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2017/11/15

柴田宵曲 猫 二

  

 『言海』にネコの語原を挙げた中に、「寐子(ねこ)の義」というのがある。「春眠不覺曉」などというのは人間の言草で、猫には関係ないはずであるが、春の猫の句について、睡猫を捜して見るのも一興であろう。

[やぶちゃん注:気持ちが悪い(特に私は新字の「暁」の字が間が抜けていて嫌いである)ので孟浩然の「春曉」の起句は正字化した(春眠不覺曉 處處聞啼鳥 夜來風雨聲 花落知多少(春眠曉を覺えず 處處(しよしよ)啼鳥(ていちやう)を聞く 夜來(やらい)風雨の聲 花落つること知んぬ多少))。なお、「言海」(大槻文彦)の「ねこ」の項は全文を四年ほど前に大槻文彦「言海」の「猫」の項 + 芥川龍之介の同項を批評したアフォリズム「猫」で電子化したので参照されたい。]

 

 ぬつくりと寢てゐる猫や梅の股    几董

 うち晴て猫の睡(ねむ)るや庭ざくら 春水

 うそ眠る猫のつらはる椿かな     一桃

 

 いずれも庭前の光景らしい。春になって寒さを恐れなくなった猫の様子は、「ぬつくりと」とか「うち晴て」とかいう言葉からも窺われる。如何にものびのびした様子である。椿の花がぽたりと落ちて、睡猫の面を打つというのは、巧を弄し過ぎた嫌(きらい)があるけれども、落椿は他の花に比して体積も重量も多いから、猫の睡を驚かすことはあるかも知れない。

 

 散花(ちりばな)や猫はね入てうごく耳

                   什佐

 

 この句は直(すぐ)に

 

   四睡の讚

 かけろふに寐ても動くや虎の耳    其角

 

の句を連想せしめる。其角は容易に他の後塵を拝する作家でないから、この趣向においても必先鞭を著けたものと思っていたところ、不思議なことに什佐の句を載せた『柱暦(はしらごよみ)』も、其角の句を載せた『千々之丞』も共に元禄十年に出ているので、先後を定めるのが困難になって来た。但(ただし)元禄の昔には生きた虎を見る便宜がない。其角のような逸才でも、画裡の虎で我慢せざるを得ぬ所以(ゆえん)であるが、この句は虎を画いて狗(いぬ)に類するのと反対に、猫を画いて虎に擬したようなところがある。一句の眼目たる「寐ても動く」耳は、これを猫に得て虎に及ぼしたものであろう。什佐の句はそれほど飛躍せず、どこまでも猫で終始しているから、その点は極めて安心である。落花の下に無心に睡っている猫が、しばしば耳を動かす趣は、画中の物でしかも画の捉え得ざる所を捉えている。

[やぶちゃん注:「元禄十年」一六九七年。]

 四睡というのは寒山(かんざん)と、拾得(じっとく)と、豊干(ぶかん)と、豊干の連れている虎とが、同じところで睡っている、長閑(のどか)であると共に浮世離れした光景である。其角がこの図に対して他の何者をも描かず、寐ても動く虎の耳だけを句にしたのは、仮令(たとい)猫から脱化したにもせよ、その才の尋常ならざることを示している。四睡を題材したものに

 

 海棠(かいだう)に女郎と猫とかぶろかな 卜宅

 

という句があるが、この場合も猫は虎の名代を勤めている。海棠は美人の睡る形容に用いられるから、これで季を定め、併せて四睡の一役を買わせたらしい。一句の感銘が甚だ弱いのは、すべてが女性であるためでなしに、単に役者を羅列するにとどまって、其角のように焦点を捉え得なかったためと思われる。

 

   睡猫の畫に

 思ひ寐の猫にかげろふもえにけり   也有

 

 この句は単なる睡猫図であるが、「思ひ寐」の一語に恋猫の意を現している。同じく陽炎(かげろう)を配してはあっても、これでは連想に訴えるものがない。ゆらゆら燃える陽炎を猫の思に擬するなどはそもそも末の事である。

 

 猫の尾の何うれしいぞ春の夢     賢明

 

 睡りつつある猫は耳を動かすのみならず、時に尾を動かすことがある。尾は猫の感情を現すところだから、夢中に尾を動かすのを見て、その夢に結びつけたのであるが、「何うれしいぞ」では仕方がない。そこへ往くと、

 

   つばくろ

 燕(つばくろ)の出入や猫の夢ごゝろ 任長

 

の句の方は、他の動きを配してあるだけに若干の変化を見せている。猫は室内にあり、燕は忙しく檐(のき)を出入するのであろうが、猫ははっきりそれを意識せず、うつらうつらとしているらしく解せられる。

 

 蝶とぶや腹に子ありてねむる猫    太舐

 屋根に寐る主(ぬし)なし猫や春の雨 同

 

 この句に至ると、著しく現実味が勝って来る。翩々(へんぺん)として蝶の飛ぶ下に猫の睡る光景は、什佐の句と大差ないにかかわらず、その猫が已に子を孕んでいるという現実問題が提起されたために、何となく感じが重苦しい。什佐や其角が睡猫そのものを観察しているのと異り、大袈裟(おおげさ)にいえば猫自身の生活状態に触れるところがある。それが春の懶(ものう)い感じと結びついて、蝶の飛ぶうららかな景色と調和することは慥(たしか)であるが、也有、賢明、任長等の描いた世界とは甚だ距離が遠い。

 俳諧に猫の恋を詠んだものが甚だ多く、孕猫(はらみねこ)を描いたものが少いのは、この現実感の過重によるものかも知れぬ。平福百穂(ひらふくひゃくすい)氏に「孕猫」の歌が八首あるが、雨、庭木、立春、というような自然が背景になっているため、現実感はよほど和げられている。太祀の句にしても可憐な猫蝶の動きが、全体の趣を和げていることは慥である。

[やぶちゃん注:「平福百穂」(明治一〇(一八七七)年~昭和八(一九三三)年日)は日本画家で歌人。後に一首出るが、他の当該短歌は確認出来なかった。]

 

 犬は主家の移転と共に直に移動するが、猫は旧栖(きゅうせい)の地を恋うて、そのままとどまることが往々ある。喪家(そうか)の狗(いぬ)と「主なし猫」との立場は同じであっても、事情は必ずしも同一ではない。今屋根に寐ているのは、如何なる事情であるかわからぬが、とにかく主を離れた浮浪猫である。猫が顔を洗うと天気が変るという俗説があり、それは猫の毛が水をはじかぬから、天気に敏感なのだろうと解している人があった。しかし現実の猫はそれほど雨を恐れない。春雨だから濡れても大事ないにせよ、大底の猫は平然として屋根で寐ている。百穂氏の「孕猫」にも「身ごもれる猫ひとり来てわが庭の春立つ雨に濡れて居るなり」というのがある。この場合も春雨であることが、その濡れる感じを和げていることは言を俟たぬ。

 

 春雨や寐返りもせぬ膝の猫      桃酔

 

 これも同じく春雨ではあるが、舞台はがらりと替る。一たび人の膝を占拠した猫は、容易に自ら動くものではない。久しきに及んで端坐の膝が痺(しび)れて来ても、依然として快眠を貪(むさぼ)っている。そのじっとしている様を「寐返りもせぬ」といったのである。閑居の徒然(つれづれ)に、膝を猫に貸して窓外の雨を眺める人も、蕩々(とうとう)たる天下の春の中に住しているのであろう。

 

 春雨や猫にあくびを移さるゝ     可得

 

 眠から一歩離れるけれども、春雨の因(ちなみ)によってここへ挙げて置こう。欠(あく)びは倦怠の発現であり、眠の前奏曲でもある。膝の上か、座辺かにいた猫が欠びをした。それを見た飼主も思わず欠びをした。凡そ天下に斯(かく)の如き瑣事(さじ)はない。しかしこの瑣事に何の興味を感ぜぬというならば、その人は春雨の趣を解せず、閑人閑中の趣を解せずというを憚らぬ。極言すれば竟(つい)に俳諧の或趣を解せずというところまで往くかもわからない。

 

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