろう。作品に使うことから』、『与謝野晶子の周囲では』、『それなりに「コスモス」が一般的な言葉だと認知されていたことも想像できる』とある。

 また、明治四二(一九〇九)年には『文部省が全国の小学校にコスモスの種を配布したらしい』とある。ただ、配布の際に『「コスモス」という名前で呼んでいたのか』までは調べ得なかったらしい。しかし、翌明治四十三年の三月一日から六月十二日まで『朝日新聞』に連載された夏目漱石の「門」には既に「コスモス」という言葉が出て来ている(「八」の頭から四段落目。引用は私(藪野直史)の所持する岩波旧全集に拠った)。

   *

 緣先は右の方に小六のゐる六疊が折れ曲つて、左には玄關が突き出してゐる。その向ふを塀が緣と平行に塞いでゐるから、まあ四角な圍内(かこひうち)と云つて可(い)い。夏になるとコスモスを一面に茂らして、夫婦とも毎朝露の深い景色を喜んだ事もあるし、又塀の下へ細い竹を立てゝ、それへ朝顏を絡ませた事もある。其時は起き拔けに、今朝咲いた花の數を勘定し合つて二人が樂(たのしみ)にした。けれども秋から冬へ掛けては、花も草も丸(まる)で枯れて仕舞ふので、小さな砂漠見た樣に、眺めるのも氣の毒な位淋しくなる。小六は此霜ばかり降りた四角な地面を脊にして、しきりに障子の紙を剝がしてゐた。

   *

 次にブログ主は『今度は「秋桜」という単語が使われているか、青空文庫で似たような検索をしてみた。これを「あきざくら」と読むのか、「コスモス」と読むのかは、検索後に確認すればいい』と考えられたのであるが、『結果は、青空文庫にある作品の本文では「秋桜」という表記そのものが存在しなかった。旧字体の「秋櫻」でも駄目。つまり著名な著作権切れの文学作品には、「秋桜」という文字自体が使われていない。「秋桜(あきざくら)」という言葉自体が一般的ではなかったのだろうか』と呟かれている。『いろいろ調べていると、俳人に』水原秋桜子(しゅうおうし 明治二五(一八九二)年~昭和五六(一九八一)年:医学博士(専門は産科学)。本名・水原豊)『という人がいることが分かった。根拠は見つからなかったがこの名前はコスモスにちなんでいるだろうと考えられる。いつからこの俳号を名のっているかは知らないが』[やぶちゃん注:大正後期にはこの号を用いているものと推測される。]、遅くとも昭和九(一九三四)年に『俳誌『馬酔木』を主宰したときには既に水原秋桜子であるようだから、その時期には「秋桜(あきざくら)」もしくは「秋桜(しゅうおう)」という表現はあったと言うことができる』。『秋桜(あきざくら)をコスモスと当て字読みしだした時期については、はっきりしたことは分からなかった。山口百恵が歌ったさだまさし作詞作曲の』「秋桜(コスモス)」『が日本中にこの読み方を浸透させただろうことは簡単に想像できるが、おそらくそうなのだろうが、ここではそういう判断基準では書けない』[やぶちゃん注:その通り!]。『また広めただけでなく、この当て字の用法の始まり自体がこの歌であるかもしれないが、これを確かめるには、やはり詩歌を狙って調べれば』、『でてくるのではないかと思われる。もちろん直接、さだまさしに独自の当て字かどうか聞くのもいい。それでも一番かどうかは分からないが』とある。素晴らしい。]

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