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2017/11/05

柴田宵曲 續妖異博物館 「魚腹譚」

 

 魚腹譚

 

 錢塘の杜子恭が人から瓜を切る刀を借りた。後に持ち主が返して貰ひたいと云つたら、あれはそのうち返すよ、と答へた。刀の持ち主が嘉興まで行つた時、一尾の魚が躍つて船中に入つたので、その腹を割いたら子恭に貸した刀が出て來た。これは子恭の祕術であると「搜神後記」に見えてゐる。

[やぶちゃん注:以上は「第二卷」の「杜子恭」。

   *

錢塘杜子恭、有祕術。嘗就人借瓜刀、其主求之、子恭曰、「當卽相還耳。」。既而刀主行至嘉興、有魚躍入船中。破魚腹、得瓜刀。

   *]

 

 唐の元稹が黃鶴樓に登つて遙かに江の方を望むと、何か殘星のやうな光りが見える。人を見せにやつたところ、舟を泛べて釣りをしてゐる者がある。光り物の事を尋ねると、成程そんなものが見えましたが、先刻鯉を釣り上げたら、それきりなくなりましたといふことで、その人は鯉を携へて戾つて來た。早速料理人に命じて腹を割かせる。中から出て來たのは、錢ぐらゐの大きさの鏡で、その背面に二つの龍が鑄出されてゐる。極めて小さいものであるが、鱗鬣爪角悉く具はり、實に精巧なものであつた。この鏡が鯉の腹を透して光りを放つたらしい。元稹はこれを寶とし、大事に箱に藏してゐたが、元稹が亡くなると共に鏡も見えなくなつた。

[やぶちゃん注:「元稹」(げんしん 七七九年~八三一年)は言わずと知れたあの中唐の名詩人。かの白居易と無二の親友にして、詩人としても「元白」と並称された。小説家としても卓抜した腕前を持ち、伝奇「鶯鶯傳」はこれ以降に流行することとなる小説類の模範的濫觴となった。

「黃鶴楼」(こうかくろう)は現在の武漢市武昌区に嘗て存在した楼閣。現在はほぼ同位置に再建された楼閣が建つ。武漢随一の名勝地で、「江南三大名楼」の一つ。李白の「黃鶴樓送孟浩然之廣陵」(黃鶴樓にて孟浩然の廣陵に之(ゆ)くを送る」や崔顥の「黃鶴樓」の名篇でよく知られる。]

 

 この話は有名なものと見えて「三水小識」にもあり「小説舊聞記」にもある。「拾遺御伽婢子」の「魚腹の鏡」はこの材料を使つたので、伯耆國の話になつて居り、最初の殘星の如き光りはなく、釣り上げた後、魚鱗がおびたゞしく光る。宵闇の道を照らすほどであつたので、歸宅して腹を割くことになつてゐる。龍の二つが一つになつてゐるくらゐの事で、翻案の妙と見るぺきところは別にない。

[やぶちゃん注:「三水小識」これは「三水小牘」の誤り。「三水小牘」は「さんすいしょうとく」(現代仮名遣)と読み、唐末の皇甫枚(こうほばい 生没年未詳:白居易の従兄の外孫に当たる)の撰になる。原著三巻は散逸したものの、明代に刻本が作られ、二巻本として現存する。以上の話は同書「卷上」の「元稹烹鯉得鏡」である。この私でさえ唐代伝奇関連書で読んで高校時代から知っている。

   *

丞相元稹之鎭江夏也、嘗秋夕登黃鶴樓、遙望河江之湄、有光若殘星焉、乃令親信某往視之。某遂棹小舟、直詣光所、乃釣船中也。詢彼漁者、云、「適獲一鯉,光則無之。」。親信乃攜鯉而來。既登樓、公庖人剖之、腹中得鏡二、如古大錢。以面相合、背則隱起雙龍、雖小而鱗鬣爪角悉具。既瑩、則常有光耀。公寶之、置臥内巾箱中。及相公薨、鏡亦亡去。

   *

「小説舊聞記」唐の柳公権撰の志怪小説集。当該原文は調べ得なかった。

「拾遺御伽婢子」浅井了意の中国翻案の割合が高い「御伽婢子」を受けて、柳糸堂なる人物の書いた元禄一七(一七〇四)年刊の怪談集。所持しないので、原典を示せない。]

 

 王昌齡が舟で馬當山に到つた時、舟人から、こゝに來た者は貴賤を問はず、皆廟に詣でて風水の難なきやうに祈ると云はれたが、昌齡はとゞまることが出來ぬので、使をして酒脯紙馬を大王に、履を大王夫人に獻ぜしめ、一詩を以て水路の安きを禱ることにした。然るに履を買ふに當り、倂せて金飾りの小刀を求め、小刀を履の中に入れて置いたので、うつかりそのまゝ神に獻じてしまひ、使ひの者もそれに氣が付かなかつた。昌齡が小刀を搜し、この事がわかつた時はもう遲かつた。舟が何里か行つた頃、三尺ばかりもある鯉が昌齡の舟に飛び込んだので、天來の御馳走だと笑つて料理せしめたら、その腹から小刀が出て來たと「博異志」に見えてゐる。この話は最も「搜神後記」の話に近い。昌齡歎息して、鬼神の情また照然たりと云つたとあるが、これは鬼神の致すところだから、杜恭のやうな祕術を用ゐるまでもなかつたことと思はれる。李㴞の妻が銀の釵(かんざし)を拔いて徐君廟に禱り、その釵が魚腹より現れたといふ「異苑」の詰も、こゝに倂錄すべきものである。

[やぶちゃん注:「王昌齡」(六九八年~七五五年)盛唐の名詩人。七三四年に博学宏詞科に及第して汜水(しすい:現在の河南省)の県尉となったが、奔放な生活が祟って、江寧の丞・竜標(湖南省)の県尉に落とされた。安禄山の乱の際、官を辞して故郷に帰ったが、刺史閭丘暁に憎まれ、殺された(ウィキの「王昌齢」に拠る)。魚腹譚には名詩人が合うらしい。

「里」これは唐代の話であるから、一里は五百五十九・八メートルしかない。

 以上は、「太平廣記」の「神十」に「博異志」を出典とする「王昌齡」として載る。

   *

開元中。琅邪王昌齡。自抵京國。舟行至馬當山、屬風便、而舟人云。貴識至此、皆令謁廟。昌齡不能駐、亦先有禱神之備。見舟人言、乃命使齎酒脯紙馬、獻於廟、及草履致於夫人。題詩云。靑驄一匹崑崙牽、奏上大王不取錢。直爲猛風波滾驟、莫怪昌齡不下船。讀畢而過。當市草履時、兼市金錯刀一副、貯在履内。至禱神時、忘取之。誤幷將往。昌齡至前程、求錯刀子。方知其誤。又行數里、忽有赤鯉魚、可長三尺。躍入昌齡舟中。呼使者烹之。既剖腹、得金錯刀、宛是誤送廟中者。

   *

或いは、この元記者は後に王昌齢が殺される遠因を、暗にこの不祥事に遡ると言いたかったのかも、知れぬと私は読んだ。]

 

 魚腹に關する話に金屬製品の多いのは當然であるが、その内容は自然に魚腹に入つたものと、魚を藉りて人に傳へさせるものとの二つに分れる。荊隆口の龍王廟下に買ひ得た鰻は長さ六尺ばかりもあり、その腹から出たものは紅い錦の囊(ふくろ)で、中には六種の品物が藏されてゐた。外に一通の書簡があつて、水浸しになつてはゐたが、記された言葉は甚だ悽惋であつた。婦人が愛人に送るつもりでこの事をしたゝめ、志を逐げずして、河に投じて死し、所持の錦の囊が魚腹に入つたものかと察せられる。

[やぶちゃん注:「藉りて」「かりて」。借りて。

「荊隆口」恐らくは黄河左岸開封の対岸、現在の河南省新郷県封丘県荊隆宮郷と推定する。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「悽惋」は「せいわん」と読み、「悽」は「痛む」、「惋」は「恨む」。悲しみのために心が痛むことを言う。「悽傷」「悽楚」「悽悼」「悽惻(せいそく)」は総て同義。

 珍しく宵曲は、以上の出典を落している。これは王漁洋の号で知られる清初の名詩人王士禎(おうしてい 一六三四年~一七一一年)の「池北偶談」の「卷二十五」に載る以下である。

   *

張生太室言、順治十三年、渡河至荊隆口龍王廟下、見堤夫買得大鱣魚、長六尺許、剖其腹得紅錦袋一枚、中藏珍珠一、琲金約指四玉、條脱一牛黃丸子一紅甲二片香藥一裹。又私書一紙半。已浥爛詞甚悽惋。似是婦人欲寄所私、不遂投河死而入魚腹也。張、賦「魚腹怨」、紀之。

   *

中文サイトから白文のものをやっと見つけたもので、記号類は総て私が打ったのでおかしいかも知れぬ。]

 

 魚腹の書となればおのづから問題が違つて來る。龍王廟下の大鰻の場合は河に投じた不幸な婦人の所持品が、一括して魚腹から現れたので、悽惋なる書簡は張生なる者の讀むところとなり、「魚腹怨」の一詩を賦せしめたわけであるが、その書簡も「魚腹怨」も傳はつてゐない。「列仙全傳」の葛玄は海濱で死魚を求め、文字をしたゝめた紙をその口に含ませると、魚は俄かに蘇生し、水に投げ込まれるなり勢ひよく泳ぎ去つた。これは葛玄が魚腹を借りて河伯の許へ行かうといふ話なのだから、最初から魚を封筒代りに使つたのである。死んだ魚が蘇つて泳ぎ去る一條は、杜子恭の瓜刀の場合と同じく、葛玄の祕術に屬するのであらう。

[やぶちゃん注:「葛玄」個人サイト「三国志的話題」のこちらに詳しい。そこに『 水辺で魚を売るものに向かって葛玄が「この魚に河の神のところへ使いに行ってほしいのだが」と訊いた。魚売りが「死んでいるのに無理でしょう」というと、葛玄は「構わん」といい、朱書きした紙を魚の腹に納めて、魚を水中に投げ入れた。しばらくすると魚は戻ってきて躍り上がり、墨書きしたものを吐き出すなり天へ飛び去った』というのが、まさに宵曲の言うそれである。]

 

 封筒は書簡を人に送る際の一形式であるが、その内容が絶對に祕密を要するに及んで、いろいろな人間の智慧が生れて來る。「博異志」に見えた王昌齡の言葉の中に「剖鯉得貴書」といふ古詩が引いてあるから、魚を封筒代りに使ふことは屢々あつたらしい。日本でも「宇治拾遺物語」に「鮒のつゝみ燒のありける腹に、ちひさく文を書きて押し入れて奉り給へり」といふことがある。吾々は魚腹の書といふと、生魚を連想し勝ちであるが、封筒に使ふならば燒肴でもいゝわけである。

[やぶちゃん注:『「博異志」に見えた王昌齡の言葉の中に「剖鯉得貴書」といふ古詩が引いてある』私が前に引いた「太平廣記」版ではないが、中国語の書籍のこちら(グーグルブックス)の同じ話柄の記載の中にこの詩句を見ることが出来る。]

 

 明治十七年二月二十四日の「開花新聞」に「鯉の腹中に小柄(こづか)を入れ豐臣秀賴の一行を薩州へ無事に落せしと云ひ傳ふる難波御陣の昔話ならねど」といふ書き出しで、雁の腹から目貫(めぬき)が出た下總國東葛飾郡の話を傳へてゐる。「探偵夜話」(岡本綺堂)の「宇喜世新聞の記事」にも當時の新聞が材料に使はれてゐるが、その話の鰡(ぼら)の腹から出たのは封筒だけであつた。從つてこれは魚を封筒代りに使用したものではない。封筒の紙が半ばちぎれて宛名がはつきりわからぬところに、「探偵夜話」らしい謎が殘されてゐるが、この魚腹の書は前の事件に繫がるといふよりも、最後の一石としてその時代の客氣を出すために置かれたもののやうな氣がする。魚腹譚も手繰れば手繰るほど多岐に亙り、意外に近いところまで來るから面白い。

[やぶちゃん注:「明治十七年」一八八四年。

「開花新聞」改進党系の小(こ)新聞の改名紙名の一つ。明治一一(一八七八)年一月に『有喜世(うきよ)新聞』の名で創刊されたが、後に政府の発行停止処分を受けたことから、 五年後の明治十六年に、この『開花新聞』として新発足したが、翌年の八月には『改進新聞』と改題した。本紙は『郵便報知新聞』と姉妹関係にあった。明治二一(一八八八)年にはかのフランス人画家ビゴーを入社させて時事風刺漫画で人気を博したが、次第に衰え、明治二十七年にはまた『開花新聞』と改題したものの、間もなく、廃刊した(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

「豐臣秀賴の一行を薩州へ無事に落せし」秀頼生存説の一つ。ウィキの「豊臣秀頼によれば、『大阪が落城した際、秀頼達が絶命する瞬間を目撃した者がおらず、死体も発見されなかったことから生存説があ』り、「日本伝奇伝説大辞典」の『星野昌三による「豊臣秀頼」の項などで』、『以下のとおり』、『記述されているが、どれも伝説的な逸話である』。『平戸にいたリチャード・コックスの東インド会社への手紙(日記にも記述あり』『)では薩摩・琉球に逃げた』とし、ジャン・クラッセの「日本西教史」には、『「一説には母と妻とを伴なひ辺遇の一大諸侯に寄寓し、兵を募り』、『再挙を謀ると云ひて一定せず』『」とあり、当時の京に流行した「花のようなる秀頼様を、鬼のようなる真田が連れて、退きも退いたよ鹿児島へ」という童謡が真田信之のいた松代でも聞こえたと』、「幸村君伝記」にも『記載されており、生存の噂が』大坂夏の陣直後から『流布していた』ことが判る。「採要録」には『薩摩国谷山に元和』の初め、『浪士が住み着き、国主から』与えられていた『家に住んでいたが』、『酒好きで』、『いつも酔ってあちこち寝転がることから「谷山の酔喰(えいぐら)」とよばれていた。国主から』「手出し禁止」『を命じられ、住民はひそかに秀頼公ではないかと噂していたという。末に「右ハ分明ナラザレドモ、土民ノ伝フ言ヲ記シ置クモノナリ。信ズルニモアラズ。捨ツルニモ非ズ。後人ノ考モアルベシ」と記述されている』とあり、また、『鹿児島市下福元町に伝秀頼墓と伝わる塔があり、付近の木之下川に伝家臣墓』二基も存在するという。『鹿児島県の郷土史家・後藤武夫は、秀頼は大坂城落城後、国松と共に九州に逃れて』、『日出藩主・木下延俊の庇護を受け、宗連と号し』、四十五『歳まで生き、国松は延俊の養子(表向きは実子(次男)扱い)となり』、『長じて立石領初代領主・木下延由となったとする説を唱えた』。『旧日出藩主木下家』第十八『世当主である木下俊煕は著書』「秀頼は薩摩で生きていた」(昭和四三(一九六八)年新峰社刊)で、『秀頼は宗連といい、日出藩木下家が落ち延びた秀頼と国松を密かに庇護したこと、それを疑った幕府が松平忠直を隠密として配流したという内容の生存説を出し』、『豊臣正統』十四『世を自称する木場貞幹は』雑誌『歴史と旅』(昭和五八(一九八三)年八月臨時増刊号)に於いて、『「太閤の後裔は亡びず」と題した記事で口伝の秀頼薩摩亡命とその後を発表して』おり、『江戸時代の小説』「真田三代記」の『「真田幸村、秀頼公を伴ひ薩州へ落る事並びに島津家由緒の事」では、幸村主導で大助、長宗我部盛親、後藤又平衞ら』百五十『名が夜』、『丑の』刻、『抜け穴から誉田に出、島津家の伊集院刑部、猿沢監物と兵庫の浦から海路薩摩へ逃げたことになっている』とある。

「目貫」太刀および刀などの身が柄(つか)から抜けないように、柄と茎(なかご)の穴に差し止める釘。目釘。或いは、それを蔽う金具をも指す。次第に刀装の中心となり、精緻美麗な装飾性の高いものとなった。

『「探偵夜話」(岡本綺堂)』昭和五(一九三〇)年春陽堂刊。「青空文庫」が探偵夜話を電子化している。その「有喜世新聞(うきよしんぶん)の話」を参照されたい。]

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