江戸川乱歩 孤島の鬼(40) 暗中の水泳
暗中の水泳
私は子供の時分、金網の鼠取器にかかった鼠を、金網の中にはいったまま、盥(たらい)の中へ入れ、上から水をかけて殺したことがある。ほかの殺し方、たとえば火箸(ひばし)を鼠の口から突き刺す、というようなことは恐ろしくてできなかったからだ。だが、水攻めもずいぶん残酷だった。盥に水が満ちて行くに従って、鼠は恐怖のあまり、狭い金網の中を、縦横無尽に駈け廻り、昇りついた。「あいつは今どんなにか鼠取りの餌にかかったことを後悔しているだろう」と思うと、いうにいえない変な気持になった。
でも、鼠を生かしておくわけにはいかぬので、私はドンドン水を入れた。水面と金網の上部とがスレスレになると、鼠は薄赤い口を亀甲型(きっこうがた)の網のあいだから、できるだけ上方に突き出して、悲しい呼吸をつづけた、悲痛なあわただしい泣声を発しながら。
私は眼をつむって、最後の一杯を汲み込むと、盥から眼をそらしたまま、部屋へ逃げこんだ。十分ばかりしてこわごわ行って見ると、鼠は網の中でふくれ上がって浮いていた。
岩屋島の洞窟の中の私たちは、ちょうどこの鼠と同じ境涯であった。私は洞窟の小高くなった部分に立ち上がって、暗闇の中で、足の方からだんだん這い上がってくる水面を感じながら、ふとその時のことを思い出していた。
「満潮の水面と、このほら穴の天井と、どちらが高いでしょう」
私は手探りで、諸戸の腕をつかんで叫んだ。
「僕も今それを考えていたところだよ」
諸戸は静かに答えた。
「それには、僕たちが下った坂道と、昇った坂道とどちらが多かったか、その差を考えてみればいいのだ」
「降った方が、ずっと多いんじゃありませんか」
「僕もそんなに感じる。地上と水面との距離を差引いても、まだ下った方が多いような気がする」
「すると、もう助かりませんね」
諸戸はなんとも答えなかった。私たちは墓穴のような暗闇と沈黙の中に茫然と立ちつくしていた。水面は、徐々に、だが確実に高さを増して、膝を越え、腰に及んだ。
「君の知恵でなんとかしてください。僕はもう、こうして死を待っていることは、耐えられません」
私は寒さにガタガタ震えながら、悲鳴を上げた。
「待ちたまえ、絶望するには早い。僕はさっきロウソクの光でよく調べてみたんだが、ここの天井は上に行くほど狭く、不規則な円錐形になっている。この天井の狭いことが、もしそこに岩の割れ目なんかがなかったら、一縷(いちる)の望みだよ」
諸戸は考え考えそんなことをいった。私は彼の意味がよくわからなかったけれど、それを問い返す元気もなく、今はもう腹の辺までヒタヒタと押し寄せてきた水に、ふらつきながら、諸戸の肩にしがみついていた。うっかりしていると、足がすべって、横ざまに水に浮きそうな気がするのだ。
諸戸は私の腰のところへ手をまわして、しつかり抱いていてくれた。真の闇で、二、三寸しか隔たっていない相手の顔も見えなかったけれど、規則正しく強い呼吸が聞こえ、その暖かい息が頰に当たった。水にしめった洋服を通して彼のひきしまった筋肉が、暖く私を抱擁しているのが感じられた。諸戸の体臭が、それは決していやな感じのものでなかったが、私の身ぢかに漂っていた。それらのすべてが、闇の中の私を力強くした。諸戸のお蔭で私は立っていることができた。もし彼がいなかったら、私はとっくの昔に水におぼれてしまったかもしれないのだ。
だが、増水はいつやむともみえなかった。またたく間に腹を越し、胸に及び、喉に迫った。もう一分もすれば、鼻も口も水につかって、呼吸をつづけるためには、われわれは泳ぎでもするほかはないのだ。
「もうだめだ。諸戸さん、僕たちは死んでしまう」
私は喉のさけるような声を出した。
「絶望しちゃいけない。最後の一秒まで、絶望しちゃいけない」諸戸も不必要に大きな声を出した。「君は泳げるかい」
「泳げることは泳げるけれど、もう僕はだめですよ。僕はもう一と思いに死んでしまいたい」
「何を弱いことをいっているんだ。なんでもないんだよ。暗闇が人間を臆病にするんだ。しっかりしたまえ。生きられるだけ生きるんだ」
そして、ついに私たちは水にからだを浮かして軽く立ち泳ぎをしながら、呼吸をつづけねばならなかった。
そのうちに手足が疲れてくるだろう。夏とはいえ地底の寒さに、からだが凍ってくるだろう。そうでなくても、この水が天井まで一杯になったら、どうするのだ。私たちは水ばかりで生きられる魚類ではないのだ。愚かにも私はそんなふうに考えて、いくら絶望するなといわれても、絶望しないわけには行かなかった。
「蓑浦君、蓑浦君」
諸戸に手を強く引かれて、ハッと気がつくと、私はいつか夢心地に、水中にもぐっているのであった。
「こんなことを繰り返しているうちに、だんだん意識がぼんやりして、そのまま死んでしまうのに違いない。なあんだ。死ぬなんて存外呑気(のんき)な楽なことだな」
私はウツラウツラと寝入りばなのような気持で、そんなことを考えていた。
それから、どれくらい時間がたったか、非常に長いようでもあり、また一瞬間のようにも思われるのだが、諸戸の狂気のような叫び声に私はふと眼を醒ました。
「蓑浦君、助かった。僕らは助かったよ」
だが、私は返事をする元気がなかった。ただ、その言葉がわかったしるしに、力なく諸戸のからだを抱きしめた。
「君、君」諸戸は水中で、私を揺り動かしながら「いきが変じゃないかね。空気の様子が普通とは違って感じられやしないかね」
「ウン、ウン」
私はぼんやりして、返事をした。
「水が増さなくなったのだよ。水が止まったのだよ」
「引汐になったの」
この吉報に、私の頭はややハッキリしてきた。
「そうかもしれない。だが、僕はもっと別の理由だと思うのだ。空気が変なんだ。つまり空気の逃げ場がなくて、その圧力で、これ以上水が上がれなくなったのじゃないかと思うのだよ。そら、さっき天井が狭いから、もし裂け目がないとしたら、助かるって言っただろう。僕ははじめからそれを考えていたんだよ。空気の圧力のお蔭だよ」
洞窟は私たちをとじこめた代りには、洞窟そのものの性質によって、私たちを助けてくれたのだ。
その後の次第を詳しく書いていては退屈だ。手っ取り早く片付けよう。結局、私たちは水攻めを逃れて、再び地底の旅行をつづけることができたのだ。
引汐まではしばらく間があったけれど、助かるとわかれば、私たちは元気が出た。そのあいだ水に浮いていることくらいなんでもなかった。やがて引汐がきた。増した時と同じくらいの速度で、水はグングン引いて行った。もっとも、水の入口は、洞窟よりも高い箇所にあるらしく(だから、ある水準まで汐が満ちた時、一度に水がはいってきたのだ)その入口から水が引くのではなかったけれど、洞窟の地面に、気づかぬほどの裂け目がたくさんあって、そこからグングン流れ出して行くのだ。もしそういう裂け目がなかったら、この洞窟には絶えず海水が満ちていたであろう。さて数十分の後、私たちは水の滴れた洞窟の地面に立つことができた。助かったのだ。だが、講釈師ではないけれど、一難去ってまた一難だ。私たちは今の水騒ぎでマッチをぬらしてしまった。ロウソクはあっても点火することができない。それに気づいたとき、闇のため見えはしなかったけれど、私たちはきっとまっ青になったことにちがいない。
「手さぐりだ。なあに、光なんかなくったって、僕らはもう闇になれてしまった。手さぐりの方がかえって方角に敏感かもしれない」
諸戸は泣きそうな声で、負けおしみをいった。

