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2017/11/05

柴田宵曲 續妖異博物館 「胡蝶怪」

 

 胡蝶怪

 

「百年(ももとせ)の花に宿りてすぐしてきこの世は蝶の夢にぞありける」といふ歌がある。翩々として花に戲れる蝶の姿は可憐でもあり、物思ひなしといふ風情でもあるから、妖異には緣がなささうに見えるが、必ずしもさうではない。

[やぶちゃん注:「百年(ももとせ)の花に宿りてすぐしてきこの世は蝶の夢にぞありける」は「詞花和歌集」の「卷第十 雜下」の載る、平安時代有数の碩学で、菅原道真と並称されたりもした大蔵卿大江匡房(まさふさ  長久二(一〇四一)年~天永二(一一一一)年)の一首(三七八番歌)、整序すると、

 

   堀河御時、百首歌よめる

 百年(ももとせ)の花に宿りて過(す)ぐして來(き)この世は蝶(てふ)の夢にぞありける

 

言わずもがな、有名な「荘子」の「胡蝶の夢」を下敷きにしたもの。]

 

 穆宗皇帝の宮殿の前には千葉牡丹といふのがあつた。一朶千葉の千は多數の意に解したらよからう。花も紅く且つ大きく、花の吹きはじめは香氣が芬々と人を襲ふ。皇帝も人間未だ有らざるところとして誇つて居られたが、不思議な事に每晩黃白の蝶が萬を以て算ふるほど集まつて來て、花間に飛び𢌞る樣が眩ゆいくらゐであつた。明け方になればどこへか消え去つてしまふ。宮人は皆競つて羅巾(らきん)を揮(ふる)ひ、この蝶を撲たうとしたけれど、一人も捕へ得た者がない。そこで皇帝の命令で網を空中に張り、數百の蝶を宮殿内に追ひ込み、官女をしてこれを捕へしめたところ、夜が明けて見れば、蝶と思つたのは悉く金玉で、その狀の巧緻なること、殆ど此すべきものがない。官女等は紅絲を以てその脚に繫ぎ、爭つて首飾りにした。その後に寶庫を開いたら、多くの金銀が相次いで將に蝶に化せんとしてゐたので、はじめて前の蝶の何者であるかを知り得た。――「杜陽雜編」のこの話は、人の愛する金銀が美しい蝶に化し、花の如き官女は紛々としてこれを逐ふのだから、妖氣は全く感ぜられぬ。蝶に關する奇譚として、理想的條件を具へたものと云へるであらう。

[やぶちゃん注:「千葉」「せんえふ(せんよう)」。一千の葉花。

「一朶」(いちだ)は花の「一(ひと)枝」或いは「ひと群れ・ひと塊り」。

「羅巾」薄絹などで織った、透けて見えるような生地の被り物。スカーフ。

「晩黃白の蝶が萬を以て算ふるほど集まつて來て」夜行性である以上、事実なら、蝶ではなく、蛾の可能性の方が高いわけであるが、そもそもが、中国本草学に於いては「蝶」と「蛾」を明確に分けていない。と言うよりも、現代の生物学でも蝶と蛾に分ける科学的分類は行っていない。蝶と蛾は生物学的には「鱗粉を持つ翅のある」昆虫類として節足動物門 Arthropoda 昆虫綱 Insecta 鱗翅目 Lepidoptera として一纏めにされる。この鱗翅目は一般に「チョウ目」と呼ばれるが、私は鱗翅目を支持するが、分かり易さを主張するなら、寧ろ、「ガ目」とすべき(鱗翅目をこう呼ぶ場合もあるにはある)であると考えている。何故なら、「蛾(ガ)」と認識されている対象の種数は、「蝶(チョウ)」或いはそのように認識されている「蝶類」の種数の、二十倍から三十倍もあり、圧倒的に蛾(ガ)類の方が種(類)数が多いからである。

「杜陽雜編」唐の蘇鶚(そがく)の撰になる実録風小説。以上は「第二卷」の以下。

   *

穆宗皇帝殿前種千葉牡丹、花始開、香氣襲人、一千葉、大而且紅。上每睹芳盛、歎曰、「人間未有。」。自是宮中每夜、卽有黃白蛺蝶萬數、飛集於花間、輝光照耀、達曉方去。宮人競以羅巾撲之、無有獲者。上令張網於空中、遂得數百於殿、縱嬪御追捉以爲樂。遲明視之、則皆金玉也。其狀工巧、無以爲比。而人爭用絳縷絆其、以爲首飾。夜則光起妝奩中。其後開寶廚、睹金錢玉屑之將有化爲蝶者、宮中方覺焉

   *]

 

「酉陽雜俎」に野外に於て黃蝶數十の飛ぶを見、追駈けて行つたら大樹の下に消えた。そこを掘り返して石函及び素書を得、これにより左道を學び、妖賊の首領となる韓といふ男がある。韓は忽ちに多くの信徒を集めたが、或時戰ふに當り、桂州に紫氣がある、自分は必ず勝つと聲明した。その言の通り紫氣は現れたが、一方に白氣が立ち騰つてこれを衝いた爲、紫氣は遂に散じて一面の霧になつた。その年韓は亡くなつたとある。最初の群蝶は石函及び素書の所在を知らしめるものであつたらうが、後の紫氣は韓が左道を學んだ結果で、蝶の因緣は已に離れてゐるものらしい。倂し群蝶亂舞といふことになると、一二羽の蝶が細々と飛ぶのと違ひ、何かたゞならぬものを感ぜしめる。たゞならぬものと妖との距離は、一步か二步に過ぎぬであらう。

[やぶちゃん注:「素書」「そしょ」と読んでおく。特定の固有書名と採っておく。こちらに、

   *

『素書』古くは黄石公の著述、宋代の張商英の注釈と銘打っています。伝えによると、黄石公は秦末の隠士で、張良に兵書を授けました。『素書』の序・考・伝・評から見るに、後の人が黄石公に仮託して書いたものであることは明白で、それは伝説にもとづいたものであるとしています。さらに黄石公が『三略』を書いたとするのも間違った言い伝えであると言い、『素書』は晋代の戦乱のなかである盗賊が張良の墓を盗掘したときにみつけたものであると述べています。そして、秘密の戒めの言葉がついていて、神様のような人、聖人のような人でなければ、本書を伝えてはならないとあったと付け加えています。これらはいずれも偽作した人の杜撰です。原書は六章に分かれており、その内容は道・徳・仁・義・礼の五つは一体であるという黄老の学説を宣伝しており、あわせてこの思想によって国を治め兵を用いるための指針を示しています。その論述は空虚なものとはいえ、この思想の歴代の軍隊の管理と将軍の任用に対する影響はとても深く、封建社会の軍事思想を研究するのにもゆるがせにできない内容の一つです。

   *

とあるが、奥義としての兵法書は使い方を誤れば、テロリストの教本、人類を滅亡させる最終兵器の製造法にもなろう。但し、後掲する原文を見ると、腕ぐらいしかない小さな帛(はく:布)に書かれた「素」(手)書きの文書の意であるのだが、どうも、それではインパクトが弱い気がしてならないので、上記の引用を附し、それらしいものと私は臭わせたいのである

「左道」「さたう(さとう)」「さだう(さどう)」と読む。昔、中国では右を尊び、左を正しくないとしたところから、正しくない道。邪道。邪悪な思想。ここは、その書をもとに、とんでもない邪教的暴力集団を組織したらしい

「妖賊の首領となる韓」宵曲の原文の重大な誤読である。原文を見れば一目瞭然であるが、この話は、唐代の文臣であった韓佽(かんし)なる人物が桂州(現在の広西チワン自治区の山水の美観で知られる桂林)の長官(桂管観察使)であった時に、封盈(ほうえい)という極悪の盗賊がおり云々と、以下、悪党封盈の顛末が続くのである。正直、最後の「其年韓卒」は何故、附されたのか、私にはよく判らぬ(但し、伝奇や志怪小説では、話の最初に出した実在の人物の栄進や没を記すことは極めて普通ではある。少なくとも、本体の話は彼の死とは無関係としか私には読めない。或いは陰陽五行説の立場からはこの桂州を支配していた公的なトップである韓の死を予兆させる現象が、ここに書かれた「気」の生成・相克・消失の孰れかに示されているのかも知れぬ。

 以上は「卷五 怪術」の以下。

   *

韓佽在桂州、有妖賊封盈、能爲數里霧。先是常行野外、見黃蛺蝶數十、因逐之、至一大樹下忽滅。掘之、得石函、素書大如臂、遂成左道。百姓歸之如市、乃聲言某日將收桂州、有紫氣者、我必勝。至期、果紫氣如疋帛、自山亙於州城。白氣直衝之、紫氣遂散。天忽大霧、至午稍開霽。州宅諸樹滴下小銅佛、大如麥、不知其數。其年韓卒。

   *]

 

 「神女傳」にある劉子卿は徐州の人で、盧山の虎溪に住んで居つたが、性幽間にして學を好み、殊に花が好きで、江南の花木植ゑざるものなしといふに至つた。元嘉三年の春、子卿が庭に出て自分の丹精した花を眺めてゐると、忽然二羽の蝶が飛んで來て、餘念なく花の上に遊んでゐる。その大きさは燕ぐらゐもあり、五彩分明なのが一日に三度も四度もやつて來て、翩々と花に戲れてゐるので、子卿も不思議な事だと思つて居つた。然るに或月明の夜、一室にたれこめて詩か何かを微吟しつゝある際、突然戸を敲く者がある。その樣子が一人ではないらしく、女同士の話し聲や笑ひ聲も聞えるやうだから、怪しみながらも恐れることなしに戸を明けて見た。そこに立つてゐるのは年頃十六七の女二人で、勿論それまでに逢つたことはない。女の方では親しげに子卿に向つて、あなたはいつもお庭の花に來る者を不審に思つていらつしやるやうなので、今夜二人で參りました、と云ふ。目のさめるやうな衣裳を著けて、容止は甚だみやびやかである。子卿は忽ち二人の女と懇意になつた。二人は姉妹らしく、姉がとゞまる時は妹が歸り、姉が歸る時は妹が殘るといふ風で、少しも妬んだり爭つたりはしない。子卿は兩女の人間にあらざることを知り、その身の上を尋ねて見たが、お氣に入つたのならそれでいいぢやありませんか、といふのみで答へず、更(かは)る更るやつて來る。この狀態が數年續いたところで亂が起つた爲、子卿は郷里に歸り、兩女との交渉も絶えてしまつた。盧山の康王廟は子卿の家から二十里ほどのところにあつたが、一日こゝへ來て見ると、二女神の像が泥で造つてあり、うしろの壁に二人の侍者が畫かれてゐる。どこかで見た容貌だと思つたら、先年來更る更る自分の許に來た兩女に相違なかつた。

[やぶちゃん注:「神女傳」孫頠(そんぎ)撰になる唐代伝奇集。

「徐州」現在の江蘇省北西部の徐州市。近代、一九三八年に日中の大会戦が行われ、一九四八年には内戦において人民解放軍が国民党軍に勝利した所として有名。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「虎溪(こけい)」廬山にある東林寺(ここ(グーグル・マップ・データ))の前の渓谷。画題として好まれた「虎渓三笑」の故事で知られる。六朝東晋の時、この寺に慧遠(えおん 三三四年~四一六年)という学僧がおり、白蓮社(四〇二年に自らから創建した東林寺に於いて僧や知識人らからなる同志百二十三人とともに阿弥陀浄土への往生を誓願した念仏結社。名は寺の傍らの池に白い蓮を植えたことに由来する。彼の念仏行とは後世の「浄土三部経」に基づく称名念仏とは異なるもので、浄土教典の先駆的作品とされる「般舟三昧経(はんじゅざんまいきょう)」に基づいた禅観の修法であった)を結成、西方往生を期して三十年もの間、山を一歩も出なかった。ところが、ある日、陶淵明(三六五年~四二七年)と陸修静(四〇六年~四七七年 道士で道教教学の優れた学者であった)の両人が彼を訪ねて清談し、両人が帰る際して、慧遠は送りに出たが、それでも話が尽きず、いつもは結界として出なかった虎渓に架かる石橋を渡ってしまい、気づいた時には、虎渓を数百歩も過ぎていた。そこで三人ともに手を打って破顔大笑したという禅味に富んだ話である。しかし、淵明はいいとしても、陸修静は生年から無理がある。

 以上は「太平廣記」の「神五」に「八朝窮怪錄」を出典として「劉子卿」で載る以下。

   *

宋卿子卿。徐州人也。居廬山虎溪。少好學、篤志無倦。常慕幽閑、以為養性。恒愛花種樹、其江南花木。溪庭無不植者。文帝元嘉三年春、臨翫之際、忽見雙蝶、五彩分明、來游花上、其大如鷰、一日中、或三四往復。子卿亦訝其大。九旬有三日、月朗風淸。歌吟之際、忽聞扣扃、有女子語笑之音。子卿異之、謂左右曰、「我居此溪五歳、人尚無能知、何有女子而詣我乎。此必有異。」。乃出、見二女。各十六七、衣服霞煥、容止甚都。謂子卿曰、「君常怪花間之物。感君之愛、故來相詣、未度君子心若何。」。子卿延之坐、謂二女曰、「居止僻陋、無酒叙情。有慙於此。一女曰、「此來之意、豈求酒耶。況山月已斜、夜將垂曉、君子豈有意乎。子卿曰、「鄙夫唯有茅齋、願申繾綣。」。二女東向坐者笑謂西坐者曰、「今宵讓姊。餘夜可知。因起、送子卿之室。入謂子卿曰、「郎閉雙棲、同衾並枕。來夜之歡、願同今夕。」。及曉、女乃請去。子卿曰、「幸遂繾綣、復更來乎。一夕之歡、反生深恨。」。女撫子卿背曰、「且女妹之期、後即次我。將將原作請。據明鈔本改。出、女曰、「心存意在、特望不憂。」。出不知蹤跡。是夕二女又至、宴如前。姊謂妹曰、「我且去矣。昨夜之歡。今留與汝。汝勿貪多誤、少惑劉郎。」。言訖大笑、乘風而去。於是同寢。卿問女曰、「我知卿二人、非人間之有。願知之。」。女曰、「但得佳妻、何勞執問。」。乃撫子卿曰、「郎但申情愛、莫問閑事。」。臨曉將去、謂卿曰、「我姊實非人間之人、亦非山精物魅、若於郎、郎必異傳、故不欲取笑於人代。今者與郎契合、亦是因緣。慎跡藏心、無使人曉。即姊妹每旬更至。以慰郎心。」。乃去、常十日一至、如是數年會寢。後子卿遇亂歸郷、二女遂絶。廬山有康王廟。去所居二十里餘。子卿一日訪之、見廟中泥塑二女神。幷壁畫二侍者。容貌依稀、有如前遇、疑此是之。

   *

なお、宵曲の文章も、原文も、孰れも読んでいて気になったのは、最後の部分で、「子卿は郷里に歸り、兩女との交渉も絶えてしまつた」の部分と、「盧山の康王廟は子卿の家から二十里ほどのところにあつたが、一日こゝへ來て見ると、二女神の像が泥で造つてあり、うしろの壁に二人の侍者が畫かれてゐる。どこかで見た容貌だと思つたら、先年來更る更る自分の許に來た兩女に相違なかつた」というシークエンスは、時制的にはかなり時間が経って、恐らくは乱が収まって、再び、廬山の旧居に戻った子卿が、ぶらりと二十里ばかり(原典の「神女傳」の成立は唐代であるから一里は五五九・八メートルで、十一キロメートル強。四時間半もあれば行ける距離である)散歩し、絵の中の神女に「先年」に契った姉妹の姿を見出したのである。]

 

 これは支那の話によくある畫が人と契る話で、最初大きな蝶になつて飛んで來たのは、子卿が花好きであるため、接近する機會を得ようとしたものであらう。蝶が人に化したのではない。畫中の女が先づ蝶になり、次いで繪姿のまゝ尋ねて來るのだから、蝶としての場面は寧ろ少いわけである。「子不語」に記された胡蝶の怪はこんなものではない。

 京師に住む葉某は易州の王四と仲がよかつたが、王が七月七日に六十の祝ひをするといふことなので、わざわざ驢馬に乘つて出かけた。日暮れ近く房山を過ぐる頃、一人の偉丈夫が馬を飛ばしてうしろから追ひ付いた。どこへおいでなさるかと問はれて、ありのまゝに答へると、王四ならば私の從兄弟です、私もこれから祝ひに行くところですから、御一緒に參りませう、と云ふ。實は思ひがけず道連れの出來たのを喜んだが、その男はやゝもすれば葉のうしろへ𢌞らうとする。葉が道を讓つて先へ行かせても、いつの間にかまたうしろになつてゐる。これは泥坊ではあるまいかと疑ひ、屢々振返つて見たが、日は全く暮れて顏などもよくわからぬ。時々稻光りの閃くのに照らすと、男の首は馬の下に在り、兩脚は空を踏んだやうな形になつてゐる。口からは黑い氣を吐き、舌の長さは一丈餘りあつて、その色が眞赤である。葉は慄へ上つたけれど、今更どうにもならぬから、驢馬を急がせて漸く王四の家に著いた。王はよろこんで二人を迎へ、直ちに酒盛りになる。ひそかに一緒に來た男の事を聞いて見たら、これは從兄弟の張某で、現に京師のかうかういふところに住み、鎔銀を以て業としてゐるといふ話なので、いくらか安心したやうなものの、路上で見た恐ろしい姿は目を離れない。愈々寢る段になつて、葉は同じ室に寢るのを斷らうとしたが、男の方では頻りに強要する。遂に王に賴んで、下男の一人に一緒に寢て貰つた。葉は一晩中まんじりともせぬけれど、下男は高鼾で寢てゐる。そのうちに例の男が坐つて、舌を吐いたと思ふと、一室が明るくなつた。鼻を以て葉の寢てゐる帳(とばり)を嗅ぎ、涎を流す模樣であつたが、忽ち兩手を伸して下男を捉へ、鬼一口に食つてしまつた。葉は平素から關神を信仰してゐたから、一心不亂に、伏魔大帝我れを助け給へ、と祈り續ける。鐘鼓の聲が起るのと、關帝が大きな刀を提げて梁から下りて來るのとが同時であつた。怪は忽ち車輪の如き胡蝶となり、翅をひろげて刀を拒がうとし、暫くぐるぐる𢌞つてゐたが、突然恐ろしい雷の音がして、胡蝶も關神も共に見えなくなつた。葉は昏倒して何もわからぬ。翌日の午(ひる)になつても誰も起きて來ぬので、王四が怪しんで門を明けると、葉もはじめて氣が付き、つぶさに昨夜の始末を話した。成程鮮血が地にこぼれて居り、張某と下男とが紛失してゐるが、彼の乘つて來た馬はそのまゝ厩に繋がれて居つた。それから急に人を退はして張其の家の樣子を見させたら、彼は爐の前に踞んで銀を燒いて居り、易州へ祝ひに行つたことなどはないと答へ、全く知らぬ樣子であつた。

[やぶちゃん注:「拒がう」「ふせがう」。防ごう。

 以上は、「子不語」の「第二卷」の以下。

   *

京師葉某、與易州王四相善。王以七月七日爲六旬壽期、葉騎驢往祝。過房山、天將暮矣。一偉丈夫躍馬至、問、「將何往。」。葉告以故。丈夫喜曰、「王四、吾中表也。吾將往祝、盍同行乎。」。葉大喜、與之偕行。丈夫屢躡其背、葉固讓前行、僞許、而仍落後。葉疑爲盜、屢囘顧之。時天已黑、不甚辨其狀貌、但見電光所燭、丈夫懸首馬下、以兩脚踏空而行。一路雷與之俱。丈夫口吐黑氣、與雷相觸、舌長丈餘、色如硃砂。葉大駭、卒無奈何、且隱忍之、疾驅至王四家。王出與相見、歡然置酒。葉私問、「與路上丈夫何親。」。曰、「此吾中表張某也、現居京師繩匠衚衕、以熔銀爲業。」葉稍自安、且疑路上所見眼花耳。酒畢、葉就寢、心悸、不肯與同宿。丈夫固要之、不得已、請一蒼頭伴焉。葉徹夜不寐、而蒼頭酣寢矣。三鼓燈滅、丈夫起坐、復吐其舌、一室光明。以鼻嗅葉之帳、涎流不已。伸兩手、持蒼頭啖之、骨星星墜地。葉素奉關神、急呼曰、「伏魔大帝何在。」。忽訇然有鐘鼓聲、關帝持巨刃排梁而下、直擊此怪。怪化一蝴蝶、大如車輪、張翅拒刃。盤旋片時、又霹靂一震、蝴蝶與關神俱無所見。葉昏暈仆地、日午不起。王四啓門視之、具道所以。地有鮮血數斗、牀上失一張某與一蒼頭矣。所騎馬宛然在厩。急遣人至繩匠衚衕蹤跡張某、張方踞爐燒銀、並無往易州祝壽之事。

   *]

 

 この胡蝶怪の正體は何者であるかわからぬ。芥川龍之介が「蝶の舌鐡條(ぜんまい)に似る暑さかな」と詠んだ蝶の舌は、見方によつては隨分無氣味なもので、あれを顯微鏡下に置いたら、或はこんな幻想が生れるかも知れぬ。蜘蛛や蝙蝠ならいざ知らず、蝶ががりがり人を食ふに至つては、正に驚天動地の出來事である。荒唐無稽、奇怪至極を賣り物にする日本の草雙紙でも、こんな趣向は先づあるまい。

[やぶちゃん注:蝶はしかし実は、人間の死体の腐敗した体液にさえ群がることもあるのである。

「蝶の舌鐡條(ぜんまい)に似る暑さかな」芥川龍之介の大正七(一九一八)年八月の会心の一句。]

 

「子不語」の胡蝶怪に對抗するわけには往かぬが、「旌異記」の一話なども、胡蝶譚として特筆に値するものである。宋の童貫の將(まさ)に敗れんとする頃、料理人が庖廚で食事の支度をしてゐる上、鼎や釜が突然聲を覆し、烹てゐた肉が一齊に蝶になつて舞ひ立つた。いつまでたつても舞ひやまぬ。童貫は僮僕に命じて打ち落させようとしたが、一つも打ち落すことが出來ない。その時二疋の犬が婦人の衣を著け、棒を持つて現れ、人のやうに立ち上つて、こんなものはわけありませんよ、と云つたかと思ふと、棒を揮つて片端から打ち落す。蝶は紛々として地に落ち、悉く鮮血となつたが、犬はどこへ行つたかわからなかつた。童貫が誅に伏したのはそれから間もなくであつた。

[やぶちゃん注:「旌異記」(せいいき)は隋の侯白(高祖文帝の秘書で国史編纂に携わった)の佚書。志怪を偏愛した魯迅の「古小説鈎沈(こうちん)」に十条を収め、他に「酉陽雜俎前集」に未収録の佚文が載る。残るそれらは因果応報譚が殆んどである。しかし、この話は「旌異記」には見出せない。宵曲の誤認ではあるまいか? そもそも「宋の童貫」というのは北宋末の政治家で軍人で宦官であった怪人物童貫(?~一一二六年)のことではないか?ウィキの「童貫」によれば、権力を恣にしたが、最後は『死罪となり、特命を受けた御史張徴の手で斬首された。童貫の首は鉄のように固く、門の敷居を断頭台代わりにしてやっと切り落とすことが出来たと伝えられている』とある)ともかく、原典の出処が判らぬ。識者の御教授を乞う。]

 

 この蝶は明かに凶兆である。犬が女服して現れたのは、どういふ意味かわからぬが、かういふ四足類が人のやうに立つといふのは、よくない場合に限られてゐる。蝶が打たれて地に落ち、悉く鮮血となるなどは、童貫の最期を暗示してゐるかと思ふ。倂し肉が蝶に化して舞ひ立つのは童貫の場合には限らない。名前は傳はつて居らぬけれど、唐時代に南といふ鱠(なます)作りの名人があつて、誰よりも細く輕く、吹けば飛ぶやうに切れるといふのが自慢であつた。庖丁の牛を解く話が「莊子」にあるが、この男が刀を操る場合にも一種のリズムがあつたらしい。或時客を會して得意の腕を持つてゐると、突然暴風雨が家を震はせ、鱠は一齊に蝶と化して飛び去つた。南は甚だ驚懼して遂に刀を折り、その後は誓つて膾を作らなかつたと「酉陽雜俎」に見えてゐる。これは果して凶兆であつたかどうか。南の伎に誇るのを戒めたまでだとすれば、刀を折つて鱠作りをやめたのは機宜に適したわけである。蝶は遂に鮮血にならずに濟んだ。

[やぶちゃん注:「誓つて膾を作らなかつた」の「なます」のみが「膾」となっているのはママ。

『庖丁の牛を解く話が「莊子」にある』「荘子内篇第三」の「養生主篇」にある私の好きな話。「肯綮(こうけい)に中(あた)る」(物事の急所をうまくつくこと・要点を巧みに探り当てること。「肯」は「骨についた肉」、「綮」は「筋と肉の繋がる部分」を指し、牛を料理するに際してそこに包丁を入れれば、難なく軽く綺麗に解体出来ることから、「急所・物事の要(かなめ)」の意として用いられる故事成句となっている。但し、厳密には、それ以上の自然の理に基づいて包丁は動く、と原典では言っており、その刀の当たる感じは、絶対の空虚を進むように完全なる無抵抗で斬れる、と言っていることはあまりよく知られているとは思われないので特に附言しておく

 以上は、現在の「酉陽雜爼」には見出せないが、確かに、「太平廣記」の「妖怪六」には「酉陽雜爼」からとする「南孝廉」がある。以下。

   *

唐南孝廉、失其名、莫知何許人。能作鱠。縠薄縷細。輕可吹起。操刀響捷、若合節奏。因會客衒伎。先起架以陳之、忽暴風雨。震一聲。鱠悉化爲胡蝶飛去。南驚懼、遂折刀、誓不復作。

   *]

 

 

「夜譚隨錄」に靈官廟のほとりで、夜二羽の粉蝶の舞ふのを見るところがある。時は冬の最中であるし、特に深夜の事だから蝶などのゐる筈はないといふので、近寄つてよく見たら二枚の紙錢であつた。この話は「白蝶怪」(岡本綺堂)の初めに取り入れられてゐる。拍子木を打つて夜𢌞りが現れ、問答するあたりも略々同じであるが、その後の複雜な筋とは全然關係がない。

[やぶちゃん注:「粉蝶」現代中国語では、これは鱗翅目アゲハチョウ上科シロチョウ科シロチョウ亜科シロチョウ族モンシロチョウ属モンシロチョウ Pieris rapae を指す。されば、夜間に飛ぶのは確かに不審である。

 以上は「夜譚隨錄」の「卷三 紙錢」。

   *

友人護軍景君祿、居近城北、一夕、同其友富海歸家、路經靈官廟、漏已三下。倏見二粉蝶、翩翩飛繞、去地二尺餘。時際隆冬、且深夜、烏得有蝶。就視之、則二紙錢也。並無風、相去咫尺、旋轉對舞不已、大以爲怪。適一人騎馬自西來、馬耳聳鼻鳴、連鞭不進、其人厲聲問、「二人胡爲者。」。景指紙錢令觀之。擊拆老軍過而誡之曰、「各走路、何管閒事。卽此一席地、已倒斃二人矣。」。騎者懼、疾馳而去。景、富皆少年好事、直追隨紙錢、至人家矮牆下、旋入狗竇中、始散。是年富死、又二年景亦亡。

   *

『「白蝶怪」(岡本綺堂)』私の愛する「半七捕物帳」シリーズの一篇「白蝶怪」は「青空文庫」ので読める。]

 

 鄭といふ人が次男のために嫁を迎へ、三日に亙り盛大な宴を開いた。招かれた客の一人がふと氣が付くと、明るい燭光の上に十數人の小人が現れて、小さな棺を擔ぎながらぐるぐる𢌞つてゐる。傍の人も皆これを見たが、鄭だけには全く見えなかつた。小人の姿は忽ち消えて、今度は白い蝶が何十も家を繞(めぐ)つて飛んでゐる。これは鄭にも見えたので、彼は厭な顏をして酒を飮むのをやめてしまつた。家を繞つて飛ぶ蝶は必ずしも凶兆とは思はれぬが、それが白蝶ばかりで、棺を擔ぐ小人のあとから現れた爲、氣に病むことになつたらしい。鄭は道士を呼んで二日間お祓ひをさせた。その最後に焚いた紙が風に舞ひ上つたと思ふと、軒先に燃え付いて眞赤な火焰となる。火は向う側の絲屋に飛んで燃え上り、延燒百餘戸に及んだが、鄭はこの火のために燒け死んだと「鬼董」にある。邪を拂ふ筈の火が災禍を招いたので、日本の振袖火事などと多少共通するところがある。

[やぶちゃん注:以上は春秋時代の晋の董狐(紀元前六五一年~紀元前五七五年)の撰になる志怪小説集「鬼董」(一名「鬼董狐」・全五巻)の「卷四」に載る以下。

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都民鄭生、居中瓦南爲京果肆。次子娶婦三日、大合客、客有見燭光上人物長數寸者、十餘輩負一小棺囘旋而行、指以示人、人皆見之、莫不愕然。獨鄭老無睹也。須臾滅沒、乃有白蝶數十繞屋而飛。鄭老不樂、罷酒、意非吉證。又兩日、呼道士設醮禳之、畢事、焚楮泉、囘風飄火著屋楣上、烈焰隨起、對賣線家植兩竿於門、不知火從何來、對然如炬、遂延燒百餘家。鄭老以焚死。

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「折々草」にある「蝶に命とられし人」といふのは、奧州の或大名に仕へた武士であつたが、生れついての蝶嫌ひであつた。常々春はいゝ時節だけれど、蝶の飛び步くのが厭だと云ひ、天氣のいゝ日は引籠つて、雨の日ばかり步いてゐた。友達がこれを怪しんで、春雨の降り續く頃にこの男を招いた。酒の相當𢌞つた樣子を見はからび、一間に押し入れて戸をさしかため、かねて取つて置いた蝶を三つ四つ放つたところ、大聲を揚げて逃げ步く樣子であつたが、やがて物音もなくしづまり返つた。もうあの男の蝶嫌ひの癖もなほつたらうと、襖を明けて見れば、仰向けに倒れて死んでゐる。驚いて抱き起し、藥などを與へて見たが、已に手おくれであつた。ものの嫌ひは理窟以外の話だから、この男が蝶におびえたのは怪しむに足らぬとして、放たれた蝶が悉くその男の鼻の孔に入つて死んでゐたといふのは、いさゝか怪談じみて來る。日本の蝶に怪を求めれば、先づこの話ぐらゐなものであらう。

[やぶちゃん注:「折々草」の「蝶に命とられし人」は以下。岩波新古典文学大系版を恣意的に正字化して示す。読点を追加してある。原典のカタカナ・ルビの再現は一部のみとした。

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    蝶に命とられし条

 

 みちのくの人のかたり侍りき。

 ある國の守に仕(ツカ)はれける武士の、生(ア)れながら、かのてこなをきらひて、常にいふ、「春はおもしろき物なれど、てこなが飛(トビ)ありくぞ、うたてあるかな。いづこ行べきともおもはず」とて、よき日にはこもりをり、雨のしとゞにふりくらす日には、花見むとてぞいでありきける。友どちこれをあやしみて、「ことものかな。實に癖ならばあしき性(サガ)なり。ためしてや、みむ」とて、春の雨のつぎてふる比、「花みて、酒のみせばや」といひ遣りぬれば、來たれり。

 みな、ゑひ、すゝみたるはしに、かの男をば議(ハカ)りて、ひと間に入れおき、戸をさしかためて、てこな、三つ、四つ、とりおきて侍るを、放ちいれければ、此男、大ごゑを出し、「あなや、ゆるしてよ」とさけびて、あなたこなた、にげありく音しけるが、しばしして、音もなく、なりにたり。「さこそ癖は直りつらめ」とて、ひらきてみれば、のけざまにたふれて死ゐたり。人〻あきれてかいおこし、藥など、いへども、手足、氷りて、死いりぬ。さてみれば、放ちたるてこなどもは、鼻の孔(アナ)にはひ入て、これらも、ともに、死をりけり。甥、弟なども、はべる人にて、後はかゝる事としりけれど、かたきといひ出む筋にもあらねば、そのまゝになりにけり。

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文中の「てこな」は蝶を指す津軽地方の方言。「折々草」の作者である建部綾足(たけべあやたり 享保四(一七一九)年~安永三(一七七四)年)は陸奥国弘前藩家老喜多村政方の次男として江戸に生まれ、弘前で育った。「こともの」「異者」。変わった奴。「はしに」底本注に時間が経過したことを指す万葉語とする。建部は国学者でもあった。]

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