柴田宵曲 俳諧漫筆(十)[やぶちゃん注:金魚に関わる俳諧随想。]
[やぶちゃん注:本篇は昭和二六(一九五一)年七月発行の雑誌『日本及日本人』に上記の通り、「俳諧漫筆(十)」として発表された。底本は一九九九年岩波文庫刊の小出昌洋編「新編 俳諧博物誌」に載る「金魚」を用いたが、「虫の句若干」の冒頭注で述べた通り、大幅な変更処理を施してある。なお、本篇は解説文中に多くの文語文引用があるが、それらも総て恣意的に正字化し、読みのある箇所は歴史的仮名遣に代えてある。
動物界 Animalia 脊索動物門 Chordata 脊椎動物亜門 Vertebrata 条鰭綱 Actinopterygii 骨鰾上目 Ostariophysi コイ目 Cypriniformes コイ科 Cyprinidae コイ亜科 Cyprininae フナ属 Carassius
キンギョ
Carassius auratus 亜種キンギョCarassius
auratus auratus。フナ属の突然変異を人為選択し、観賞用に交配を重ねた結果として人工的に生じた観賞魚である。]
我国にはじめて金魚が渡来したのは元和(げんな)年間だといい、また文亀二年だともいう。文亀と元和ではその間に百十何年の開きがあるが、元和にしたところでそう新しい話ではない。金魚に関してよく引かれる『西鶴置土産』の文章によれば、江戸の下谷にしんちゅう屋市右衛門なる者があって金魚銀魚を飼っていた。庭に七、八十も生舟(いけぶね)を並べていたというのだから、金魚の数も少くなかったに相違ない。中に一尺以上もある大きなのは五両、七両に買いもとめられるが、「是なん大名の若子樣(わこさま)の御慰(おなぐさみ)になるぞかし」と書いてある。ここへ棒振虫(ぼてふりむし)を捕って売りに来る者があり、この方は一日かかって漸く二十五文位の商売に過ぎぬ。西鶴の覘(ねら)いは恐しく高価な金魚を商う者に対し、その餌を捕って暮すみじめな生活者を持出したところにあるらしいが、金魚と孑孑(ぼうふら)との因縁がこの頃から現在まで連綿と続いているのは面白い。
[やぶちゃん注:「元和(げんな)年間」一六一五年から一六二四年まで。第二代将軍徳川秀忠及び第三代徳川家光の治世。現在(二〇一七年)から数えると、四百二年から三百九十二年前。
「文亀二年」室町(或いは戦国初期)時代。一五〇二年。室町幕府将軍は第十一代足利義澄。同じく現在から数えると、五百十五年前。南方熊楠の随筆「金魚」(昭和二(一九二七)年八月及び十月刊の雑誌『彗星』初出。「続々南方熊随筆」に収録)の中に、
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本邦へ金魚が初めて渡った年代については、元禄八年に成った『本朝食鑑』七に、外国より来たって五、六十年来玩賞す、とあれば、寛永十一年から正保二年までに渡ったらしい。しかるに『大和本草』一三には、「むかしは日本に無之(これなし)。元和年中異域より来たる。今世飼う者多し」とあって、この書ができた宝永五年、すでに希有の物でなかったと示す。甲州で見世物にした享保九より十六年前だ。さて白井光太郎博士の『増訂日本博物学年表』には、文亀二年(元和元年より百十二年前)正月支那より始めて金魚を泉州堺浦に将来す、とある。博士はきわめて綿密な人ゆえ、必ず確かな拠(よりどころ)あっての言だろう。金魚初めて渡った年次として指されたうち、この文亀二年が一番古い。
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とある(引用は平凡社「南方熊楠選集5」に拠った)。因みに、同「金魚」の全文はG-kingyo氏のブログ「G-kingyo」の「難しいことは解からないが・・・メンデルの法則(最後)」で読める。
「文亀と元和ではその間に百十何年の開きがある」最大長で百二十二年、最小で百十三年。なお、ウィキの「金魚」では、最初の本格的な渡来そのものは文亀二年説を採っている。『日本では鎌倉時代にはその存在が知られていたが、金魚そのものは室町時代に中国から伝来した』。宵曲も紹介する「金魚養玩草」によれば、文亀二年に『和泉国堺(現、大阪府堺市)に渡来したとある』。『ただ』、『当時はまだ飼育方法や養殖技術等が伝わっておらず、定着には至らなかった』。『江戸時代に大々的に養殖が始まったが、その初期においてはまだまだ奢侈品であり、江戸前期の豪商である淀屋辰五郎は、天井にとりつけた舶来物のガラス製の大きな水槽の中に金魚を泳がせ、下から眺めることにより暑気払いをしたと伝えられている。江戸中期にはメダカとともに庶民の愛玩物として広まり、金魚売りや金魚すくいなどの販売形態も成立した』(ここでウィキの筆者は『俳句においては夏の季語となっている』と記すのはおかしい。宵曲が精査したように、江戸時代には「金魚」俳諧(発句)の季詞(きのことば)としては認知されていないし、そもそも「俳句」という呼称は明治期の子規の革新運動以後の新語であり、明治の「俳句」の「季語」としての確立をここに記すのもおかしい)。『金魚愛好が広まったのは』延享五(一七四八)年に『出版された金魚飼育書である』安達喜之「金魚養玩草」の『影響が大きいといわれている』。『ただ』、『当時は今のような飼育設備もなかったために、屋敷に池を持っているような武士・豪農・豪商でもなければ金魚を長く生かし続けることは不可能で、庶民は金魚玉と呼ばれるガラス製の球体の入れ物に金魚を入れ』、『軒下に吊るして愉しんだり、たらいや陶器・火鉢などに水を張って飼育したようである。ガラスが普及する前は桶などに入れていたため、金魚を上から見た見た目が重要視された』。『化政文化期には現在の三大養殖地で大量生産・流通体制が確立し、金魚の価格も下がったことから本格的な金魚飼育が庶民に普及する。品評会が催されるようになったほか、水槽や水草が販売され始めるなど飼育用具の充実も見られた。このころには歌川国芳の戯画「金魚づくし」(天保年間)をはじめ、当時の浮世絵や日本画の画題としても広く取り上げられている。幕末には金魚飼育ブームが起こり、開国後日本にやってきた外国人の手記には、庶民の長屋の軒先に置かれた水槽で金魚が飼育されているといった話や金魚の絵などが多く見られる』とあり、『明治維新後、ヨーロッパの「愛玩動物(ペット)」の概念が持ち込まれ、犬や猫とともに家庭において愛玩用に飼育される典型的な動物の一つとなった。学校の池などでの飼育も始まり、また明治時代から大正時代にかけて庶民の生活が次第に豊かになると、キンギョの需要も多様化し、中国からの移入や新品種の作出なども盛んになった。戦時中は「金魚を飼っている家には爆弾が落ちない」という流言が東京中に拡がり、人々は争って金魚を求めた。しかし戦争中であり、生きた金魚の入手は不可能に近く、陶器で作られた金魚のおもちゃが飛ぶように売れたという』。『一般に流通する品種も増え、第二次世界大戦後は理科の教材として取り上げられ』、『更に普及した。現在も縁日や夜店の金魚すくいなどを通じて日本人には馴染み深い』とある。
「西鶴置土産」浮世草子。井原西鶴遺稿五巻五冊。元禄六(一六九三)年刊。西鶴没後(西鶴は寛永一九(一六四二)年大坂生まれで、元禄六年の八月十日に同じく大坂で亡くなっている)に門人の北条団水が編した。好色生活の果て、落魄(おちぶ)れた大尽たちの末路を十五話に亙って描く。参照した「ブリタニカ国際大百科事典」によれば、『没落に付き物の暗さが少く』、『色道をきわめ尽した者の安堵感が漂っている。西鶴晩年の達観した作風をみせており』、『栄枯盛衰の世を淡々と見つめる目が感じられる』とある。以上の話は「卷二」にある「人には棒振むし同前に思はれ」で、嘗ては「月夜の利左衞門」と称せられた御大尽であったが、今は零落して女郎を妻にし、親子三人、金魚の餌の棒振虫(ぼうふりむし:蚊の幼虫のボウフラ)を売った日銭で暮らす身の上の男が、昔の遊び仲間に出逢うが、自身の生きざまは「女郎買い」に生きた者の当然の結果なのであって、恥ずるところは全くないとし、彼らの援助を振り捨てて生きる話である。私は所持しないが、国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここから視認出来る(短い話である)。なお、後の私の「嬉遊笑覧」の注で引用した、先に示した南方熊楠の「金魚」(部分)を参照されたい。]
『西鶴置土産』は元禄六年の出版である。しかしこの書は題名の示す如く西鶴の歿後に遺稿として出たものだから、実際に書かれたのはもう少し前になるのであろう。しんちゅう屋という金魚屋は有名なものであったらしく、種彦などは
納涼
影涼し金魚の光り鎭鍮屋 調栬(ちやうせい)
という句を挙げて考証している。『西鶴置土産』より早く貞享(じょうきょう)五年に出た『好色盛衰記』にも「又の日は金魚を生舟にあつめ、狂言をさせけるが、是もつゐ、水になして」という記載がある。狂言というのは金魚の水中に躍る様を形容したので、種彦はこの事についてもまた
をどれるや狂言金魚秋の水 松滴
という句を挙げているが、「狂言金魚」の語は「狂言綺語(きぎょ)」を利かせているように思う。文学に現れた金魚としては、先ずこの辺が早いところであろう。
[やぶちゃん注:「しんちゅう屋という金魚屋」後の私の「嬉遊笑覧」の注で引用した
「貞享五年」一六八八年。
「好色盛衰記」井原西鶴の浮世草子。御大尽好色物。当該作は「卷三」の「二 反古と成る文宿大臣」、国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここから視認出来る(これも短い)。
「狂言綺語(きぎょ)」「狂言綺語」(「きご」と読んでもよい)は、道理に合わない言葉と巧みに飾った言葉。仏教・儒教などの立場から、小説・物語の俗書類を批判的に言ったもの。]
宝暦四年版の『世間御旗本客気(せけんおはたもとかたぎ)』には金魚の好きな大久保金五右衛門という人が出て来る。この人のは単に見て楽しむばかりではない。「今時流行商賣の慰にて、若(も)し望人もあれば價宜しく賣代なし抔(など)せられける由にぞありける」とあるから、当時已に素人が半商売的に金魚を飼う風があったと見える。この人の腰元に蘭という女があり、金魚の辛から奥方に責められて亡くなった後、飼われた金魚の姿が異様になつて来た。「右の如くなりしを世上にてはらんちうと唱へ、狂ふさまを石橋(しやつきやう)をなすと悦び、大久保種と賞翫して世に廣まりける」というのは江戸時代によくある因縁譚(ばなし)で、らんちゅうという金魚の名称から思いついて、腰元の名を蘭とした一場の作り話に外ならぬが、「石橋をなすと悦び」の語には前の狂言と相通ずるものがあるようである。
[やぶちゃん注:「宝暦四年」一七五四年。
「世間御旗本客気(せけんおはたもとかたぎ)」馬場文耕作の浮世草子。所持せず、読んだこともないので原文は示せない。
「狂ふさまを石橋(しやつきやう)をなす」謡曲の「石橋(しゃっきょう)」に基づく譬え。ウィキの「石橋」によれば、『獅子口(獅子の顔をした能面)をつけた後ジテの豪壮な舞が見物、囃子方の緊迫感と迫力を兼ね備えた秘曲が聞き物である。なお後段の獅子の舞については古くは唐楽に由来し、世阿弥の時代には、猿楽や田楽に取り入れられていた』。『仏跡を訪ね歩いた寂昭法師(ワキ)は、中国の清涼山の麓へと辿り着いた。まさに仙境である。更に、ここから山の中へは細く長い石橋がかかっており、その先は文殊菩薩の浄土であるという。法師は意を決し橋を渡ろうとするが、そこに現われた樵(前シテ)は、尋常な修行では渡る事は無理だから止めておくように諭し、暫く橋のたもとで待つがよいと言い残して消える』(ここまでが前段)、『中入に後見によって、舞台正面に一畳台と牡丹が据えられ、後段がはじまる。「乱序」という緊迫感溢れる特殊な囃子を打ち破るように獅子(後シテ)が躍り出、法師の目の前で舞台狭しと』、『勇壮な舞を披露する』(これが文殊菩薩の霊験とする)。『小書(特殊演出)によっては、獅子が二体になることもある。この場合、頭の白い獅子と赤い獅子が現われ、前者は荘重に、後者は活発に動くのがならいである。前段を省略した半能として演じられることが多い。まことに目出度い、代表的な切能である』とある。]
『世間御旗本客気』より六年前、即ち寛延元年に泉州堺の人安達喜之の『金魚養玩草(そだてぐさ)』が出ている。金魚飼育に関する心得を一わたり述べたもので、らんちゅうの事も近年異国から渡ったとして最後に記してある。こういう書物が刊行されているところを見れば、金魚の普及していたことも思いやられるが、俳諧の天地に眼を移すと意外に作品が少い。
藻の花や金魚にかゝる伊予簾(いよすだれ) 其角
の一句は漸くにして尋ね当てた疎玉の如きもので、あるいは金魚そのものよりも珍重に値するかも知れぬ。あれだけ人に愛玩され、色彩の上からいっても目につくはずのものが、どうして俳人の顧るところとならなかったか、今日からでは殆ど想像がつかぬ位である。
[やぶちゃん注:「伊予簾(いよすだれ)」元句の多くは「いよすだれ」と平仮名表記である。伊予国上浮穴(かみうけな)郡露峰(つゆのみね:現在の愛媛県上浮穴郡久万高原町露峰。ここ(グーグル・マップ・データ))産の篠竹で編んだ上等のすだれ。「いよす」とも呼ぶ。小学館「日本大百科全書」によれば、『平安時代の伊予国(愛媛県)の代表的な物産』で、『都の貴族の邸宅で日よけとして使われ、風情あるものとされたらしく』、「枕草子」にも『庭いと淸げにはき、伊予簾掛け渡し、布障子など張らせて住ひたる』と記し、「詞花和歌集」には「逢事(あふこと)はまばらに編めるいよ簾いよいよ人を佗(わび)さする哉(かな)」と詠まれており、幕末の半井梧庵の著になる「愛媛面影(えひめのおもかげ)」には、「伊予國、むかしより簾を出す、名産なり、篠もて荒々と編(あみ)たり』と出る。江戸時代は大洲(おおず)藩に属し、』『製品は大坂あたりへも出されたが、現在は民芸品として地元でわずかに生産されている』とある。]
尤も古人は金魚を独立した夏の季題に入れていない。最初に引いた鎮鍮屋の句にしても、納涼の前書を置いた上に「涼し」の語を以て夏としているのであり、其角の句も藻の花乃至(ないし)簾が主で、金魚は景物の形になっている。「狂言金魚」の句が殊更に秋の水といっているところを見ると、この時代の人はあるいは金魚から夏の感じを受けなかったのかも知れぬ。
夏待や水に箔(はく)おく金魚うり 秋郷
この句の金魚もまだ独立した季題になっていない。「夏待」というのは春季であるが、金魚を夏のものと見る気分は十分現れている。夏近く金魚売の声を耳にする趣は今日も同様である。
[やぶちゃん注:「夏待や」読みは「なつまつや」であろう。]
ただ「水に箔おく」は形容に過ぎて、かえって実感に遠ざかった点があるかと思う。
金魚が独立した夏の季題になったのは何時頃(いつごろ)からであろうか。馬琴の『俳譜歳時記栞草(しおりぐさ)』なども無論入ってない。江戸時代に成った類題集を二、三調べて見たが、やはり夏の部に金魚の句が出ていない。明治以後か知らんと思って『新俳句』を点検したところ、これも金魚の句を欠いている。『新俳句』と同じく明治三十一年に出た秋声会の句集『俳諧木太刀』に、はじめて左の三句を発見することが出来た。
[やぶちゃん注:「馬琴の『俳譜歳時記栞草(しおりぐさ)』」三千四百二十余の季語を採録した滝沢馬琴編になる歳時記。享和三(一八〇三)年刊。私も所持するので確認した。ない。
「新俳句」明治三一(一八九八)年に刊行された子規門下の俳句アンソロジー。
「俳諧木太刀」秋声会なる俳句会の、角田竹冷という方の選になる選句集のようである。]
堂前やいつもの爺の金魚賣る 小波(さざなみ)
病室の窓に下げたる金魚かな 曲瀨
京の宿金魚水盤に放ちたり 竹冷
これが他の季題に配せざる金魚の句の早いところであるかどうか。いわゆる新派が崛起(くつき)する以前の明治の句集などは、一向見たことがないから、断言することは困難であるが、日本派の方でも『春夏秋冬』になると金魚の句が十句近く載っている。
[やぶちゃん注:「崛起」「屈起」とも書く。急に起きて立つこと。抜きん出るようになること。]
金魚飼ふて能の太夫の奢りかな 碧梧桐
ながながと幾日金魚の糞の耻 同
しだり尾の錦ぞ動く金魚かな 同
水中に紅爛々と金魚かな 格堂
金魚賣て暮らす祇園の街かな 同
もらひ來る茶碗の中の金魚かな 鳴雪
短夜の金魚短き命かな 抱琴
淺ましく尾を食はれたる金魚かな 笠雨
宝生九郎は金魚を飼うのに熱心で、非常に上等なのを作り出すという評判であった。「能の太夫の奢り」はそれを詠んだのかも知れぬ。金魚に対しこれだけ種々の観察を試みる人たちにして、数年前の『新俳句』に一句もないというのは不思議であるが、あるいは新しく取上げた季題なるが故に特に生趣に富んでいるのであろうか。
[やぶちゃん注:この「春夏秋冬」(俳句選集。明治三四(一九〇一)年から同三十六年にかけて俳書堂から刊行された。春・夏・秋・冬と新年で四季四冊から成る。子規一門『日本』派の句集で、子規が撰した春の部から刊行を開始したが、続く三冊は子規の病状が悪化しため、高弟であった河東碧梧桐と高浜虚子の二人の共撰となっている)の「金魚」の部立ての入る「夏之部」(明治三五(一九〇二)年五月発行)は復刻版を所持するので、原典表記で確認したが、宵曲の引用は正確でない。最初の句を「飼う」と表記してしまっており、「耻」も「恥」となってしまっている。
「幾日」「いくか」。「幾日(いくにち)も」の意であろう。
「街かな」「街」は「ちまた」と訓じているものと思う。]
意外なのは子規居士に殆ど金魚の句がないことであった。居士はいずれかといえば華な色彩を好む人であり、ガラス玉に入れた金魚のことは『墨汁一滴』に二カ所も出て来る位だから、病牀における金魚の句が必ずあると思ったが、不幸にして一句も見当らない。「若葉さす市の植木の下陰に金魚あきなふ夏は來にけり」という歌は俳句になりそうな趣であるにかかわらず、俳句の方にはかえってこういう題材を捉えたものがない。僅(わずか)にあるのは病牀などには縁の遠い
春水や圍ひ分けたる金魚の子 子規
の一句である。金魚の句としては頗る珍しいけれども、囲い分けるほどの金魚の子では人の目を惹く色彩もあるまい。その点何だか寂しい気がする。
[やぶちゃん注:「『墨汁一滴』に二カ所も出て来る」「墨汁一滴」は子規の没する前年の明治三四(一九〇一)年に新聞『日本』に一月十六日から七月二日に連載された(途中に四日だけ休載)随筆。宵曲の言うのは、まず、四月十五日のクレジットの以下。
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ガラス玉に金魚を十ばかり入れて机の上に置いてある。余は痛いたみをこらへながら病床からつくづくと見て居る。痛い事も痛いが綺麗(きれい)な事も綺麗ぢや。
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今一つは、六月一日の以下。
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ガラス玉に十二匹の金魚を入れて置いたら或る同じ朝に八匹一所に死んでしまつた。無慘。
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「若葉さす市の植木の下陰に金魚あきなふ夏は來にけり」明治三一(一八九八)年の一首。
「春水や圍ひ分けたる金魚の子」は子規の没した明治三五(一九〇二)年の句(子規は同年の九月十九日に逝去)は、日本の俳人、歌人、国語学研究家。名は常規(つねのり。但し、原句表記は「春水ヤ圍ヒ分ケタル金魚ノ子」とカタカナ表記のようである。]
藻をくぐり水に浮ぶ金魚の美は、池中のものとしても味われぬことはないが、ガラスの器に入れて見る時、一層の美を発揮する。びいどろを隔てて見る金魚のことは『嬉遊笑覧』にも出ており、古人も全然知らなかったわけではないにせよ、金魚といえばガラスがつきもののようになったのは明治以後の現象に相違ない。金魚の句が明治に至って大に出て来るのも、ガラスの発達と関連するところがありそうに思われる。右に挙げた『春夏秋冬』中の諸句にしても、大体玻璃器(はりき)中のものと見るべく、鳴雪翁の句のように茶碗の中に入れて来るなどは、いささか特別な場合に属する。別に何とも断らないでガラスを連想し得るほど、金魚とガラスとは不可分の関係にあるのである。
[やぶちゃん注:「嬉遊笑覧」は国学者喜多村信節(きたむらのぶよ 天明三(一七八三)年~安政三(一八五六)年)が天保元(一八三〇)年に刊行した、江戸後期の風俗習慣・歌舞音曲等について記した膨大な随筆。各巻上下二章・全十二巻・附録一巻。その金魚の記載は「巻十二 上」の終りの方に出る。国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここで視認出来る。また、先に挙げた南方熊楠の随筆「金魚」の中にも、
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『嬉遊笑覧』一二下に、「江戸には、そのかみ金魚屋も少なかりしなるべし。『江戸鹿子』に、上野池の端しんちうやとあるのみなり。西鶴が『置土産』(江戸下谷の条)、黒門より 池の端を歩むに、しんちうや市右衛門とて、かくれもなき金魚、銀魚を売るものあり、生舟(いけふね)七、八十も並べて、溜水清く、云々、中にも尺にあまりて鱗のてりたるを、金子五両、七両に買い求めていく、云々」。貞享・元禄のころ江戸に金魚屋があったので、金に似た色の真鍮もて屋号としたのだろう。『柳亭筆記』にも、延宝八年板『俳諧向の岡』より、「影涼し金魚の光りしんちう屋」という句を引きある。としたりげに書いてさて前文をみると、真鍮屋はもと煙管を売った縁でつけた号という考証を出しある。また万治三年成った『新続犬筑波集』の「をどれるや狂言金魚秋の水」なる句を引き、金魚の水中に宛転するを狂言ということも古い、と言いおる。
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とある。これを読むに、宵曲の本篇のネタ元の大きな一つは、実は南方熊楠のこの「金魚」だったのではあるまいか? という疑いが生じてくるのであるが、如何(いかが)?]
蓮の實の飛べば金魚のぱつと行く 紅綠(こうろく)
孑孑や紅(くれなゐ)澱(よど)む金魚鉢
同
この二句は明治の金魚の句として少し早い方であるかも知れぬ。早いといっても一年か二年の話であるが、金魚だけで独立せず、他の季題を配している点が自ら前後の境界線に立っているように思われる。蓮の実の句は無論池に飼われている金魚で、季節も秋だから大分趣が異っている。
金魚の季題が独立してからの句は一々挙げるに堪えぬ。伝来の古く、愛玩されることの久しい割に、金魚があまり句に詠まれなかったのは単に季題として独立しなかったためであるかどうか、なお考えて見る余地がありそうである。
金魚史を草す机上の雜書かな 虛子
という句は金魚そのものを描かず、書物の中の金魚を持ち来ったところに特色がある。もし金魚史を草する人があるとすれば、かなりいろいろな書物を渉猟せねばならぬことになるであろう。こういう方角から金魚に臨むのも、俳諧的態度の一の現れである。